3 姫君の邸宅
「兄さまが一人の姫君に懸想している、と聞いたのだけど。竹夫、それは本当なの?」
和子は自室にて御簾ごしに呼び出した男に向かって問いかける。
声をかけられたのは兄の乳母兄。和子の乳母姉である小梅とは、血の繋がった兄妹だ。
その彼は妹と似た無愛想な顔で頷く。
「はい。それは事実です」
「驚いたわ……あなたが言うのなら、本当なのでしょう」
和子と小梅のように、竹夫は生まれたときから為成と共に育った。今でも側について従っている。
そんな彼が、あの為成が一人の姫に執着していると肯定したのだ。
和子は頭上に重くのしかかっていた雲が晴れていくような気がした。
「あの兄さまも一人の女性を愛することができるのね。かなり、いえ、今でも嘘みたいに思うけれど嬉しいわ」
「ことがうまく運べば、若君さまが結婚なさる日も近いかもしれませんね」
和子と小梅が御簾の内でひそひそと言葉を交わす。
以前聞いた話が話なだけに、最初は半信半疑だった。しかし、次第にことが飲み込めてきた和子は竹夫に提案する。
「よく教えてくれました。これで兄さまが身を固めてくれたなら、これ以上嬉しいことはないわ」
「わたしとしても、仕える主人に慶事があれば嬉しく思います」
「ところで聞きたいのだけれど、その姫君がおられる邸宅はどこかしら」
「お知りになってどうするおつもりですか」
「わたしも実際にその邸宅へ赴いて、情報を集めます。……なによ、小梅。不満そうね」
袖の端をひっぱる小梅に視線を向ける。
普段通りに見える無表情だが、わずかに眉がしかめられている。
「なぜ二姫さまが自ら情報集めに行くんですか」
「なぜって、あの兄さまが唯一執着する姫君よ? 気になるじゃない」
「それだけのために行くのですか」
「もちろん、それだけではないわ。わたしはこれでも一応貴族の娘よ。それほど権力があるわけではないけれど、少しは役に立つかもしれない」
為成の懸想する相手が気になる、というのも本音だ。
しかし、いつも女房たちに任せてばかりの情報収集を手伝わせて欲しいと思うのも本音だった。
「わたしはあの呼び名のせいで、これ以上評判が下がりようがない。いまならお忍びで行ってもし見つかっても大丈夫でしょう」
「もしどなたかに見咎められたらあなたさまだけでなく、ご家族まで悪評にさらされるのでは?」
「……そうね、それは困るわ」
容赦なく指摘する小梅に和子はうなだれた。確かに、小梅の言うことは正しい。
やはり、無理があったのかもしれない。そう思って和子は大人しく今回も女房に任せよう、と言いかける。
だが、思わぬ方向から救いの手が差し伸べられた。
「申し訳ありませんが、わたしはその邸宅の主人が分からないのです」
唐突に口を開いた竹夫。突然のことに和子も驚くが、その言葉に目を瞬かせる。
「分からない、というと?」
「見覚えのない邸宅でして。若君にお相手の姫君についてお聞きしても、要領を得ないのです」
「どういうことかしら。兄さまも懸想する姫君に対して、詳しくは知らないということ?」
「はい。ただ、盲信的にその姫君のことを思っておられるのです」
その言葉回しに、一瞬違和感を覚える。
しかし、嫌そうな小梅の声にその思いは払拭される。
「お兄さま、なにを仰りたいの」
「二姫さまにその邸宅をご覧になっていただきたい。そうすれば、わたしが見て分からなかったことが分かるかもしれない」
「必ずしも分かるというわけではないです」
「小梅、おまえが主人を心配するのは分かる。だが、今回は若君さまの結婚がかかっているんだ。わたしも二姫さまの身に危険がないように同行しよう」
いつもは声に感情がこもることがない竹夫。だが、今回ばかりは焦りが見られた。
妹である小梅自身も珍しく思ったのか、はたまた主人の兄が引き合いに出されたからなのか、それ以上なにも言い返さずに唇を強く結ぶ。
それを見て、竹夫は和子に願い出た。
「身勝手なことですが二姫さま、いかがでしょう。道案内はわたしがいたします。もちろん、二姫さまだと周囲に悟られぬように配慮いたします」
「元はといえばわたしが言い出したことですし、竹夫がそう言ってくれるなら心強いわ」
ちらりと横を見つつ、了承する。
その視線を受けた小梅はしぶしぶ、といった体で口を開いた。
「……二姫さま、くれぐれも無理はなさらないでください」
「えぇ、分かったわ」
腹心の女房の許可が出て、内心和子はホッとする。
「では、さっそく準備しなくてはね。いつ行こうかしら。竹夫も同行するとなると、兄さまが屋敷でお休みになっているときよね」
家族思いな為成のことだ。滅多に外に出ない和子が意中の姫君の元へ偵察に行くのだと知れば、きっと小梅のように反対するに違いない。
そう言えば、即座に竹夫が言葉を返す。
「すでに手は回してあります。明日は物忌みで一日邸宅にいらっしゃるはずです」
物忌みの間、その人は外出を控えて邸宅に引きこもることになる。
偵察に行った先で為成に遭遇するという事態は避けられるようだ。
「いい機会ね。それで、明日あなたが兄さまの側から離れられるのはいつ?」
「日が落ちてからです。日中は読経をなさる予定ですから、その間は側におらねばなりません」
「なるほど、ではその頃には外出できるように手配するわ」
とんとん拍子に話し合いは進み、特に頭を悩ますことがなく計画が練られる。
それは竹夫の入念な準備のおかげであった。短時間のあいだによくそこまで気が回るなと和子自身感心した。
だが、竹夫が退出して和子と小梅の二人きりになった。そのとき、小梅はぽつりとこぼした。
「どうも手回しが良すぎます。二姫さま、本当にご用心くださいね」
翌日の晩。篝火に照らされた和子は竹夫が来る前に、連れて行く予定の牛飼童にあることを教えていた。
「《オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ》と繰り返すのです」
「おん、あにちや……二姫さま、覚えられませんよ」
「でも夜道は怖いんでしょう? このおまじないを唱えれば、怖いものと遭遇しても危害を加えられませんよ」
和子の言葉により一層真剣に覚えようとする牛飼童。よほど夜の都が怖いらしい。
確かに、都といえど時には夜盗が出回っていることもある。それをよく知っているからこの牛飼童は怯えているのだろう。
そう考えていると、後方から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「お待たせいたしました」
暗がりから姿を現したのは竹夫だった。腰には太刀を下げている。
「竹夫、兄さまのご様子はどう?」
「心ここにあらずといったご様子で、予定していた読経もままならなかったのでお早めにお休みになってます」
「珍しいわね。勤勉な兄さまがそのような……これも、かの姫君が関わっているのかしら」
「そう思われます」
淡々と返事をすると、竹夫は牛車に不備がないかを確認する。
一通りの準備が終わるとようやく和子は牛車に乗るように促された。
牛車の中に乗り込めば御簾が下がってしまうので外の様子が分からない。
しかし、車の横に竹夫が控えていることは分かっていたので声を掛けた。
「その姫君の邸宅というのはここから遠いのかしら」
「そうですね、左京にあることは間違いないのですが。少々辺鄙な場所にありまして」
「どのような姫君なのかしらね。あまり身分が高い方だと、兄さまと身分が釣り合わないのだけれど」
辺鄙な場所に邸宅を構えているからといって、必ずしも身分が低いというわけではない。実はとても高貴な方が別邸として使用していることがあるのだ。
もしそうなのだとしたら、為成がその家の父君から結婚の許しがもらえるとは思えない。
なにせ、彼は官位を得ているとは言ってもまだまだ下っ端。そして実家は突出したところのない平凡な貴族ときている。
為成の和歌で姫君が陥落したとしても、身分差から呆気なく縁が切れることは目に見えていた。
「身分差からの恋……って姉さまが知ったらとても喜びそう」
「いくら一姫さまでも、お身内である若君さまのことならば真剣にお考えになるのでは」
「甘いわね竹夫。わたしの姉さまは、常日頃から兄さまの元に来る恋文の返歌を盗み読んでは悶えているような方よ」
「……まさかそのような」
「気づいていなかったのね。姉さまはこういうことになると途端に活発的になるの。読まれたからといって兄さまが嫌がることはないのだけれど……一応、本当に読まれてはならない重要な書簡は厳重に管理することをお勧めするわ」
「……了解しました」
我ながら自分の姉の行動は理解に苦しむことがある。
そのため、壁を挟んだ向かい側の深いため息は聞かなかったことにした。
しばらく牛車を進めると、ようやくその邸宅にたどり着いたらしい。
万が一のため、和子は牛車からは降りずに御簾を上げてもらうことにした。
どんな邸宅だろうかと少々緊張してしまう。
しかし、御簾が上がったその先、姫君の邸宅だと言われて見えたその場所に、和子は思わず悲鳴を上げそうになった。
目の前には、見るも無惨な廃墟が広がっていた。
木が朽ちて屋根が落ちたらしいその邸宅の中は、ぽっかり空いた天井から月明かりが差し込んでいる。そのおかげで邸宅内がいかに荒廃しているかが明らかになっていた。
野ざらしにされてどれほどなのか、庭園のみならず室内にまで伸びきった草。すり切れて今にも地に落ちそうな御簾。荒らされたのか、室内にあるはずの調度品は無くなっているか、あらぬ場所に朽ちている。
見るだけで心が冷える、このような場所に姫君がいるとは思えない。
和子は知らず知らずの内に強ばっていた喉を張り上げた。
「竹夫! 本当にここが兄さまの懸想する姫君がいる場所だというの?」
「はい、間違いごさいません」
「どこに人がいるというのです。こんな、荒れ果てた場所に」
あまりの衝撃に言葉の続きが出てこない。そんな和子に心底不思議そうな声がかけられた。
「なにをおっしゃいます、二姫さま。こちらの邸宅は都のどの邸宅よりも優れて美しいではないですか」