4 疑わしき者
きょとんとした顔でそう言うのは牛飼童だ。
絶句する和子を後目に、彼は目の前の廃れた邸宅へ視線を向ける。
その途端に彼の眼差しがとろりと恍惚の色を帯びるのを和子は見た。
「真新しいのでしょうか、邸宅が光り輝いているように思われます。それなのにどこに目を向けても上品な趣があって……あ、池には美しい魚が泳いでますよ」
「……あなたはなにを言っているの」
どこを見ても退廃したものしかない。池の水にしても、へどろのような緑に覆われて魚など見受けられない。
だというのに、未だにこの廃園をほめたたえる。
様子がおかしい牛飼童を信じられない目で見る。
すると、彼は無邪気に拗ねてみせた。
「どうしてそう頑なになっているのです。お認めになってしまえばいいのですよ。ただそれだけですのに」
そう言う牛飼童の目が、平常とは思えない。小刻みに目玉が動き、視線が定まらくなってくる。
これはどういうことだ。先程から黙している竹夫に向かって再度問いただそうとする。
すると、牛飼童からこの場に似つかわしくない喜々とした声が上がった。
「二姫さま、ご覧ください! 邸宅の主人が我々を招いているようですよ。きっと、若君さまが懸想なさっている姫君です。そうに違いない、とっても美しい」
あろう事か和子の腕をつかんで牛車から出そうとした牛飼童。そのことに驚いて抵抗もできずに和子は引っ張られる。
しかし、それを竹夫は引っ剥がし倒れ掛けた和子を抱き留めた。
目にも留まらぬ早業だった。
一瞬のことでなにがなにやら和子は理解が追いつかない。
ただ、牛飼童が地に伸びているのを見て、竹夫が和子を助け、さらに牛飼童の意識を奪ったのだということは理解した。
「これは、一体どういうことなの」
竹夫の瞳を見て、異常が見られないことに酷く安堵する。
しかし、こんな場所に連れてきたのは竹夫なのだ。どういうつもりなのか問わねばならない。
そんな和子の追求を竹夫は受け流すように視線を逃がしてしまう。
その動作に一抹の不安を覚えた和子だったが、次の言葉で一層その思いは深まる。
「二姫さま、あちらになにが見えますか」
邸宅の方を向いてそう言う竹夫に、まさか、彼もおかしなことを言い出すのではないかと思う。
しかし、促されて視線を向けた先には、先程までは見えなかったものが見えていた。
それは人だった。まさかこんな廃墟には居まい、と思っていただけに驚く。
ゆったりと邸宅内を歩く男性。顔は見えないが、浅紫の衣を身にまとっていることが分かる。
だが、見ている内になにかがおかしいと思い始め、気づいたときには身を強ばらせた。
音もなく動くその人物には、影がなかった。
今宵は月が明るく、足下には濃い影が落ちているはずなのにそれがない。
和子の異変に気づいたのか、竹夫が口を開いた。
「二姫さま、あちらになにが見えますか」
先程と同じ問いかけ。だが、意味合いは違うと理解できる。
この問いかけに答えたら、どうなってしまうのか。
返事をすればなにか恐ろしいことが起こる。そんな気がして口を固く閉ざす。
しかし、相手は返事を待ちきれなかったようだ。胸元にしがみつく和子の顔をのぞき込んだ。
乾ききった目にひきつった顔。それだけ見れば、答えは分かってしまったらしい。
「……やはり、二姫さまは見えるのですね」
混乱しかけている頭で、その言いように疑問を持つ。
やはり、というのはどういう意味か。
自然と俯かせていた顔を上げ、口を開く。
しかし、予定していた言葉は発する前に別の言葉に取って代わった。
「竹夫! 後ろ!」
背後から黒い何かが近づいていた。
一目見ただけで禍々しいと感じるその気配。人の形をしているようで、こちらに手を伸ばしているように見える。
あれに触れてはいけない。
咄嗟に竹夫を自分の元に引き寄せ、距離をとる。
しかし、今度は和子の方へ狙いを定めたらしい。何事かを言いながら近づく。
それを目に入れつつも和子は手足を動かすことができなかった。
どういうことか、視界の端がじわじわと黒に浸食されている。気を失う前兆だ。そう理解し、なにもできない自分が情けなく感じた。
「まだ……」
なにかできないのか。
そう強く念じた刹那、一番古い記憶が蘇った。いつの頃かも分からない。酷く懐かしい記憶。
その記憶に従って、言い慣れた言葉を紡ぐ。つかえることなく長い一続きの言葉を言い切った。
突如、瞼の裏を焼くような白光に照らされる。
目の前の気配が消えるのを感じつつ、和子は意識を手放した。
***
なぜだか、体が酷く怠い。
そう思いつつ和子は目を開けた。ぼやけた視界に見えるのは見覚えのない天井。
横たえたまま首を動かして辺りを見回せば、はっきりとここが自分の室ではないことが分かった。
「ここは……」
気を失う前のことを思い出す。たしか、和子は得体の知れないものに襲われていたはずだ。
そのことを思えば、この状況を見る限り助かったと思っていいのだろうか。
緩慢な動作で体を起こすと、和子に掛けられていた単衣が落ちる。途端に下着一枚しか着ていないことが発覚した。
寝苦しくないようにとの配慮だろうが、自分の意識のないときに脱がされたのかと思うと微妙な心地だ。
ともすれば赤面しそうになる。しかし、そんなことに気を取られている場合ではないと己を叱咤した。
あの後、竹夫と牛飼童はどうなったのか。二人とも様子がおかしかったのを思い出すと、現在の具合が気になる。
さすがに下着のまま動く気にはならなかったため、掛けられていた単衣を掴んで着ようとする。
しかし、横から突然伸びた白い手に阻まれた。
「お手伝いしますね」
いつからいたのだろうか。傍らに水干姿の童がいた。
驚きのあまり手が止まったのをいいことに、その童は和子の手から単衣を受け取る。
そして平然と和子に着付けを始めた。
単衣に腕を通すときになって、ようやく和子は声を発することができた。
「あの……あなたは」
「鈴と申します」
そう言って無邪気な笑顔を見せる鈴。先程から口元に笑みを湛えているような娘だったが、笑うとえくぼができて愛らしい。
「姫君の目が覚めたならお連れするように、と主人から命じられています」
「鈴、あなたの主人とはどなたですか」
「申し訳ありません。事情はすべて主人がお答えするとのことで、わたしの口からはお教えできません」
この屋敷の主人というと、和子の恩人に当たる人かもしれない。
だが、単刀直入に問いかけるも口ごもる様子もなく即座に返される。
「では、鈴。供の者の安否は」
「わたしの口からはとても説明できません。ですので、このあと主人とお会いになってお聞きください」
鈴の主人に会う前に自分の状況を少しでも把握しておきたい。
そう思い、試しに他にも質問したが困ったように眉尻を下げられただけだった。
結局なにも情報を得ないまま、鈴にある室へ導かれる。
移動した距離はほとんどなかったが、目にしただけでもこの屋敷の敷地が広いことは確認した。
渡殿から見えた庭園も美しく、この屋敷の主人がいかに力を持っているかが伺い知れる。
「鈴でございます。件の姫君がおいでです」
「そうか、入ってくれ」
この屋敷の主人とは、一体どんな人物だろうか。そう身構えていた和子だったが、聞こえてきた声が思いの外若いことに驚く。
まもなく、帳によって仕切られた室へ招かれる。
事前に手渡されていた扇を開き、顔を見せないようにしながら進んだ。
その室内には狩衣を着た男性がいた。視線が合いそうになった和子は慌てて扇に視線を落とす。
ありえないことに、この室には彼と和子を遮る御簾がなかった。
「姫君には申し訳ありませんが、何分急なことだったので」
腰は下ろしたものの、居心地が悪そうな気配を察したのか男性が言う。
それにしてもぞんざいな扱いにもの申したくなるが、この目の前の人物が和子の命の恩人かもしれないと思うと強く出れない。
「此度は災難でしたね、姫君。気分はいかがでしょうか」
「……そうですね、落ち着いていますわ」
こんな状況で気分もなにもないと思うが、ぐっと堪えて囁くように返事をする。
聞きたいことはたくさんあるのだ。落ち着いて話が聞ける状態であると告げれば、早くこの状況に至った経緯を知ることができるだろう。
「それよりもまずお聞かせください。わたしの従者らは無事でしょうか」
「あの二人ならば姫君よりも早く意識を取り戻していましたよ」
「そうですか……わたしのみならず従者までお助けくださり、ありがとうございます」
「いえ、ご無事でなによりでした」
ひとまず竹夫と牛飼童の安否が分かり、安堵する。
それが分かれば、次に気になるのは目の前の人物のことだ。
あの荒廃した邸宅は好んで人が行くような場所とは思えない。通りすがりにしては間が良すぎる。
助けてもらったとはいえ、和子は恩人の行動に警戒しなければならないと考えていた。
あなたは誰ですか。
そう口を開こうとしたが、向こうの方が一息早かった。
「わたしからも、お伺いしたいことがあります」
穏やかな口調であるが有無を言わさない強さが含まれている。
和子はそのことに気づき、警戒心を強めた。
「なんでございましょう」
「あなたは藤式部の子女、二姫さまですね」
藤は藤原という氏から。式部というのは父の官職である。つまり、藤式部とは父のことだ。
どうして分かったのかと一瞬考える。
だが、先に意識を取り戻したらしい竹夫か牛飼童がしゃべったのだろうとすぐに思い至った。
自分ばかりが知られているのは大変心地悪い。とはいえ、和子が二姫であることは確かだ。しぶしぶ肯定の意を伝えようと口を開く。
しかし、次に続けられた言葉に喉がひきつった。
「あぁ、《魂呼び姫》とも呼ばれているとか」
「……よくご存じで」
あの忌々しい呼び名で言われ、肯定する気が失せた。
思わず扇を握る手に力が入ってしまう。それを見た相手が微笑んでいるのが何気なく空気で分かるが、笑い事ではない。
「それで、お聞きしたいのはそれだけですか」
姫君らしさをかなぐり捨て、今にもここを出て行きたいと願う。
しかし、男性が待ったをかけたためにそれは叶わなかった。
「もう一つだけお伺いしたい」
「どうぞ」
「あの怨霊を呼び寄せたのは、二姫さまですか?」
その瞬間、室内の空気が変わった。