耳に残るは君の声(虹色幻想27)
あの日はとても寒く、雪が降っていた。
白藍は身を切り裂くような寒さに震えながら、家路に向かっていた。
ふと目をやると道端で少女が泣いている。
頭には雪が降り積もっていた。
白藍は静かに近づいた。
「どうした?迷子か?」
それとも捨てられたのか?
こんな寒い日にこのまま外にいては死んでしまう。
白藍は少女の雪を払いながら聞いた。
「母様、父様」
どうやら迷子になったようだ。
仕方あるまい。
白藍は少女の手を握りしめた。
冷たく凍えている手を両手で包む。
「迷子になったのか。
しかしこのままでは凍えてしまう。家へ来なさい」
不安そうにしている少女に微笑みかけ、名を聞いた。
葵、と少女は名乗った。
白藍の家はすぐ傍にあった。
家族はもう無く、今は一人で暮らしていた。
かつてはこの家にも沢山の女房と家族がいたが、家は落ちぶれ生き残ったのは白藍だけだった。
だから白藍は一人で何でもこなした。
広い屋敷は綺麗に掃除されていた。
「おいで、暖かい湯に浸かると良い」
冷たくなっている葵を湯に案内してやる。
「生憎と女房がいないのだ。一人で出来るな?」
不安そうに葵は頷いた。
それを見て白藍は葵のための服を探した。
確か昔の服が残っていたはずだ。
白藍は見つけた着物を湯殿へ持って行った。
葵の服は上等な絹だ。
きっと良い家の息女なのだろう。
今頃は心配して探しているかもしれない。
カタン、と襖が開く音がした。
振り返ると葵が立っていた。
「ちょうど良いようだな。男物で悪いが我慢してくれ」
白藍は葵を手招きした。
「寂しかろうが今日はこの家で過ごしてくれ。
明日、親御を探すようにしよう。
この雪では凍えてしまうからな」
葵は白藍の顔をじっと見て、頷いた。
白藍は微笑んだ。
「腹が減ってはいないか?一緒に食べよう」
「はい」
白藍は暖かな粥を作り、葵と食べた。
久しぶりに誰かと共に食事をした。
白藍はこの小さな訪問者に感謝した。
少しの間だけでも、家に誰かいることが嬉しかった。
「隣に部屋を用意した。そちらで寝なさい」
葵は白藍を見つめ首を横に振った。
そうして白藍の着物をつかんだ。
「一人で眠れません」
「…では、一緒に眠るか?」
「はい!」
初めて見る葵の笑顔だった。
白藍は小さな少女を褥に入れ、穏やかな眠りについた。
結局、葵の両親を探すことは出来なかった。
翌日、葵が立っていた場所へ行ってみたが、葵を探している人を見ることはなかった。
そうして白藍は葵と暮らすことになった。
あれから十年の歳月が経った。
葵は十五になり、裳着を迎えた。
始めは大人しかった葵は、白藍になれると元気な姿をみせるようになった。
「白藍、白藍!」
葵が名前を呼んでくれるのが好きだった。
「どうした、葵?」
「猫がいるよ。見て、あっちに」
そう言って白藍の着物を引っ張る。
白藍は苦笑した。
葵が来てから、毎日が楽しくなった。
家に光が満ち、明るくなった。
何度、葵に救われたことか。
こうして立派に裳着も済ませた。
あとは立派な婿を探すだけだ。
しかしそのことを考えると、気が重くなった。
娘を嫁に出すのはこんな気分なのか、と気落ちした。
葵はすばやく猫を捕まえ、頬ずりをしている。
白く綺麗な猫だった。
葵の無邪気な姿が微笑ましい。
じっと見つめる白藍を不振に思い、葵は首をかしげた。
「どうしたの?何か変?」
「いや、何でもないよ」
仕事へ行ってくる、そう言うと白藍は立ち上がった。
葵は悲しそうな顔をした。
そんな顔を愛しいと思う。
白藍は微笑んで、早く帰るから、と言った。
白藍は宮中の警備を担当していた。
下っ端だったが、それでも良かった。
目立たずに、ひっそりと生きる。
それで良かった。
かつて家族が浸った栄華など、欲しいとも思わなかった。
家族が権力争いに巻き込まれたのは、白藍が十二の頃だった。
それから白藍は一人で生きてきた。
葵と出逢うまでは。
「白藍殿、一休みしませんか?」
そう声をかけてきたのは、白藍の上司だ。
人柄がよく、皆から好かれている。
ただ、欲はないようで、こうして下っ端にも気軽に声をかけてくれる。
白藍はこの上司を好んでいた。
「はあ」
上司が深刻なため息を吐いた。
珍しかった。
上司は苦笑して答えた。
「娘がいなくなって、ちょうど十年の歳月が流れたものでね。
雪の沢山降っている日だった。
一人の女房が娘を連れ出したのは。
どんなに探しても娘は見つからなかった。
それ以来、仕事にも力が入らなくてね」
そんな事情があったとは。
「お辛いことですね」
「ああ、どこかで生きていてくれることを願っているがね。
腕に葵の痣がある娘で、そこから葵と名づけたんだ。
とても可愛らしい子だった」
しみじみと語るその言葉に、白藍は青ざめた。
腕に葵の痣。
葵という名前。
雪に日に消えた娘。
白藍は震える唇をかみ締め、深呼吸をして告げた。
「お教えしたいことがございます。実は…」
葵は上司の娘だった。
白藍は事情を話し、葵は両親の元へと帰って行った。
それを後悔したことはない。
ただ、寂しかった。
葵がいないだけで、家は暗くなり、広く感じた。
一人でいる時間がこんなに長いものだということも忘れていた。
白藍は縁側に座り、庭を眺めていた。
一人に慣れるのには、しばらく時間がかかるだろう。
縁側に視線を戻すと明るい日差しを浴びる猫がいた。
葵が捕まえた猫は、気持ちよさそうに寝ている。
白藍はそんな猫を優しく撫でた。
目をつぶると葵のことばかりを考えてしまう。
白藍を呼ぶ声を、衣擦れの音を。
「白藍!」
呼ばれて振り返ろうとした。
そうして気づいた。
もう葵はいないのだ、と。
自嘲ぎみに笑い、白藍は手で顔を覆った。
幻聴が聞こえるなど、酷いな。
「白藍ったら!具合でも悪いの?」
柔らかな手を肩に感じて、白藍は顔を上げた。
目の前に葵の心配そうな顔がある。
「心配だから戻ってきちゃった。
だって、猫の世話だってしないといけないし…」
俯きながら言い訳を言う葵を愛おしく思った。
たった一日離れていただけなのに。
白藍は葵を抱きしめた。
「会いたかった。
もう一人では生きていけない。
寂しくてしかたなかった」
そう言う白藍の背中に手を回し、葵は頷いた。
「私も」
雪の降る日に出会ってから、ずっと二人一緒だった。
もう離れることなど考えられない。
「いいのか?」
このまま、ここで一緒に暮らして。
「いいのよ。一緒にいたいから」
白藍は微笑み、葵に優しい口付けをした。
猫が甘えるように葵の足に頭をこすり付けていた。