第一章 学校生活に波乱はつきものだ。 3
あくる日の放課後。
僕はホームルームを終えると、すぐさまある場所に向かった。そこは、黒宮先輩が部室と称する学校の空き部屋だった。生徒も教師さえもあまり立ち寄ることのない校舎の最上階、蛍光灯の切れた薄暗い通路の一番奥に、その部室はある。
劇団レディーバード。
ドアにはそう書かれた札が張ってある。それがこの部の名称だった。
なんだ、演劇部だったのか。そうお思いの諸君は多いことだろうが、残念ながらそうではない。何しろ、この劇団は演劇活動なるものを一切行っていないのである。更に補足すれば、驚くべきことに、この部は設立以来、一切の演劇はおろか、特記すべき活動は全くない。
なんだそれは。それは如何なる理由によるものか。では、この部では何が行われているのか。そんなものに、果たして存在意義はあるのか。ふざけている。
拳を机の上に打ち付け、そう声高に追求したいお人がほとんどだろうと思う。
僕がそちらの立場でもそうだっただろう。
だが、非常に遺憾なことに、今の僕にはその問いに満足に返答できるだけの明確な答えを持ち合わせていない。
ただひとつ、そうただひとつ、説明できることがあるとすれば、この部は部長と副部長のたった二人によって構成されているということぐらいだ。
もちろん、部長はあの暴君少女、黒宮赤灯である。
そして、僕は一年前のある日、不幸にも彼女に目をつけられて創設以来誰も触れたことのない埃をかぶった副部長の席に座らされた哀れな男子高校生Aなのだ。
その際、この劇団の創設や、活動内容の有無に関わる全ての事柄については、説明されることがなく、ただただ、名ばかりの役職よってこの劇団に縛り付けられて、日夜先輩の言いなりになる日々を送っているのである。
ところで、僕自身が極めて善良であり、人畜無害、品行方正な学生であることは既に十分ご理解いただけていることだとは思うが、そんな人間がこのような悲劇的な状況に置かれていることに対して、読者諸君は大いに同情していただき、ここいらで少々お涙を頂戴したいところだ。
「先輩いますか?」
入り口のドアを開けると、すでに部屋には黒宮先輩の姿があった。開け放した窓枠に優雅に腰掛け、ふうとタバコの煙を吐いている。
「遅いではないか、我が愚鈍なる後輩よ」
先輩は僕の顔を見るや、開口一番そう言った。
「待ちくたびれてしまったではないか」
「すいません。ホームルームが長引いてしまって」
僕は頭を下げながら椅子に座る。
「それで、どうなのだ?」
「何のことですか?」
だから、とたばこを灰皿に押し付けながら、彼女は口を尖らす。
「私が持つケタ違いのカリスマに魅了された、目玉がくりくりとした好奇心旺盛な可愛らしい新入部員たちのことだ」
「新入部員?」
「知らんとは言わせんぞ。今日、お前のところには記入済みの入部届が山と届いているはずだ」
僕は呆気に取られてしまう。開いた口が塞がらないとはこのことだ。しばらくの沈黙の後、
「……いませんよ。そんな生徒」
「嘘をつけ。あれだけ昨日は宣伝したのだ。誰もいないということはないだろう?」
「残念ですが、人っ子ひとり」
「じゃ、じゃあ、私への愛の込められたラブレターの山は?」
「それもありません」
「一枚もか?」
ええ。と言いかけて僕は思い出した。
「ああ、手紙なら一枚だけ」
そして、カバンから、一枚の封筒を取り出す。それを見るや、先輩の目が期待に満ちた輝きを放った。
「おお! それは何だ?」
と身を乗り出してくる。僕はそこでこほんと咳払いをしてからゆっくりとした動作で中身の紙を広げた。
「生徒会執行部からのお手紙です」
「せいとかい、しっこーぶ?」
「次年度の部活動費の削減の通知だそうで」
そこには味気ない明朝体の文字列が並んでおり、厳しい言葉で、僕らがしでかしたことへの忠告がくどくどと書き連ねてあった。僕はそれを先輩に丁寧に朗読して聞かせた。
「つまり、要約すると、この劇団を廃部にしないだけありがたいと思え。まだ人
間の言葉を理解できる知能があるなら、少しはおとなしくして真面目に活動しろ。生徒会より、です」
「これは……どういうことだ」
聴き終わった先輩は顔を俯かせて、結んだ拳を震わせていた。かなりご立腹のご様子である。
「説明しろ、広宇須」
説明するもなにも、と僕は思う。
説明するもなにも、あんな殺人紛いな宣伝をやっておいて何を言う。
「昨日の宣伝方法が過激だったからでしょ。生徒指導部の先生たちからもこっぴどく叱られたじゃないですか。本当、停学になってないのが、不思議なくらいですよ」
僕は昨日のことを思い出す。
屋上から落とされた、その後のことである。
僕は空中で意識を失ったらしくその時点の記憶はないが、宙ぶらりんになったところを、近くを通りかかった複数の生徒が発見し、職員室に直行。大慌てで教師たちがはしごで僕を地上に降ろすという大騒ぎになった。
当然の事ながら、その後、保険室で目を覚ました僕はこの件の主犯である黒宮先輩とともに屈強な体育教師たちに連れられ、生徒指導部のドアをくぐることになったのだ。
そして、かれこれ、三時間にも及ぶ猛烈な説教の末、開放された時には、夜の8時を回っていたのを覚えている。今思い出しても、ぞっとする体験だった。あの狭い部屋で教師たちから向けられた冷たい視線はとても耐えられない。
「では、新入部員は……」
「だから、来るわけないです」
僕は一蹴する。
「今頃、この部に対する悪いうわさが全校生徒の間に駆け巡ってますよ」
「うむむ……」
第一ですね。
僕はここぞとばかりに話を続ける。
「第一ですね。宣伝云々の前に、この部には決定的なものがないんですよ」
「なんだそれは?」
「活動内容ですよ。ここには、部活動にあって当たり前のものがないんです」
しかし、先輩はそんなことは意に介さない素振りで椅子の背もたれでふんぞり返る。
「それがなんだというのだ」
「それがなんだではありません。これはこの部の存在意義がないのと同じことですよ。劇団と名乗っている以上、それらしい活動をしないと。いいですか? 先輩が客なら何が売っているのか分からないお店をわざわざ利用しようと思いますか? 野菜を買うなら八百屋、薬を買うなら薬局、動物見るならペットショップ。売り出すべき商品がないのに、看板だけの店なんて何のためにあるんですか?」
「では、何をすればいいのだ?」
そうですね。と僕は首をひねる。
「文化祭で上演するとか、コンクールに応募するとか」
「馬鹿らしい」
「何を言ってるんですか。それこそが劇団のあるべき姿でしょう。学生が目指す健全なクラブ活動です。どこの高校でもみんなやってますよ」
「おい」
先輩の目が冷たくギロリと僕の方に向けられた。
「二度とそんな言葉口にするな。健全だ、とか、みんなやってる、とか。聞くだけで虫唾が走る」
我々はそんなことをする必要はない。
先輩は語気を荒くする。
「いいか? 私が何かを思いついた時に思いついたようにこの劇団は動くのだ。活動とは常に自発的でなければならない。能動的でなければならない。誰かに言われてするのでない。したくないことはしない。したいことだけするのだ」
ああ、わかってる。
僕は心の中で頷く。
そうだ、先輩はそういう人なのだ。
ここぞという時に、彼女はその爆発的な行動力を持って、周囲を圧倒し、引っ張り、変化させるのだ。彼女がこれまで築き上げてきた伝説は両指ではとても数えきれない。
それが彼女の素晴らしいところであり、恐ろしいことであった。僕はそれをよく知っていた。