酔拳ドクター(コメディー)
小さなアパートに暮らしているママとボク。
幼稚園から帰ってきたばかりで、さあこれからボクは服を着替えてママと近所のデパートに買い物に行くぞと用意している所だった。
ボクがどのおもちゃを持って行こうかと、箱の中から緑一色のガモレンジャー人形を取り出し手に取った時だ。ボクの後ろで、ドサッと大きな物が落ちるような音がした。
え、と振り返って見ると。ママが台所で倒れていたのだった。
「マ、ママ!?」
ボクはびっくりしてすぐに駆け寄る。ポンポンと、うつ伏せだったママの肩あたりを叩いた。「う……うう……」
苦しそうに息を吐くママ。ボクは怖くなって、ママの体を揺さぶる。「ママ、ママぁ!」
パニック。ボクは混乱して、ママの名前ばかりを呼ぶ。
どうしようと思っていた矢先だった。
パリーンンッ! ……
凄まじいガラスの割れる音が少し離れた所でした。
涙でべチョべチョだったボクの顔は、音のした背後へ振り返る。そうしたらだ。
ビュオオオオ……
風がボクの頬に当たった。ボクと、うつ伏せに倒れているママの前には――。
割れたベランダのドア、ガラスの穴から入ってきて、『侵入者』が立ちはだかっていたのだった。
白衣を着た背が高く細い体つきの男の人。
黒髪は襟足あたりで外ハネだ。片目には眼帯を着けている。
そして頭には額帯反射鏡を。首から聴診器をぶら下げている。
片手にはアルミ製スーツケース。黒のスラックスを履いた細い足先には黒の紳士靴。
よく見ると、手には薄い白のゴム手袋をはめているようだ。
ん?
胸元には、もう一つ首から何かを下げている。
カードケースが紐でぶら下げてあるようだ。何かが書いてある。何だ……?
『 酔 拳 ド ク タ ー 』
……?
……ダメだ。ボクには、漢字もカタカナもまだ読めない。
でも。ボクにはすぐにわかったんだ! この、後ろから風に全身打たれつつも堂々とベランダからやってきたヒーローの正体を!
「お医者さんだね!」
ママが倒れた事に気がついて、飛んできてくれたに違いない! ……ボクは そう思った。
「やあ正太郎君。はじめまして。アチョー!」
お医者さん――せんせいと呼ぼう。せんせいは、円を描くように片手片足を回しながら、ボクらの所に近づいてきていた。
変わったせんせいだなぁ。いいや、そんな事は。そんなつまらない事より、今はママの一大事なんだ。早く診てもらわなきゃ!
せんせいは、ママの傍らに座ると。胸やオデコに触れて顔色を窺って、白衣のポケットから取り出した細い棒状のペンライトで口の中や目の瞳孔を確認した。聴診器で心臓の音を聞いたり、脈を測ったりも している。
こうして言うと、普通のお医者さんの診察風景なんだけれど。
せんせいの場合は ちょっと違った。
全ての診察は優雅だった。
ママの体の箇所箇所に触れるたび、必ず手は大きく円を描いた。指のうち、小指と人差し指と親指を立てながら。
大きく円を描いたかと思ったら、それは手打ちで麺を仕込むかのような動きに変わったり、螺旋を描いたり、何と足までその一連の流れに合わせて立ったり片ヒザを立てたり、背中を反ったり。ええと……これは そう、新体操にも見える。せんせいの体はとてもしなやかで柔らかかった。スラックスの股とか裂けないだろうかと心配するよ。
そんな踊りながらのママの診察を終えたようだ。気になるのは、たまに『ヒック』と せんせいがしゃっくりをしていた事だ。そして息が酒臭い。大丈夫なのかなぁ。子どものボクにはわからないけれども。
「これは……アチョー! ……貧血だね。大丈夫さ!」
せんせいは、手先で狐に似た形を作りながら、また優雅に自分の腕と腕を絡ませるように動く。とても滑らかに。
「ひんけつ!? ママは大丈夫なの!?」
「ああ大丈夫さ! とにかく布団を敷いて安静にさせるんだ! アチョー! ……ヒック」
ボクは言われた通りに布団を敷く。そしてせんせいの手も借りて、ママを布団に寝かせた。
せんせいに言われて、タオルを水で濡らしに行った。その間、せんせいはスーツケースから白い紙とペンを取り出し何かを書いていた。
ボクが戻ってママの額に固く絞ったタオルをきれいにたたんで置くと、せんせいが書き終えた紙をボクに折って渡す。
そしてスックと立ち上がった。
「それでは これにて失敬するよ! オチャー!」
ボクが声を上げる間も与えないまま、せんせいは再び割れたガラスの穴から外へ。そしてベランダの手すりを飛び越えて落ちていった。
ここは2階なんだけれど。
「せんせい〜!」
『命』のような全身ポーズで羽を羽ばたかせるように飛んでいったかと思った。最後まで優雅だった。スキのない、あの身のこなし。ただ者じゃない。
白衣を着ていなかったら ただの酔っ払いかも しれない。パパみたいだ。
「う……」
ママが喘ぐ。ベランダ付近で何処へ消えたんだとせんせいの姿を捜していたボクは、慌ててママの所へ駆け戻った。
「ママ、平気!?」
また涙が復活しそうだった。
ママは小さな声で、切れ切れに何かをボクに伝えようとしている。ママの口元に耳を近づけて、「ママ、ママぁ」と呼んだ。ママはこう言った。
「きゅ、救急車……」
電話したらすぐに救急車が来てくれて。ママは担架で運ばれていった。
救急隊員のおじさんが、ボクの頭を撫でてくれた。
「よく救急車をすぐに呼んでくれたね。偉いな、ママはすぐ治るからね」
と。
ボクは涙を拭きながら、おじさんに黙って手に持っていた白い紙を渡した。
さっきせんせいがくれた紙だ。おじさんは不思議そうに紙を受け取って広げる。
「……これは」
みるみるうちに、おじさんの様相が変わった。そして「オイ」と、場に居た別の隊員の男の人を呼んだ。
「また現れたらしいぞ、『酔拳ドクター』」
おじさんが言うと、呼ばれた若い隊員の人は驚いて声を上げた。「またですか! ……全く もう!」
ボクはおじさん達と一緒に救急車に乗り込もうとついていったんだけれども。その途中でおじさん達はこんな会話を続けてしていた。
「警察もすぐ来るらしいです。全くお騒がせな奴ですね。ほんとにもう」
「今回は不法侵入罪だな。仕方ないが」
「悪い奴じゃないんですけどね……ふう」
……
子どものボクにはわからない事だらけだ世の中。
せめて紙に書かれていた字が読めたらなあ。
ボクはお隣に住んでいるおばちゃんと一緒に、夕方の空が赤く染まろうとしているなか、救急車で病院へと向かって行った。
ボクには読めなかったけれど、紙にはこう書かれていたらしい。
『アルコール性肝硬変・肥満・歯周病・可逆期外反母趾・悪心・ぎっくり腰・円形脱毛症・睡眠時遊行症・痔・水虫の疑いあり』
赤トンボが空いっぱいに広がって飛んでいた。
《END》
【あとがき】
初めて『62日以上更新されていません』と赤字で書かれ。
作者 気分的に焦り、急きょ生まれた作品。
他の短編のサンタといい大魔王といい、『おじさんと僕(子ども)』シリーズが できてしまうような気がした。要するにパターン化? ええ〜@
これから ここには投稿日を入れておく事に しよう。そうしよう。
H20.8.17.作