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7 怨霊調伏

 ゆらりと揺れる火。それに照らされた春昭の顔はどこか憂いを含んでいる。

 そんな彼の作業を和子が眺めていると、視線に気づいた春昭がふと表情を緩めた。


「そんなに見つめられると手元が狂ってしまいます」

「あ、気にしないでください。春昭さまではなく呪具の方を見ているので」

「……さようですか」


 好奇心旺盛な和子の目線の先にあるのは、春昭が準備している呪具だった。

 呪具といっても質素なもので、人の形を模した紙に人毛がくくりつけてあるだけのもの。

 しかし、見慣れないそれを和子はまじまじと見つめる。

 そんな和子に春昭はもはや取り繕うこともなく大仰にため息を吐いた。


「夜、室に殿方と二人きりという状況は姫君としてなにか思うところはないのですか」

「それよりもあなたがその呪具をどう扱うかのほうが気になります」

「二姫さまがこれほど陰陽道に興味がおありとは知りませんでしたよ」

「陰陽道に興味がある姫、なんて噂を流してはどの殿方も文をくださりませんから」


 事実、世の殿方の琴線に触れるのは姫君の容姿、教養、性格といったところだろう。

 姉の敦子が夢焦がれる恋愛結婚も、あるところにはあるが稀だ。それぞれが自分の身分と相手の家柄を意識して結婚するのだから。

 そうでしょう、と目の前の殿方に聞けば視線を逸らされる。


「以前の姫君らしかった二姫さまはどこへ行ってしまったのでしょうね」

「そう言いつつ、春昭さまも随分な言いようですね」


 遠慮なく言い合う様は以前にはなかった。それを指摘してしまえばお互いに黙るしかない。


「準備が整いました。怨霊をおびき寄せます」


 先程までの雰囲気を打ち払うように春昭は立ち上がる。

 そして、彼を見上げていた和子を流し見た。その眼差しは至って真面目だ。


「よろしいですか、不用意に、そこから動かないでくださいね」

「分かりました。無事、終わることを祈っております」


 わざわざ言葉を区切って注意を促す春昭に、和子は嫌な顔を見せずに頷く。

 無理を言って彼の仕事場に押し掛けたのだ。この場にいることを許されているだけで感謝すべきだ。

 そんな神妙な表情の和子に、春昭はなんとも形容しがたい表情を浮かべる。

 この期に及んでなにか言いたいことでもあるのか。そう思われたが、和子が口を開くよりも先に春昭は背を向ける。

 そして、明朗な声で言葉を紡ぎ始めた。


 彼が発する言葉の一つ一つの意味を、和子は理解することが出来ない。

 しかし、次第にこの場の気配が変わっていくのを感じた。


 見た目は変わった様子のない室内。それが、なにか目に見えない力で作りかえられていく。

 身に迫る数多の気配に、胸の深奥が震えた。

 人であるはずがない。この邸にはそれほど使用人がいるわけではないのだ。だというのに、息が詰まるほどの気配を感じる。

 そんな変化に眉根一つ動かさずに春昭はひたすら口を動かす。

 和子もその気配に耐え、身どころか声すら発せずにただ息を潜める。


 そうしているうちに、再び空気が変化していくのが分かった。

 濃厚な臭気、粘りつくような水気、身を屈しそうになるほどの圧迫感。


「……来た」


 唸るように低い、春昭の声が聞こえた。途端に和子は、今までなんの音も聞こえないほど自分が緊張していたことに気づく。

 そんな和子の耳に、木が軋む音が飛び込んだ。

 ミシリ、と響いた音は次第に近づく。ゆっくりと確実にこちらの室に近づいている。

 そして、空間を隔てる帳の前で止まった。帳には一つの人影が映っていた。


「愛しい人、あなたが中々いらしてくださらないから、来てしまいました」


 コロコロと鈴を転がしたような、笑い声が聞こえる。

 しかし、そんな声も今はただ背筋を冷たい手で触られたように、身もすくむほどの恐ろしさを感じた。


「はしたないとお思いになるかしら……でも、どうかお許しになって。どうしても、あなたを迎えたかったの」


 女は返答がないにもかかわらず幾度も言葉を投げかける。帳ごしに聞こえるその言葉は情愛に満ちている。

 だが、次第に声音に凄みが増してきているように思う。そう気づくと周りの空気まで重く感じる。

 浅い呼吸を繰り返す和子。その横で、春昭は手にしていた人型の形代を宙へ放る。

 するとそれは和子の目の前で、瞬く間に兄の為成へと変じた。


 見慣れた兄の姿であることに間違いはない。だが、目の前のそれは表情もなく、目に生気が宿っていない。

 紛れもなく偽物だ。そう分かっているが故に、和子はおもむろに動き出した《人形》を顔を歪めて見つめた。

 生気もない《人形》は確かに兄そっくりであるが、なにかが足りないのだ。


 緩慢な動作でそれは帳ごしに女の方へ手を伸ばす。

 途端に女の声音が喜色に染まった。女には為成本人が手を伸ばしているように見えたらしい。


「ようやくわたくしの呼びかけに応えてくださるのね! 嬉しいわ。愛してる。これからずっと、あなたを愛してあげられる」


 そんな声が聞こえたと思った瞬間、和子は総毛立つのが分かった。


 突如として、《人形》の背中から二本の腕が生えたのだ。

 白魚のような細腕はしばらくなにかを探すようにゆらりゆらりと宙をかく。

 しかし、女の困惑する声と共にぴたりと腕が止まる。


「あら、なぜなの、なんで魂が……」

「あなたは彼の人の魂を得ることはできませんよ」


 その言葉と同時に、春昭は印を結ぶ。

 すると、女の白腕が突き出ている《人形》の背に、眩い光が生じる。その光が背の上で一筋円を描くと、春昭は印を結んだ手を、まるで細い糸を手繰るかのような動作で引く。

 そうすれば、甲高い悲鳴と共に女が室へ転がり込んできた。


 驚くことに通過したはずの帳はわずかにも動いていない。

 役目を終えた《人形》は一瞬にして元の紙に戻り、宙へ飛ぶ。

 そんな中、帳で隠れていた女は姿を晒すことになった。その姿はとても人間とは思えない姿だった。


 廃れた屋敷で見た、あの怨霊に違いなかった。それでも、以前目にした時よりも人から離れた姿に動揺した。

 帳に移った影と同じく、身の丈は和子とさほど変わらない。

 だが、黒い煙に身を包まれた彼女の下半身は、どうみても人の足ではなく蛇の胴だった。


「欲に狂った者はその身を蛇にやつす、というのですが……未だに人の形はあるようですね」


 意外だと言葉にする春昭だが、冷淡にそう言う様子からは感情が一切読みとれない。


 その間も、和子は決して目を瞑らず、その姿を眼窩に焼き付けた。

 女の姿は黒い煙に身を包まれてそれ以上のことが分からない。ときおり黒煙の途切れた先に、姫の装束が垣間見える程度だ。

 ただ、先程見せていた腕だけは真っ白のまま、拘束されたように前へ突き出していた。


「なんなの! あの方はどこよ!」


 身をひねって喚く女。どうやら身動きが取れなくなっているらしく、春昭の方を睨みつける。

 その女の様子に表情を動かすこともなく、視線を受けた春昭は淡々と告げる。


「お前の言う《あの方》が誰なのか、わたしに分かるわけないだろう」

「なにを言うの、お前があの方を隠したのでしょう! 確かにいたもの、この場に。さぁ、早く出しなさい!」

「では問うが《あの方》の名を言えるか?」

「……名を?」

「妄執に囚われて自我を忘れる前に、思い出せ。人として終わりたいなら」

「……なにを、馬鹿なことを。あの方の名? それが分からないからと、なんの支障があるのよ。わたくしを愚弄するのは止めなさい、陰陽師の分際で!」


 女の感情と呼応するように彼女の身を一層厚い黒煙が包み込む。それを見た春昭の目に、わずかの憐憫が浮かぶ。

 そんな彼らをつぶさに見ていた和子は、わずかに違和感を覚えた。

 一瞬、《あの方》の名を問われた後に見えた女の目が、鬼灯のように赤々とした目が、澄んだ黒に変わったのだ。


 もしかしたら、とわずかに期待する。

 このままでは異形として調伏されるのだ、というのはこの場の雰囲気から読みとれた。

 だが、あともう少しで人へ戻れるのかもしれない。憎悪に塗れた瞳から清らかで美しい瞳に変わるのかもしれない。


 そう考えていたために、迷いもなく春昭が調伏せんと九字を切り始めたのを見て和子は焦った。

 兄に憑いた怨霊だ、と情け容赦なく切り捨てることもできるだろう。

 だが、春昭が告げた言葉が和子の怨霊への敵意を削いだ。


『人の弱い心に巣食うものです。覚悟がなければ、今度はあなたが怨霊に憑かれてしまいます』


 これは和子に向けての言葉だが、この女に対しても同じことだ。

 弱い心を抱えていたのだろう。そのため、このような異形の姿に身をやつしてしまったのだ。

 この哀れな異形を人に戻すには、誰かの言葉が必要だ。和子が春昭に告げられたように。和子が《少年》に告げたように。


「春昭さま、待ってください!」


 先程までの身体の硬直を忘れ、身を乗り出して声を絞り出す。

 そうすれば、春昭は驚いたのか目を見開いた。今にも振り下ろそうとしていた印は止められた。

 その事実に和子はほっと息を漏らす。

 だが、勢い余って身体の均衡を崩した和子を見て、春昭の表情が驚きから焦りに変わった。


 和子は春昭に直前に言われていたことを忘れていた。

 春昭が作った《場》から離れ、手を床についた和子は、己の耳元に聞こえた言葉に背筋が凍った。


「ほら、隠していたじゃない。この方こそ、わたくしが求めていた方よ」


 春昭の制止の声が聞こえる一方で、視界の端が黒煙に浸食されていく。

 狂喜に染まった瞳に見つめられながら、和子は最後に胸元へ白腕が伸ばされたのを見た。


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