触れることで、伝えられる何か。
朝、リクが目を覚まして部屋から出ると、もうナオは出勤の準備を終えていた。
「おはよう、リク。夏休みだからってだらだらしてるなよ?」
そう言って、図面ケースを肩に担ぐ。
せめて玄関まで見送ろうとその後ろに着いていこうとすると。
不意にナオはくるり、と振り返って。
じっ、とリクの方を見た。
「・・・なんだよ?」
「あんたちょっと」
ナオは手を伸ばすと、リクの頭の上に掌を載せた。
二人の背の高さは丁度同じくらいだろうか。
ナオの身体がリクに触れて、ふわっとシャンプーの甘い匂いがした。
「また少し背が伸びたね」
「ああ、多分もう母さんより三センチは高いよ」
入学してすぐの身体測定の段階で、既にナオとはほとんど差が無かったはずだ。
最近は成長期なのか、リクは自分でもわかるくらい背が伸びて来ている。
「ええっ!?それは無い、無いよ!」
ムキになって否定すると、ナオはリクの頭を両手でぎゅうっと押さえつけた。
「いて、何すんだよ」
「酷い、勝手に私より背が高くなるとか酷過ぎる」
「いいじゃん別に、母さんだってそんなチビってわけでもないんだから」
「並んで歩いて私の方が背が低いってことが許せない」
ナオはぷりぷりと怒りながら玄関に向かって歩いて行った。
「まったく、そういう所だけ父親似になるんだから」
リクはその言葉にはっとしたが。
「行ってきまーす」
もうナオは外に出て行った後だった。
リクが神社に行くと珍しい姿があった。
トヨと一緒にいたのは、月にいるという白猫シロだった。
「やあ、リク、良い所に来てくれたね」
トヨが笑顔でリクをシロの所に招いた。
「こんにちは、リクさん。シロと申します」
「どうもこんにちは。ええっと、月にいるのでは・・・」
「トヨ様がどうしてもとおっしゃるので、今日は特別です」
普段ぶっきらぼうな物言いのサキチを相手にしているからだろうか。
物腰丁寧な女性の声で話されて、リクは少し戸惑った。
「じゃあ早速試してみようか」
何処か楽しそうな感じで、トヨはリクの方に手を差し出した。
「リク、私の手を握ってくれ」
言われるままに、リクはトヨの手を握った。
小さな、柔らかい手。
トヨはにっこりと笑った。
「うん、これでいい」
強く握り返してくる。
リクは心臓が高鳴るのを感じた。
「じゃあ空いてる方の手で、シロに触れてくれ」
リクはその場にしゃがみこむと、シロの頭にそっと触れた。
月にいる猫には、実体が無いという。
だが、リクが持つ視る力は、実体のないモノに触れることが出来る。
あたたかい、ふわっとした感触。ふっくらとした猫の手触り。
「凄いですね、リクさん」
シロがうっとりとしている。
リクにとっては、目の前にいる猫を撫でているだけのつもりなので、なんだかよくわからない感じだった。
「うん、そうか、こんな感じか。リク、もうちょとこう全体を撫でるように」
トヨが色々と指示してくるので、リクはその通りにシロの身体を優しく撫でた。
すると、段々とその感触が変わってくるのがわかった。
なんというのだろうか、手で触れているものが、しっかりとしてきているというか。
「まあ大体こんなものだろう。リク、もういいよ」
トヨに言われて、リクはシロを撫でる手を止めた。
改めて目の前にいるシロを見ると、なんだか先ほどまでとは少し印象が異なって感じる。
光に包まれたようにぼんやりとしていたシロの姿が、何故だろう、うっすらと汚れているような。
「リクの手触りの感覚を分けて貰ってね、急ごしらえだけど仮初の身体を作り上げてみたんだよ」
実体を作り上げたということか。
リクはまじまじとシロの姿を眺めてみた。
確かに、見え方が明らかに違う。
影が濃い、とでも言うべきか。
「まあ簡単なハナシじゃないし、もってせいぜい数時間といったところかな」
そんな会話をしていると、何処からともなくサキチが現れた。
「なんだ、呼び出されて来てみれば、どうしてお前が・・・」
そこまで言って、サキチはピクリと動きを止めた。
目の前にいるシロがいつもと違うことを察したのだろう。
「・・・なんだか久しぶりだから、体が重いわ」
シロがゆっくりとサキチに近づく。
そして、その体を擦りつけた。
「本当に、懐かしい」
「これは、一体どういうことなんだ?」
驚くサキチに、トヨが説明した。
「サキチにはいつも世話になってるからね。何かお礼が出来ないかな、って考えてたんだ」
サキチはこの辺りの猫のまとめ役だ。
稲荷神社でトヨの補佐をしたり、リクの様子を見たりする以外にも。
悪さをするモノや死霊を排除するために、日夜猫たちを率いて活躍している。
トヨにとっては、日々この上ないほどにお世話になっている。
「私だけだと難しいことでも、リクが手伝ってくれれば、案外色んなことが出来るんじゃないかなぁ、ってちょっと思い立ってさ」
トヨだけなら、シロの手触りを知ることはどうあがいても出来ないことだ。
疑似的なものや、似たようなものを作り出すことは出来ても、それはあくまで良く似たものにすぎない。
だが、リクの持つ力を介在すれば、あるいは可能かもしれない。
「で、やってみた。出来るもんだね」
「トヨ様・・・」
サキチは大きく目を見開き、シロの方を見た。
シロはサキチの横で座っている。
「・・・こんなことをして、未練だけが残ったらどうしてくれるんです」
「サキチ、私はね」
トヨの声は、静かだが力強かった。
「触れることの出来ないつらさについては、良くわかっているつもりだよ」
サキチは黙った。
その体を、シロが優しく舐めた。
「ごめんなさい、私からもトヨ様にお願いしたの」
「どうしてそんな」
「・・・私も、少しも後悔していないわけじゃないの」
シロが月に行くことを、サキチは良く思っていなかった。
シロの力が強いことは認めていたが、自分の恋人を快く差し出せるような、そんな気持ちにはなれなかった。
「あなたが何よりも、私のことを気にかけてくれていること、わかっていた」
月に行くということは、一歩間違えれば、そのまま存在が消えるということ。
「ねえ、覚えてる?私が月に行った日のこと」
月の猫の秘儀を受けることで、シロはその実体を失い、二度と仲間たちと触れ合うことが出来なくなる。
その儀式の場に。
「あなたは来てくれなかった」
サキチは姿を見せなかった。
「私に触れられる最後の日に、あなたは来てくれなかった」
儀式を終えれば、その時を逃せば。
シロとサキチは、もうお互いの身体を、臭いを。
感じることが出来なくなる。
身体を持つ生きた猫としての最後の場に。
サキチは現れなかった。
「あの時、私は後悔した。無くしてはいけないものを無くしてしまったんじゃないかって」
自分で望んだことのはずなのに。
それを無くしてまでも得るべきことだったのか。
シロの声は震えていた。
「俺は、お前に未練を残して欲しくなかったんだ」
サキチは、シロの前に姿を見せることで、シロの決意を揺るがせたくなかった。
月に行くということは、その力を認められたということ。
猫にとっては名誉でもある。
「お前が月に行くなら、俺が未練になってはいけないと、そう思ってた」
シロ自身が志願し。
シロ自身が選んだ月行きであるなら。
サキチの存在がその枷となってしまって良いはずがない。
シロを失いたくないという自分の気持ちが、シロの心を迷わせてしまうことのないように。
サキチは、儀式の場には行かなかった。
「お互い、酷い擦れ違いね」
シロが笑った。
「まったくだ」
つられて、サキチが笑った。
リクは、サキチのそんな笑顔を見るのは初めてな気がした。
「ほら、そんなに長くはもたないんだ。折角の時間、有意義に過ごしたまえ」
サキチはシロを伴って、神社から出て行った。
何度か、シロが振り返ってこちらを見ていた。
寄り添って歩く二匹の猫の後姿を、リクはぼんやりと見つめていた。
「リク、ありがとう。もういいよ」
トヨがつないだ手を持ち上げる。
リクはずっとトヨの手を握ったままだったことに気が付き、慌てて離した。
「わ、ごめん」
「そんなに慌てないでよ。ちょっと傷ついちゃうよ?」
トヨは悪戯っぽく微笑んだ。
「えっと、ごめん」
「謝ってばっかりだなぁ」
何と言えばいいのかわからず、リクは黙ってうつむいた。
サキチとシロが去った後、トヨはどこか遠くを見ていた。
猫たちは共有意識でつながっている。
どこにいても意思や気持ちを伝えあうことが出来る。
しかし、直接でなければ、触れ合わなければ伝えられないものもある。
今は人間も、道具を使って遠くの人間と言葉を交わすことが出来るが。
多分、それだけでは伝えられないこともある。
リクはトヨとつないでいた手を見下ろした。
まだ感触が残っている。トヨのあたたかい掌。
「リク」
トヨがリクを呼んだ。
「すけべ」
「えっ」
急にそんなことを言われるとは思いもしていなかったので、リクは激しく動揺した。
「つないでいた手のことを考えてたんだろう?」
「いや、それは、そうだけど・・・」
口ごもるリクの様子を見て、トヨは小さく息を吐いた。
「リクの力は凄いよ。今日は本当に感謝している」
実体の無いモノに触れる力。
トヨに、触れられる力。
「また力を貸してくれると嬉しい」
そう言って、トヨは改めて手を差し出した。
「・・・うん」
リクはトヨの手を握った。
目の前のトヨを、じっと見る。
「なんだい?これ以上のサービスをご所望かい?」
「いや、そうじゃなくて」
トヨはリクよりも、ほんの少し背が低い。
そう考えてから、自在に見た目が変えられるという話を思い出してため息をついた。
トヨが不機嫌そうにリクを睨んだ。
「勝手に納得してため息までつかないでくれるかな」
「ゴメン、ちょっと身長のことが・・・」
リクの言葉を聞いて、トヨは更に不機嫌な顔になった。
「・・・それ少し気にしてるのに。今まであえて言ってなかったのに」
いじけたみたいに、ぼそっと呟く。
「え?自由に変えられるんだろ?」
「出来るよ、変えられる。でもそういうことしてると自分を見失いがちになるから、私は基本的に人間だったころの外観そのままにしてるんだよ」
「そうなんだ。じゃあ・・・」
何気なく、リクは上から下にトヨの全身を眺めた。
トヨの顔が真っ赤になった。
「リク、このすけべー!!」
天罰という名のビンタを残して、トヨは拝殿の中に引っ込んでいった。
その夜、リクの部屋にサキチがやってきた。
「シロはどうしたの?」
「あいつはもう帰ったよ。もともと仕事熱心な奴だからな」
サキチはその場で丸くなった。
「リク、今日はありがとうな」
元気でやっている。
口ではそう言っていても、サキチの中ではなかなか割り切れていなかった。
本当のシロはもういない。触れることも出来ない。
月にいるシロは、本当のシロではない。
そんな考えが、ずっとわだかまっていた。
「でも今日、久し振りにアイツに会って、アイツに触れて、よくわかった」
触れ合うことで、伝えられること。
「アイツはちゃんといる。心の中だけじゃない、ちゃんと存在しているって」
シロは、サキチの良く知るシロは、存在している。
「リク、本当にありがとうな」
リクはトヨとつないだ手の感触を思い出していた。
強く握ったトヨの手は、あたたかく、柔らかかった。
トヨに触れて、リクは何かを伝えられただろうか、トヨは何を伝えてくれただろうか。
「なあ、リク」
サキチが起き上がった。
「トヨ様のこと、よろしく頼む。トヨ様には、リクが必要だ」
そう言い残して、サキチは夜の街に消えていった。
リビングに行くと、ナオがソファに座ってテレビを観ていた。
「ねえ、母さん」
「んー、なにー?」
仰向けに顔だけリクの方に向けてくる。
「父さんって、背、高かったの?」
リクの言葉を聞いて、ナオは小さく笑った。
「丁度ね、乗っかるのよ」
父の話をする時のナオは、いつも楽しそうだ。
「あの人の顎が、私の頭の上に。それが悔しくってさ」
それはまだまだ遠いな、とリクはそう思った。