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プロローグ

 時間が止まった。通勤途中だった中村圭吾は、唐突に消失したざわめきに違和感を持ち、文庫本から視線を上げた。東西線を滑る長い電車の車両は、圭吾と同じく出勤しようとする人物たちでごった返している。彼らは揃ってぴくりとも動かず、ただ人形のように硬直して、そこにいた。身じろぎどころか、まばたきひとつしない。圭吾は眉を寄せた。


「なんだ……?」


 周囲を見渡す。とにかく奇妙な事態だった。文庫本を通勤鞄に仕舞い込み、隣の席にいる女性の肩をとんとんと叩いてみる。「すみません」と呼び掛けた。しかし反応は無い。彼女は目を開いたまま、ただ一点を見つめるばかりだ。


 その時の圭吾はまだ、状況を理解できなかった。ぼんやりした頭で「何が起きているのだろう」と考え、馬鹿の一つ覚えのように女性の肩を叩きつづけていた。


 一向に反応がないことに気付いて、ようやく圭吾は動揺を覚えた。腹の底からじわじわとした恐怖が込み上げてくる。今自分を取り巻く状況が、何かとんでもないことになりつつあるような気がした。圭吾は女性の肩を揺さぶった。けれど彼女は、細身の体をぐらりと前後に揺らすだけだ。圭吾は立ち上がり、複数の人間に同じことを試した。結果は全員同じだった。他の車両に移っても、同様だった。続いて、電車も動くことをやめていることに気付いた。圭吾は、本当に何が何だか解らなくなった。震える手で携帯電話を取出し、アドレス帳に記載された人物に手当たり次第連絡を取ろうとしたが、どのボタンを押しても待ち受け画面から動かなかった。電源を切る事すら出来なかった。


 とにかく外に出てみようと思ったのは、それから二十分程色んな人間に声を掛けてからだった。電車の非常スイッチを押してみたが、扉が開いたり駅員が駆けつけてくることは無かった。今のままでは、この列車内に閉じ込められているも同然だ。


 圭吾は散々躊躇ってから、自身の鞄を思い切り振りかぶり窓に叩き付けた。あとで弁償することになっても、この奇妙な状況から抜け出せるのならば構わないという気持ちだった。窓を叩き割った瞬間に電車が動き出す可能性も考えたが、激しい音が響いて窓が割れただけで、周囲は視線すらこちらに向けなかった。圭吾はガラスの破片で身を切らないように注意を払いながら、電車から抜け出した。線路に降り立ち、駆け足で隅に寄る。――家を出る時は風が強かったのに、今はまったくの無風だった。時が経っている実感が湧かない。腕時計を見ると、秒針が動いていなかった。


 圭吾は駅に行ってみる事にした。もしかしたら、自分と同様この状況に困惑している誰かがいるかもしれない。ならばその人物と手を組むべきだ。状況を理解し、打破する方法を探さねばならない。幸運な事に、駅までの距離はそう遠くなかった。次の駅のホームが、前方に小さく確認できる。本来なら行く予定のなかった駅だが、今そんなことを言っている場合ではない。圭吾は震える足を叱咤して、足早に歩いた。





 ホームの停車位置には、通勤や通学の為に電車を利用する人物たちが列を作って並んでいた。携帯に視線を落とす制服の少女、眠たそうに欠伸を噛み殺す四十代の男――彼らは、写真でその瞬間だけを切り取ったかのように、凍りついて動かない。周囲を確認しても、自分と同じ立場らしき人間はいなかった。どうすべきか全く解らず、圭吾は途方に暮れる。


 とりあえず目標を定めよう、と圭吾はまだ混乱が抜け切らない頭で思った。ここからだと警察署が近いはずだ。この状況で機能しているかは怪しいところだが、他に何をすればいいのかも解らない。圭吾は警察署に向かう事にした。人で混雑するホームを、障害物でも避けるように歩く。普段は鬱陶しかった人混みやざわめきが、今は恋しくて堪らない。改札口を抜けて――慶太の持つ定期券を改札が読み取る事は無かった――駅を出た。


 駅前に出るとますます、異様な事態になっていることを肌で感じる。道を行く誰もが、微動だにしないのだ。ビルの上方に取り付けられた巨大な液晶画面は、普段ならば地域のニュースを流しているにも関わらず、アナウンサーが口を半開きにしたまま固まっている。物音も一切ない。自分の呼吸の音が、やけに耳障りだ。


 不気味な雰囲気の町中を歩く。内心不安で堪らなかった。今自分に何が起きているのか、これからどうなってしまうのか——――道中、何度も携帯電話を取り出して誰かと連絡を取ろうと試みたけれど、一向に画面は変わらない。警察署に行くという目標が無ければ、気が狂いそうだった。――――もし目的地に到着しても何も変わらなかったら、その時自分は今度こそ年甲斐もなく泣いてしまうかもしれない。そう思うと、自然と歩く速度が落ちてしまう。縋るような気持ちで、圭吾はもう一度携帯を取り出した。

 ――――その時。


「おにいちゃん!」


 静かだった世界に突如、幼い少女の声が響いた。驚いて振り向いた圭吾は、そこにいた子供の姿に目を疑った。


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