1 勇者「神は死んだ」
聖女、と呼ばれる女性がいる。
彼女の名は『リシア・カーミラ・アスタロット』といった。
彼女は有力貴族、アスタロットの娘。産まれたのは彼女が十数年後に活躍するコルキュエ王国の北に位置し、そして魔族の侵攻により既に崩壊してしまったアスカロン帝国領内であった。
身重であり、そして激しい吹雪の中使用人と母親は必死に亡命しようと国境線を目指していた、その時の出産である。父は有力貴族であり、有能な騎士だった。死を理解していながら、務めを果たし戦地で散ってしまった。
母はそんな夫を誇りに思い、そして家を絶やさぬように亡命先で、アスカロン帝国の南東に位置する、かつていた場所に比べれば比較的温暖なソレス共和国で厳しい教育を施した。物を大切にし、弱きを助け強きを挫く、慈愛を持った人物へと。敬愛する夫の娘に相応しい娘になるようにと願って。
リシアは母の語る父や、彼をまだ敬う使用人だった者から聞く話、それらから父を英雄譚に決してなることのない、それでも立派な務めを果たした男だと理解した。だから求めたのだ、母や助けてくれる使用人を悲しませることのない平和な世を、魔族を沈める英雄、勇者を。
リシアはめきめきと頭角を現した。特に癒やしの魔法については他の追随を許さなかった。財産を全て売り払い、さらに働き養ってくれる母や使用人に報いようと、必死に勉強をした。
しかし、彼女だって子供で、好奇心はあった。住んでいる街の南には広くて大きな森があり、そこには古代の遺跡が眠っていると聞いたのだ。いつも期待に応えようと、理想の自分になろうと張り詰めていた彼女も歳相応の好奇心には敵わなかった。怖いもの好きの同級生と共に、森へと無断で入っていってしまったのだ。
彼女の魔法は癒やしに特化していた。
もちろん、人をリラックスさせることにも長けていて、だからこそ催眠魔法を気付かれること無く、見張りをしていた役人へとかけることに成功した。すやすやと、さぞかし良い夢を見ているであろう彼らを尻目に、リシア達は森へと進む。霧に包まれた川辺、霞がかった視界の中彼女らはワクワクしながら進む。
だが、誰かが入るのを禁じている場所に、危険が無いはずもない。
彼女らは獣に囲まれてしまった。素早く狩りをする狼達だ。グルル、と唸りながら近づいてくる彼らに足が震え、ついにはそこへとへたり込んでしまった。普通ならばここで食い殺されてしまうのだろう。
しかし、彼女らは幸運だった。まず幼い子供では狼に気付く前に殺されてしまうのだが、彼らは人間に友好的な狼だった。しかし理解する術はなく、彼女らは死を感じ、心臓が激しく脈打つ音だけを感じていた。
身を寄せて恐怖に涙していたが――不意に、狼がその場に伏したのだ。そして静かな足音。
「んー、隠れるにはこの辺……て、あれ? 見かけない子どもだ。というか狼に囲まれ――」
そこまで言って、立ち止まって様子見。
「寝てるな、ということはこれをしたの……君たちかな?」
霧に溶けるかのような灰色の髪、日当たりの少ない地方に住んでいるからか、病的に見えるほど真っ白な肌。着ている服は獣から得た皮だろうか。背には矢、手に弓。この地方に古くから住み、大陸一の狩猟民族『アラヤ』の少年は温かな笑みを浮かべると、彼女らに手を差し出した。もちろん、音を立てないようにとジェスチャーを交えて。
「じゃ、逃げるよ」
音を立てずに彼は森から彼女らを連れ出す。伏した狼達が動き、そんな彼の背へとその頭を下げているのに気付くこと無く。
リシアはこの瞬間を永遠に忘れないだろう。何故ならば運命と出会い、そして世界を滅ぼすほどにこの身を焦がす激情を始めて感じたのだから。熱病におかされたかのようにふわふわした感覚だったためか、どのように街へ戻ったのかは覚えていない。心配した母親が泣き崩れて抱きしめた瞬間に、現実に戻った。
そんな彼女へと少年は語る。
「森は危ないよ、神様がいるからね。彼女に祝福された民以外は迂闊に寄らない方がいい、森が排除にかかってくるだろうから」
礼を言い、何かを渡そうとする母を静止する彼。リシアはここを逃すと永遠に会えないのではないかと、そう思った。母に抱きしめられた瞬間に、冷静な思考が戻り、先の事象について全て推察したのだ。
――彼は、神の化身かもしれない。そしてこの世界を正す、勇者に
遠い日、見たこともない大きな背の父を少年に幻視した。霞のような雰囲気、現とは違う空気そのものといった彼。もし、二度と出会えないのならば名前を。せめて名前を――
夢の自分と同じく、手を伸ばした姿勢で『聖女リシア・カーミラ・アスタロット』は目を覚ます。
また、夢を見た。彼と出会った頃の夢を。
ほう、と赤くなった顔を冷ますように夜の冷気を浴びる。母の国であるアスカロンは復興して既に百年程度は経っているだろう。それを為し、そして喜んでくれた亡き母を思うが、しかし。夢の彼をどうしてもまぶたに描いてしまう。
「あれからもうすこしで二百年経ちます、勇者様。それでも私はまだ乙女のように貴方に恋い焦がれています」
聖女、という立場を利用して、彼が目覚めても全力でバックアップ出来るような仕組みを作り上げた。再び出会うために、遠い未来で愛しあうために人ではなくなった。悪魔のような所業にも手を染めた。
配下の人間は全て彼に死を厭わない忠誠を誓っている。それもそうだろう、世界で一番愛している人物の記憶を与えているからだ。
アスカロン教国の女王にして第二の権力者、リシアは空位である王を求めて生き続ける
補佐をする騎士団長を始めとした各機関のトップは、女神アルテに選ばれた『勇者ソラン』への忠誠度と技量で決めた。元々英雄に憧れ、そしてどのような旅をしたのか知りたがる彼らに、リシアは記憶を分け与えた。
すると、どうだろう。伝説が、目の前で伝説を作る様を、記憶ではあるが間近に見て、感じて、そして彼女の『想い』が入り込む。
いままでの信仰が薄っぺらに感じるほどの敬意と愛情。物語や劇で知った悲恋は、彼女にどれほどの精神的負担を与えたのかを察する。
彼女の記憶や技術は全て配下に与えられ、それにより彼女直下五人の側近はそのまま彼女の頭となり、手足となった。操られている、と知らない人が聞けば言うかもしれない。だが、もしそう言われたとしても彼らは否定するのだろう。同じ。
『深く敬愛する方の実績を見せてもらい、さらに敬うようになっただけだ』
という言葉を口にして。
側近は時代とともに変わるけれども、リシアの美貌は衰えること無く、勇者が水晶へと姿を変えた二年後から容姿が固定されたままだ。永遠に老いない身体と、そのこの世のものとは思えない彼女の美しさから、アスカロン教国は大陸全てから畏れられ、そして頼りにされることとなる。
今、彼女をよく知り、対等である人物は彼女を見るたびに同じ事を言う。勇者を愛する気持ちは分かるが、二百年も愛し続けるとは流石に狂っているとしか思えない、と。
対してリシアはこう返す。あなたの言えたことですか、ヒトトセ? と。
ヒトトセもまた、ソランに再会するためだけに生きてきたのだ。
しかし、人間をやめたリシアとは真逆に、人間のまま寿命を伸ばし続けている。どのようにしているのか、と聞いてみたものの、霞を食って生きているとだけしか返されない。ヒトトセは『まっどさいえんてぃすと』だからしかたのないことか、とリシアは諦めにも似た境地に至る。
ヒトトセはソランの眠った後、姿をくらませた。しかし、大陸や海の向こうからふらっと現れては新しい魔道具を作り続ける黒コートがいる、と噂され、ヒトトセを知るものはおそらく、と見当つけていた。
リシア達は後悔していた。旅の途中、ずっと苦悩し続ける彼の姿を何も出来ず見ているしか出来なかったからだ。あれは、魔族を滅ぼすことに心を痛めているのではないか、としか思っていなかった。何故なら彼はたった一人敵地へと乗り込み、その中心たる魔物を倒すことで魔族を無力化しようとし続けていたから。
彼女らにとって、魔族は倒すべき敵であり、殺すことに何の疑問も抱かなかった。しかし、ソランは迷っていたのだろう。
彼はありとあらゆるものに神を見出し、感謝し、祀る一族だ。だからこそ、魔族にも何かを感じ取っていたのかもしれない。
ヒトトセはそんなバカな、と一笑に付していたが、それは今となっては当たっていた。
リシアは魔族にも慈悲を抱くだなんて、素敵な方だと思っていたが、それは違っていた。
勝手に納得せずに、話を聞いていれば。一人よりも三人で考えを出し合っていれば、そう今更思うことしか出来ない。
――どうするかもう決めているって言ってただろう? 君を裏切ることなんてしない
「嘘つき」
瞳から涙がこぼれ落ちる。ああ、貴方が相談してくだされば原因が神だろうと何だろうと、この私が排除して差し上げたのに。彼に使われることが私の喜び、必要とされることが喜び。側にいたい、近くにいさせて欲しい。
定期連絡が来る。彼が眠る、二百年前の部屋だ。そこから誰一人として彼を動かす事はかなわなかった。別箇所がどう破損しようともあの部屋だけは無傷で存在し続けた。一度『統一教会』なる彼を奪おうとする泥棒共が忍び込み、配下と戦闘になっても無傷だった。
――本日も勇者様に異常はなし、監視を続けます
毎朝期待するが、彼は目覚めない。来るべき未来とはいつなのか、それだけが待ち遠しく憂いを帯びたため息を吐く以外、持て余した感情を発散させることが出来ない。
いっそのこと、配下全て動員して世界に混乱を起こしてやろうかとすら思う。だが、その場合討たれるべき対象は自らとなり、愛する者によって殺されるに違いない。
でも、それもいい。そう思ってしまうところが既に異常なのだろうか。彼に出会えるのならどんな手段でも使いたいが、それでもその腕に抱かれたいと思ってしまう。目覚めなければ、抱きしめてすらくれないというのに。こんな時ヒトトセは『取らぬ狸の皮算用』とでも言うのだろうか? 少し用法が違う気もするがニュアンス的にはあっている、そう一人で頷く。
もう少しで丁度200年だ。それまで待って何もなければ―ー仕方あるまい。彼と救ったこの大地を壊すのはなんとも言いがたい気持ちになるが、彼だって嫌々眠ったに違いないのだ。目覚めて私が起こしたと知ったら最大級の愛情を持って抱きしめてくれるだろう。そうだ、絶対にそうだ。だって私達は『愛し合っているんだから』
リシアは世界よりもソランを取る。ソランだって世界よりも、未来よりもリシアを選んでくれるに違いない。
「待っていてください、愛しの勇者様」
しかし、幸か不幸か、彼女の立てた計画が正に実行されようとしたその日に、勇者は安置されていた部屋から姿を消したという。
監視させていた、女性騎士とともに。
リシアは激怒する、たかが配下の分際で私の彼を奪うなどと。それに、どうしてあの小娘が彼を運び出せて私が出来なかったのだという、その二点で。
リシアは彼の監視に当てていた少女を指名手配し、周辺各国に触れ回った。生かしておけぬ、必ず彼を取り戻すと決意して。
そして、その指名手配された女性騎士はというと――
「おー、街並みが本当に変わってるなあ。見たことのない道具もあるし」
「あの。見えているのでしょうか」
目覚めた彼に連れられて遠くの街を眺めていた。城下町と言っても本当に城の間近にあるわけではない。敵の侵入を拒む堀や、大きな川を挟んで人の営みは行われているのだ。ソランの影を踏まないような位置で控える女性騎士、名はユーリと言う。苗字を持たない、平民出身だ。しかしながら彼女の属する教国では平民だろうが実力で登用される。
「見えてるよ、というか見えないの? 大丈夫? 狩り苦手じゃない?」
「……なるほどこれが女王の言っていた『山育ちってすごい』ってことですね。ええ、王様。私には全然見えませんよ」
はあ、とユーリはため息をつく。深く、深く吐かれたそれは正に彼女の心情を語っているようなものだった。
王、と呼ばれたソランは首を傾げて問う。
「私の仕える国はアスカロン教国、そこの王と貴方様はされているのです」
うげえ、と苦々しくソランは顔を歪める。斜め後方で控えているユーリはそんな彼を盗み見た。
白、というよりかは灰色がかった髪。女性の我が身よりも真っ白な肌。細身ではあるが鍛えられ引き締まった筋肉は惚れ惚れとするほど。そして特筆すべきはその雰囲気。
ここに確かにいるというのに、いない、そんな矛盾を抱えた存在。圧倒的偉業を成し遂げたというのにそのオーラ、覇気が見られない。これが本当に勇者として世界を救ったのか、と疑ってしまう。
「面倒な。で、誰がそうしたの?」
「貴方様の仲間であり女王『リシア・カーミラ・アスタロット』様です」
「へ、へえ。なるほどなぁ~。少し嫌な予感がするけれど質問いいかな?」
「王のご命令に逆らうことなど出来ません。して、何でしょう?」
たっぷりと間を置いて、そうであって欲しくないと、そういう感情が滲み出てくるような掠れた声でソランは問う。
「なんで、初代女王って言わないの?」
「リシア様は初代女王にして現女王様であられるからです。……あの、何か問題でも?」
ひゅうっと風が吹く。間抜け面をたっぷり三十秒ほど晒したソランはギギギと街に向けていた首をユーリに向ける。その絶望と驚愕を併せ持った表情をたっぷり眺めたユーリは、はて何か問題でもあったでしょうかと首を傾げる。
何故ならば、彼らの冒険を元にした劇などの創作物において、ソランとリシアは相思相愛であり、未来の為に眠った勇者を想い泣き崩れる聖女のシーンは悲恋物語の華として誰もが知るものであるからだ。
当然ユーリもそんな物語を好んで観賞しているし、だからこそ騎士としてリシアの役に立ちたいと志願するまでになったのだが。
しかし、恋人が二百年も生きていると知ったにしてはソランの表情やその雰囲気がおかしい。
「神は死んだ」
うなだれて地に両手を付けてしまった彼を、もしヒトトセが見たらこう言うだろう。『これは綺麗なorzだ』と。
勝手に死んだことになった彼に祝福を与えた女神は死んでいませんよ、と雨が降っていないのに虹に乗せてメッセージを送るが、地面に突っ伏したままのソランがそれに気付くのはそれから半刻くらい経ってからのことだった。
雨上がりに虹は出来る。誰もがそれを知っている。しかしながら、その他にも虹にはこの世界で大きな意味があった。
それは天に続く道、女神が通り下界へと降りてくる物だと信じられている。人々は、空の虹を見て何かが起きたと理解する。神が降りてくるなど余程のことがあったに違いないと。
彼らの予想通り、余程のことがこの城で起きていたのだ。
「俺、こんな世界嫌いだ……」
世界を誰より愛してたはずの勇者が発したその言葉。それを聞いた唯一の人物、ユーリはこれって女王様に報告すべきだろうか、と頭を捻らせるのだった。