第一章 学校生活に波乱はつきものだ。 4
――鈍い音が響いて、視界に火花が散った。
突然の衝撃に、それまでまとまっていたはずの意識が四散して、目の前が真っ白になる。全身の力が抜け、僕は宙に浮くような脱力感に包まれた。
頭突きをされたのだ。
そう認識するのに、どれくらいの時間がかかったのだろう。気が付けば、僕は胸ぐらを掴まれた状態で、斜めになったまま、ぎりぎりの体勢で立っていた。
目の前にいたのは、見覚えのない、長身の少女。彼女は何も言わずに、鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
ああ、彼女に頭突きをされたのか、と僕は理解するが、どうしてそうなってしまったのか、何も覚えていない。経緯を、記憶していない。
確か、僕はつい数分前まで、廊下を歩いていたはずだ。入学したばかりの高校を、ただふらふらと見学するように歩いていたのだ。それが、一体全体どういう展開なのだろう。脈絡がないにもほどがある。どうして僕はこの面識のない少女と対峙し、頭突きを食らわされなくてはならなかったのか。僕の中の真実は、曖昧に揺れていた。
対して、相手の少女の瞳は揺るがない。そこには、こちらに対するまっすぐな敵意に燃えていた。僕はその身に覚えがない怒りを逸らす術を探したが、脱力した手足が僅かに動くだけで、彼女の手を振りほどくことさえできなかった。
しかし、かろうじて動く口で、こう訊いた。
「あなたは、誰ですか?」
聞かなければ良かった。今にしてみれば、そう思う。なんであの時、こんなことを訊いたんだろうと不思議に思う。でなければ、それから起こる、様々な厄介事に一切関わることもなく、僕は平凡な日々をゆったりと満喫していただろうに。
彼女は、僕の問いに、待ってましたと言わんばかりに笑った。それはまるで悪魔が地獄の穴からこちらを覗くように、おぞましいほどに冷たい笑いだった。
「私は、魔王だ」
参ったな。僕は目を細めた。これは参ったよ。
まさか、入学したての高校の廊下で、いきなり魔王と出くわすなんて。支離滅裂にもほどがあるぞ。
本来ならここでは、もっと格下の小物レベルの敵から現れるべきではないか、と僕は神に抗議した。序盤のキャラクターレベルというものを考慮しているのか、と。王道の物語では、こんな序盤に悪の親玉は登場しない。もっと満を持すべきだ。
しかし、これは現実だ。ゲームじゃない。現実とは非常だ。僕がただの善良な男子高校生だとか、親から勇者の血を受け継いでいないとか、そんな重要な事情なんて綺麗にふっ飛ばして、身構える時間などなしでやってくる。問答無用だ。
「魔王ですか……」
混乱した脳内で、僕はそれだけ繰り返した。
「本当に、魔王なんですか?」
「ああ、そうだ」
少女は自信満々に繰り返す。
「私は見ての通り、魔王だとも」
「しかし、おかしい、ですね」
「何がだ?」
「少なくとも、僕の知っている魔王は頭突きなんていう原始的な攻撃はしてきません」
すると、彼女が僕を掴んでいる手に力がこもった。てっきり今度は殴られるのだと思って、目をつぶるが、魔王の少女はただ笑っただけだった。
「ハッハッハ、面白いな、お前は」
僕はただあっけに取られて、目を瞬かせた。そろそろ説明してくれ、と言いたくなる。この状況は一体なんだ。
「おい、みんなこっちだ! あの女、こっちにいるぞ!」
すると、廊下の奥から声が聞こえた。血相を変えた男子生徒が、こっちを指さして、誰かを呼んでいる。僕が呆然としていると、魔王の少女は僕の胸ぐらを離し、今度は手を握ってきた。
「逃げるぞ」
「はい?」
「ぼさっとするな、我が後輩よ」
「どういうことですか?」
しかし、彼女は答える様子もなく、僕を引っ張って走りだした。衝撃で揺れていた脳内が再びかき回される心地がした。僕は妙な夢を見ているような錯覚の中で走っていた。振り返れば、背後からは数名の生徒が僕らを追ってきていた。
正確には、あの時、彼らは黒宮先輩を追っていたのだが、その時の僕には、自分も逃走犯になったような気持ちだった。
走る、走る。疾走する。
どこにいくのか。
廊下に差し込む光が、教室のガラスに反射して、ギラギラと僕の目を刺激する。クラクラとした僕は足がもつれそうになるが、黒宮先輩の手に引かれて、なんとか踏ん張る。
飛んで、跳ねて、階段を駆け上った。
待て、逃げるな、声が投げつけられる。
曲がり角の向こうで、驚いた女子生徒の表情。教室の向こうに見えた教師の怒声。上へ下へとぐらつく風景。そんなものが僕の脳裏でフラッシュバックのようにチラチラと光って感じられた。
僕は逃げた。
僕は魔王と手を繋いで逃げた。
「ここまで来れば、大丈夫だ」
校舎の最上階、通路の奥。来たことのない知らない小部屋に入って、魔王の少女はそう大きく息を吐いた。
「うまくまけたようだな」
「一体、彼らはなんで追ってきたんですか?」
僕は呼吸を整えながら、そう訊いた。一体、彼らに何をしたんですか、と。
「簡単なことだ。君と同じことをした」
あっけらかんと魔王は答えた。
つまりは、頭突きをした、ということだった。
「な、何か恨みでも?」
「いや、何も」
そう言う彼女の表情は悪びれるどころか、むしろ清々しいほどに晴れやかである。
「恨みはないが頭突きをしたのだ。ほとんど出会い頭にな」
その瞬間に、僕は驚愕の表情を禁じ得なかった。言葉も出ない。それでは、まるで通り魔ではないか。僕はとんでもない人物と一緒にいるのではないか。すぐにでも、ここから逃げなくては。
だが、彼女は続けてこう言った。
「勘違いするなよ。これは厳正なる審査なのだ」
「審査、ですか?」
「ああ。そして、その結果、君は合格した」
僕には彼女の話に全く合点がいかない。
「合格?」
「新しい部員に認めるということだ」
「何のことでしょう?」
「心配するな、君は我が部の新しい副部長になるだけだ」
「疑問だらけなんですが」
彼女は腰に手を当てて豪快に笑う。
「問題ない。さしあたっての仕事は、入部届を書くだけだからな」
「はあ」
「ところで、我が後輩よ。そろそろ君の名前を教えてくれないか?」
こうして、うららかなる春の日、僕は彼女の下僕となることになったのである。