第一章 学校生活に波乱はつきものだ。 2
「――と、いうわけで大変だったわけですよ」
僕はうんざりして、大きくため息をつきながら、隣に座る少女にそう嘆いた。
「全く、黒宮先輩のすることは毎回毎回普通じゃないんです。僕はもう何度命を失いそうになったことか」
僕がいるのは、夜の公園である。
高級な住宅地の一角にあるその公園は、多くの立派な遊具が設置されており、昼間は近所の子供達の格好の遊び場として利用されている。しかし、その一方で、日が暮れるとほとんど人気がなくなり、ひっそりとしていることが多い。その為、夜の時間は誰にも邪魔されず、のんびりとベンチに座り、話をするのには持ってこいの場所だった。
僕らが話をするのは決まって公園の北口にある噴水の横のベンチである。周囲には、まるですずらんの蕾のような形の可愛らしい外灯が置かれ、柔らかくぽわりとした綿毛のような光が夜の闇に浮かんでいた。僕はその日常から抜けだしたような幻想的な雰囲気のあるこの場所が好きだった。
「へえ、その方はとても面白い人なんですね」
僕の隣で、彼女、小鹿万美が大きく頷きながら暢気そうに言った。
今日の彼女は、お気に入りだと言う、朝顔の描かれた青い生地の浴衣を着ている。静かな微笑を浮かべながら、小首を傾げる仕草をする(これは彼女の癖なのだ、なんと可愛らしいことだろう)と、髪の毛を留めている花の飾りがついた簪がしゃりんと鳴った。
「広宇須さん、とても楽しそうです」
僕はつい、彼女のその優しい笑みにそのまま頷いてしまいそうになったが、寸でのところで思いとどまり、違う違うと首を振った。
「あのですね、小鹿さん。これは面白いわけでも楽しいわけでもないんです。危険なんですよ」
「あら、そうなんです?」
「いいですか? 僕は今日、紛れもなく校舎の屋上から先輩に突き落とされたんです。危うく殺人事件ですよ、警察沙汰ですよ、事情聴取ですよ、死体処理ですよ。無傷だったのが、奇跡なくらいです」
「まあ……」
「分かりますか? 黒宮先輩はそんなことを平然とやってのける人なんです。僕はそういうことを言いたいのです。あのですね、もし、小鹿さんみたいな綺麗な瞳のか弱い羊みたいな人がのこのこうちの学校に来たら、たちまち毛を刈り取られて丸裸ですよ。その場に運良く僕が居合わせればまだ八分刈りくらいで済むやもしれませんが、薄暗い校舎の影なんかで見つかった日にはきっと産毛の一本だって残りません」
僕がそう力説すると、彼女もようやくその重大性に気がついたのか、はっと息を呑んだ。
「そ、それは少し怖いかもしれません」
と怯えるように口を両手で覆う。
「広宇須さんの言い方だと、まるでその先輩は魔王のようです」
「そうですよ!」
ここぞとばかりに、僕は大いに頷く。
「あの女性は魔王なんです。他人の血と涙を啜り、絶望と失望を貪り喰って腹を太らす大悪党です! 一体これまで、何人の人間が彼女の足元で骨と化したか、きっと枚挙に暇がありません」
そして、そこで僕は少し調子に乗り、「ガッハッハ」と上体を逸らしながら、低い声で恐ろしげな笑い方をしてみせた。
「何やってんだ、お前」
しかし、そこへ背後から第三者の声が飛んできた。
「またよくないものでも食べたのか?」
声のした方に目を向けると、公園の入口に誰かが立っている。よく見ると、その人物はギターケースを背中に担いだ長身の少年だった。
僕にはすぐに彼が何者なのか分かった。
彼の名は羽山跳治。僕の一歳年上の高校の先輩に当たる人である。
僕よりもがっちりとした肩幅を持ち、男らしくきりっとした無駄のない体つきをしている。そして、目を合わせると魂を掴まれたような感覚がするほど整った目鼻はまさに美男と呼ぶに相応しい。
そんな跳治先輩がくっくと薄ら笑いを浮かべながら僕と万美嬢が座るベンチに向かってくる。
僕はそれを見るや、自分のしていたことがいかに滑稽かを認識し、赤面した。
「いえいえ、とても楽しい話を聞かせてもらっていたんですよ」
僕が取り繕う前に、万美嬢が言った。ですよね、と目配せする。
「楽しい話、なんだいそりゃ? そいつはぜひとも俺にも聞かせてもらいたいもんだぜ」
しかし、少女は首を横に振った。
「ダメですよ。これはとても危険な話なんです」
「なに?」
「知らない方が跳治さんの身のためですよ」
「なんだよそれ、面白いのに危険な話って?」
「そういうものなんですよ。だから、これでこのお話はおしまいです」
「ケチだな。いいじゃないか、聞かせてくれよ」
「ダメったらダメですよ」
僕は彼女たちのその会話を隣で見ていた。にこやかな微笑を浮かべて喋る、彼らを見ていた。
たったこれだけの会話からでも、彼らが仲がいいことが見て取れる。それは単なる知り合いとか、友人とか、そういう関係性を超えたものというか――いや、まどろっこしい表現はするまい。
つまりはその、彼は、この可憐で儚げで天真爛漫な美少女の、彼氏、なのである。
彼と、彼女は好き合っている。
世間的に言うカップル、アベック、恋人……。
まあ、つまりはそういうことなのであって、どうということもないのだけれど。
こんなに可愛らしい少女がいて、そこに誰も近づかないということなどないわけであって、そしてそこに、こんなにお似合いな先輩がいれば、それはもう自然な流れというか、もはや、僕には為す術も無く、結論的に言って、二人は付き合っているのだった。
それはもう、公然と、それはもう、歴然と……。
「どうした、広宇須?」
少し目を伏せた僕を見て、羽山先輩が首を傾げた。
「いえ、何でも、ないです……」
「そうか、まあいいや。じゃ、いつものように曲でも聞くか?」
そうして、先輩は颯爽と僕と彼女の間に座ると、ケースから愛用のギターを取り出して膝の上に乗せ、一度、ぽろんと音を出してみせた。
先輩はよくこうして、他人に歌を聴かせることがあった。話では昔からかなりの音楽好きで、よく練習したり、たまには作曲してしまうこともあるのだという。
「いいですよ」
と僕は答える。
「聴かせて下さい」
と、瞳を輝かせながら、万美嬢が頷く。
先輩はようし、と腕まくりをして、ぽろろんと、弾いた。
すると、周囲の空気がまるでそのギターの音と共鳴するように、渾然一体となって、淡く優しいムードを作りだしていくような気がした。
ふいに流星が空からこぼれていくのが見えた。それと同時に、先輩の低くて力強く、それでいて優しい歌声が公園に満ちた。
のびのびと、なめらかに響く、音楽。
先輩の歌っている歌は、僕がよく知るロックバンドの曲だった。
デビューしてもう十数年経つというのに、これといったヒット曲もない、どちらかと言えば、世間的な認知度が低いマイナーなバンドだ。
けれど、僕は彼らの曲がとても好きだった。彼らの持っている底知れない力強さというか、何者にも染まらない純粋さというか、そういうものが、僕の心をいつだって刺激してきた。
その感動が再び僕の心を満たしている。
曲が終わって、僕が、
「良かったですね」
と言い、
「そうですね」
と万美嬢が相槌を打った。
先輩はそれを見て、満足したように微笑んで、「だろ?」とギターをまたぽろんと鳴らした。
「音楽って、いいよな」
こうして、春の日の夜は穏やかに僕ら三人を包んでいった。