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零冶の問いかけに、しかし店長はぎこちなく笑むだけで、三人とこの場に沈黙がもたらされる。
この場に潜む第4の人物にしてみれば、先程まで彼らの話題にのぼっていた会話の内容を耳にして素知らぬ顔で姿を現すことは、その内容からして躊躇われて当然だったことだろう。
だがそうであったとしても、その存在をこの場の一同……特に信也に気付かれてしまって、素知らぬふりでやり過ごし、誤魔化して立ち去ることも謎の人物には難しかった事だろう。
ややあって、カウンターの下から上ってきた顔は、一人の少女だった。
信也は彼女の顔を見て、驚愕を隠せなかった。
「麻耶ちゃん……」
彼は、いや、彼らはその少女を知っている。
それも誰であろう、今信也たちが話していた 『あの子』 であり、『その子』 だったのだから。
申し訳なさそうに押し黙り、気まずそうに俯いている麻耶。
零冶は意外な人物の突然の登場にこそ驚いたが、しかし、押し黙り、今迄見たこともないような表情を作っている信也を見て、ふと気が付く。
ああ、もしかして麻耶ちゃんが “その子” だったというわけか、これは――と。そして、
(さて、おまえは今、何をするつもりだったかな)
と膠着した空気を挟む二人の男女を交互に見遣る。
だが信也が手をこまねいていると、麻耶は場を悪くしていることに気付いて、慌てて口を開く。
「ごめんなさい! 盗み聴きするつもりはなかったのですが、マスターのお手伝いをしていたら信也さんたちがいらして。それで作業途中で、いつのまにか出るに出られず……」
綺麗に頭を下げる麻耶。さらさらとした長い栗毛が慌ただしく流れた。
「申し訳ありませんっ 今の話は誰にも言いませんので! 私も忘れますので!」
さっと踵を返してこの場をから立ち去ろうとする麻耶。
しかし信也は彼女の腕を掴んで止める。困惑の色を浮かべて麻耶は信也を見遣った。
仕事で関わりを持つかもしれない相手だけに、無用なわだかまりは望むところではないのはお互い様ではある。
しかし今回の事故ともいえるプライバシーの漏洩に際して、信也がこれ以上の何を求めるのか? 麻耶は掴まれた腕の痛みを訴えて、そして信也に向き合う。
「……麻耶ちゃん。今の話は、別に忘れてくれなくてもいいよ。というか、むしろ君に聴いてもらえて良かった」
信也の言葉をいまいち咀嚼できずにいる麻耶は、小首を傾げて彼の瞳を覗き込む。
これだ、と思う信也。麻耶というハイティーンの少女は、とても無垢な瞳で自分を見つめてくる。
今迄知ったほぼすべての女たちが、自分と向き合う時、恋をするという事と男を手玉に取るという事、そしていかに自分の欲望を満たすかということに終始しているのを信也は知っていた。
それは打算の関係と、折り合いの上に成り立つ体温と粘膜の交換を、信也という男は繰り返してきていたという事に他ならない。
信也の知る女性とは、つまりそういうモノだったのだ、今迄は。
だが彼女はどうだろう、と信也は思うのだった。
麻耶が音楽の道で成功するために、足掛かりとして自分の様なプロデュースを仕事とする者と親交を持つことは必然だ。悪いことではない。
しかしまるで媚びる処もなく、必要以上に頼りかかることもなく、一人の人間に対する当たり前で接してくるその真っ直ぐで――純粋無垢な感性。
容姿の可憐さだけではなく、麻耶という少女は、信也の接する業界においては稀有な女の子に他ならない。
それらこそ自分が麻耶に惚れてしまった真摯な理由だったことを信也は理解する。
その彼女の腕を掴んだまま離さずに、信也は自分の想いと、今自分がするべき事を秤に掛ける。
先程の決意を、呑み込む唾に重ねて臓腑に染み渡らせる。腑甲斐無い自分を、身の内から感じるからこそ意を決っして麻耶に告げた。
「俺は、今話していた通り、その子に今から告白しに行くつもりだったんだから、どうせいずれこういう話もその子としなくちゃ本当じゃない気もするから。……聴いてもらえて……良かったんだ」
「……え? それって、あの……」
視点を上下させて、麻耶は口元をあいた手で覆い、あわあわといった風に口ごもる。
「麻耶ちゃん、はっきり言うな。俺が告白したかった 『あの子』 っていうのは、麻耶ちゃんなんだ」
零冶が軽く息を漏らす。
マスターはいまだ動かない。
麻耶は耳を赤くして、困った顔をし、次いで俯いて、考えて、静かに顔を上げた。
そして彼女の煌めく瞳で信也をまっすぐに見つめて、
「ありがとうございます。でも私は、信也さんとお付き合いすることは出来ません」
彼女の返答に、場に冷感が指したように思えた。
冷ややかなこの場の夜の空気という海に漂う想いが、デトリタスのように感じなくもない。
少なくとも零冶はひとつの本気の恋愛の終わりに、友として手向けの念を抱いた。
信也は足元のおぼつかなさを感じながら、しかし気付いたように掴んだままだった麻耶の腕を離す。
そっと、惜しむように。
「そう……、そうか。うん、そうか……。そっか……、そうだよな」
なんとか精神が頽れるのを堪えようとする信也に、しかし麻耶はかぶりを振った。
「信也さん。今は私も自己実現の途上ですので、ユメに全力でいたいのです。なのにあなたの 『好き』 に応えてしまったら、私の方が申し訳ない気持ちで死んでしまいます」
彼女が理由を説明するのを耳にするのも辛い、と信也は感じる。
しかし自分の恋の終わりを受け入れ、供養する為にもここはおざなりには出来ない。
そう覚悟を決めて、信也が麻耶と視線を交わすと、彼女は目を細めた。
「だから信也さん、もうしばらくはあなたの好意に甘える私を好きでいてください。
そういうお付き合いでも、いいですか?」
麻耶はそう言って微笑んだ。
信也に……男達にもその笑顔は伝播する。
酒で酔うよりもよっぽど、真夜中のライブハウスの片隅は潤いを得た。
「笑顔 -midnight sun-」 了
次回更新分より「ディアトリニティ・ディアフレンズ」の続き、「2.5話」をお送りします。
更新日は相変わらずの2週間後の8月30日です。よろしくどうぞ。