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8 彼女の記憶

 視界が暗転し、音も聞こえなくなる。

 しかし、そんな中でも和子の意識はあった。胸元に痛みはない。その代わりに、じわじわと《なにか》が和子の身体に浸食しているのを感じた。

 虫が這うような感覚に和子は身をよじる。そこで、和子は自分の手足が動くことに気づく。


 いつの間にか閉じていたまぶたを勢いよく開けた。

 すると、和子の目には薄紅の花弁が映った。


 真っ先に映ったのは満開の桜。花弁が風にのって吹雪くのを、和子は呆然と見つめる。


 ここは、どこなのか。

 夜であったはずだが空からは心地よい日差しがふりそそぐ。直前までいた場所とは正反対の華々しい雰囲気に、和子は眩暈を覚えた。

 和子の記憶では、季節はすでに春を越えて夏を迎えようとしていたはずだ。だというのに、ここでは百花繚乱と言わんばかりに春の花が咲き乱れている。


 もしかして、怨霊に魂を抜かれたからこんな場所に来てしまったのだろうか。

 浄土かと錯覚する風景にそんなことを思う。

 しかし、桜から目を離せば和子がいる屋敷の調度品から建物まで豪華絢爛であることが分かり、さらに訳が分からなくなる。


 そこへ、どこか弾んだ声が近づいてきた。


「瑠璃! こんなところにいたのか」


 自分の他に人がいるとは思わず、和子は驚いて振り返る。

 そこには目を和ませてこちらを見る青年がいた。年の頃は兄の為成と同じくらいだろう。彼が身につけている衣の色や装飾から、若くしてかなりの地位についていることが知れた。

 しかし、《瑠璃》というのは一体誰のことか。

 勢いを止めることなく和子に近づく青年に焦る。家族以外には許さない距離にまで近づき、ついには身体がぶつかると思う距離にまで達した。

 制止する間もない。衝突する痛みを覚悟して身を固める。


 だが、青年は物体などないかのように和子の身体をすり抜けた。


「……え?」


 身体に衝撃はない。ただ、怨霊が帳を通り抜けた光景が頭をよぎり、和子はやけに脈を打つ胸を押さえた。

 やはり、今の和子は魂だけになっている。そう予想はしていたものの、実際に目の当たりにするとひどく動揺した。

 そんな和子の背後で、先程の青年が《瑠璃》と会話している。


「探したよ。先程三条殿から美しい衣を頂いたんだ。親王さまの妃へ、とね」

「まぁ。まだ妃と決まったわけではないのに。でも嬉しいわ」

「よほどのことがない限り瑠璃が入内するのは確実さ。そうでなければこんなに贈物がくるはずないだろう。他にも珍しい香炉も頂いたよ」


 視線を向ければ、桜を眺めていたと思しき姫君が先程の青年といた。

 二人の親しげに会話する様子から家族かと検討をつける。瑠璃姫は顔を隠しておらず、なにより互いに名前を呼び合っていることが決め手だった。

 貴族の間では家族以外の者に自分の名前を教えることは早々ない。和子も普段は二番目の姫ということから二姫と呼ばれているが、家族間では名前で呼ばれている。


 そんな風に和子が観察していると、青年と会話しつつコロコロと軽やかに笑う瑠璃姫にどこか既視感を覚えた。

 しかし、こんな身分の高そうな姫君と知り合いになるわけがない。きっと、この姫に似た人を見たことがあるだけだろう。


 和子がそう考え直している間、おもむろに二人は室を移動し始めた。どうやら贈物を見に行くらしい。


 そこで、和子は彼らの後をついていこうか迷った。どうしてここにいるのか分からない今、せめてここがどこなのかだけでも知っておきたいと思う。

 案の定、二人や彼らに付き従う使用人たちも和子の存在に気づかない。誰かに見咎められることはまずないだろう。

 女房たちに混じって後に続こうと和子も歩み始める。

 そこに突然、静かな声が飛んできた。


「一人で深追いすると、戻れなくなりますよ」


 その言葉はこの場にいる者の声ではなかった。現に、足を止めたのは和子一人。大勢いた人々は表情を変えることなく立ち去ってしまう。

 周囲を見回して声の主を探す。

 すると、いつの間にか桜の木の下に一人の男性が佇んでいた。


 黒の直衣を身に付けた初老の男性だった。

 一度目を離せば見失ってしまうのではと思うほど、その男性は現実味がなく、風景に溶け込んでいた。

 その深みのある黒の目は和子をジッと見ている。これほど不躾に見られれば普通なら不愉快になるところだが、なぜだか心が静まるような不思議な感覚がする。


「ここは彼女の記憶であり、過去の中。現実とは違うのですから」

「彼女というと?」

「あなたは会ったはずですよ。会わなければここにいるはずがありません」

「……もしかして、あの怨霊のことですか? あなたも魂を抜かれたのですか?」


 和子がここに来た原因ははっきりと分かってはいないが、あの怨霊が関わっているのは間違いない。

 だとすると、和子と共にここにいる男性も怨霊に魂を抜かれたということになる。

 しかし、和子の言葉を男性は眉を下げて否定した。


「確かにわたしは魂を抜かれたと言っていいのかもしれません。けれども、彼女は怨霊ではありませんよ」

「なぜそう言えるのです。ある陰陽師は、彼女を怨霊だと申しておりました」

「彼女は利用されているだけです。……わたしの言葉より、見た方が早いかもしれませんね」


 憂い顔の男性の言葉に和子は首を傾げる。

 しかし、桜の花弁が一気に散り、瞬く間に新緑の若葉が周囲を埋め尽くす様子に言葉を失った。

 変化したのは桜だけではなかった。庭園の草木が枯れたと思えば新たに生えてくる。よく見ると春から夏の風景に様変わりしたようだ。


「我々は彼女の過去を見ているのですよ」


 呆けた和子を誘導するように男性は手を引き、庭園を歩き始める。

 その間にも草木の変化は止まらない。深緑に染まった葉は見る間に黄色を帯びていき、最後には枯れ落ちていく。

 すっかり秋の哀愁漂う風景に変わった庭園。その美しさに目を奪われていると、ようやく男性の足が止まった。


「ご覧ください。彼女の人生が大きく変わった瞬間です」


 促されるままに男性が指し示す方向に視線を送る。

 そこには相変わらず豪奢な屋敷があった。だが、室内にいる人々の表情は暗い。中には先程見た瑠璃姫が泣く女房にすがられていた。彼女の目元は真っ赤に腫れていた。


「なにがあったのですか。皆泣き暮れている様子ですが……」

「一家の長が流罪にされたのですよ。政争に負けたのでしょう」

「……聞いたことがあります。確か数年前に、皇家の血を継ぐ貴族が父子とも島流しにされたと」


 いくら高貴な血を継いでいても、罪人となればその権威は地に落ちる。

 この屋敷の人々もこうなってしまってはどうしようもないことをよく分かっていたのだろう。

 延々と涙を流し、嗚咽をもらす。

 そんな人々の悲愴な嘆きを流すように、止まることを知らない時はどんどん進んでいく。


 草木が枯れるように、次第に屋敷も朽ちていく。

 屋根に雪が降り積もる時分には人はおらず、夜盗に入られたのか荒れた室内が目についた。


 そんな悲惨な光景に和子は息を呑む。確か、これに似た風景を以前、和子は見た。

 もしかして、という言葉を胸に秘め、未だに変化を続ける屋敷に視線を向ける。


 すると、荒れ果てた屋敷に一つの人影が現れた。

 うねるほど長い黒髪をそのままに、色褪せた衣を引きずってやってきた顔色の悪い女。とても健康とは言い難い顔つきをしており、雰囲気も変わってしまっているが間違いない。あの瑠璃姫である。


「ここで、家族に会えるの……?」


 うわ言のようにそう呟く瑠璃姫。その言葉からは、没落後の生活が厳しいことよりも家族と引き離されたことのほうが精神的に響いていることが窺える。

 しばらくは屋敷の中でなにかを探すように視線を彷徨わせる。だが、虚ろな目に理性が宿った途端、顔を歪めてその場に崩れ落ちた。


 自分の姿が相手に見えないことを忘れて、和子は思わず身を乗り出す。

 しかし、崩れ落ちた瑠璃姫は別の腕によって支えられた。

 顔が見えないが、(はなだ)色に染められた衣の袖が見える。その腕の主は瑠璃姫を立たせると、ゆったりとした口調で彼女を叱責し始める。


「六条君、しっかりなさいませ。ご家族にお会いになりたいのでしょう?」

「もういいわ。父上も兄上も、いないのよ。分かっているのよ」

「いえ、姫君、諦めてはなりません。わたしの術を信じてくださいませ。必ずや、姫がご家族とお会いなさるようにします。そのためには、まず、姫がわたしを信じなければなりません」

「……わたくしが、あなたを?」

「はい、そうです。わたしにすべてをお任せくださいませ。そうすれば、姫が望むとおり、ご家族とお会いできます」


 その流れるような低い声は聞いている者の頭に反響し、忘れ難い言葉として残る。

 声の主を見ていた瑠璃姫も見る間に目から力が失われたのが分かった。まるでその目は春昭が作りだしたあの《人形》のようだ。


 それに気づいた和子は鳥肌が立った。落ち着かせているというよりも、洗脳しているかのように見える光景だった。


「相手の心を陥落させれば何事も御しやすい。術師であればなおさらです。あの様子では、姫はすでに魂も握られているでしょう」


 横に立つ男性は刻まれたしわを一層濃くしながら言う。和子と同様に、彼はひどく悲しげな眼差しでその光景を見ていた。


「さぁ、眠りなさい。眠れば、夢路でご家族に必ず会えましょう」

「ほんとうね? 父上や兄上に会えるのね?」

「えぇ。あなたさまはただ一心にご家族を思い、信じればよいのです」


 縹色の衣から伸ばされた手が瑠璃姫の虚ろな目にかざされ、促されるように彼女の目が閉じる。

 それと同時に、和子と男性を取り巻いていた風景も一変する。


 庭園にある枯れ木、雑草、朽ちた屋敷がそれぞれを巻き込むように歪み始めていた。

 何事かと驚く和子の横で、男性が変わらず穏やかな声で呟く。


「こうしてあの姫は生きたまま霊魂を操られ、異形と化してしまうのです。……なんと残酷な」

「やはり、瑠璃姫があの霊だったのですね。道理で見覚えのある屋敷だと……ところで、庭園が徐々に消えているのは気のせいでしょうか」

「最初に申したでしょう。ここはあの姫の過去の記憶。記憶の中の姫が意識を失くしたものですから、ここで記憶が途切れているのでしょう」

「このままではわたしたちはどうなるのでしょうか」

「さぁ……記憶と共に消えてしまうのでしょうかね、分かりません」


 怨霊だと思っていた女が実は生霊で、しかも何者かに利用されていた。その事実を早く春昭に告げて、なんとか彼女を解放してほしい。

 しかし、和子の願いは無事この場から元に戻れた場合の話だ。今にも迫りくる《歪み》に冷や汗を流す。

 だというのに、知ったことかと平然としている男性に和子は一瞬呆気にとられる。


「さぁって、戻り方をご存じではないのですか? 先程から陰陽道に詳しいようでしたが」

「わたしは陰陽師でしたから。しかし、知っていたらもっと早くにここを脱していますよ」


 もっともらしいことを言いながらも、彼は焦った様子もない。

 そんな間にもすでにほとんどの風景が《歪み》に呑み込まれた状態だ。逃げようにも和子と男性の周囲はすでに《歪み》によって囲まれていた。


「それはそうですけれど――!」


 もう逃げ場かない。

 ついに身を食われ始めた和子は、今度こそ死んでしまうかもしれないという恐怖に苛まれながら《歪み》に呑まれた。

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