16 主人への願い
その光景を見たとき、小梅は心の底から安心すると同時に、主人を抱える人物を睨み上げた。
「こちらへ」
「……あぁ、すまない」
詳細を聞く前に和子を抱えた春昭を邸宅に招き入れる。都の朝は早い。出仕する貴族はもちろんのこと、物売りをする輩もそろそろ活動し始める頃合いだった。
それはこの屋敷にも言えることで、使用人たちが主人の仕度の為に動いている。その静かでありながら忙しない空間を避けるように小梅は春昭を先導する。
そして、和子の室に招き入れると和子を横たえるように指示し、言われた通りにした春昭と和子の間に幾重にも御簾を置いた。
「二姫さまの身を清めますので」
そう言えば、小梅が皆まで言う前に春昭は室から出て行った。
ここまで来て不用意に姿を見られるような鈍臭い人間でもない。恐らく、他の者に見つからぬように続きの室にいるのだろう。
しばらく放置していても大丈夫そうだ。そう見当をつけて、小梅は黙って水桶と布を手にとった。
小梅の主人、和子がいないと気づいたのは春昭の式が訪れてからだった。
夜も更けた頃、気づけば枕元に誰かが立っている。加えて、声をかけられたときは無表情を貫く小梅といえど飛び上るほど驚いたものだ。
しかし、悲鳴を上げかけた小梅の口を押さえて微笑む女童が、あの陰陽師の式神だと聞いて一瞬にして小梅の頭は冷静になった。
安倍春昭と聞いて真っ先に思い出すのは、先日の怨霊の件だ。その一件で小梅の主人が危ない目に遭ったことを、小梅は忘れていない。
わざわざ式神を小梅の元に送るほどだ。まさか、と思いつつ話を聞けば案の定だった。
和子の身体が何者かに奪われた。
そう告げられたときは、和子の側に控えていなかった己を責めた。
小梅は、同じ使用人の女が「どこからか笛の音がする」と言うのを聞いて、一度は和子の様子を見に行っていたのだ。そのときは別段変わった様子もなく、安堵して元来た道を引き返した。
元々小梅には笛の音は聞こえなかったため、その使用人の勘違いだろうと思った。
それが、こんな結果になってしまうとは。
式神は「きっと夜更けに帰ってくる。そのときは密かに二姫さまを無事お返ししよう」と約束する。それは本当か、無事に帰ってくるのか。不安と疑念が胸中を渦巻く。
それでも小梅はなにも言えなかった。
式神の言葉の真偽は小梅ごときの力では分かりようがなかった。同様に、どうにか力になりたいと思っても、小梅に和子を助ける術はない。小梅はその言葉を信じて、ただ待つしかなかった。
そうして寝ずに待って、ようやく主人は帰って来た。
見たところ、衣や身体に汚れをくっつけてはいるが特に怪我をしている様子はない。意識はないものの、苦しげなようでもないことを確認して、ようやく小梅は一息ついた。
最近は立て続けに頭を悩ませる事案が増えていたのだ。魂呼び事件に和子の姉兄の結婚戦略、怨霊事件に続いて今回の一件。その度に和子が無茶していたことを考えれば、今、これほど深く眠りについているのが疲れから来るもののように思えた。
なにごとも精一杯取り組むのは、和子だけではなくここの一家の特徴とも言える。だが、仕える者からしてみれば少しは休息を取ってくれと懇願したくなる。
数日は絶対に無理をさせないように気を配らなければ。
そう決意した小梅は和子の身を清め整えると、手桶を片手に退出する。帳をひとつ越えた場所には、小梅の予想通りひっそりと佇む春昭の姿があった。
「二姫さまのご様子は」
「わたしが申さなくとも、抱えていたあなたさまはお分かりでしょう。お眠りになっているだけです」
「しかし、時には身近な者から見ないと分からない変化もあることだろう」
「……そうでしょうか」
わずかな変化を見逃し、主人を守れなかった小梅に分かるだろうか。
小梅から見れば、陰陽師であるこの男の方がよく分かっているように思った。怨霊や妖など、小梅には到底手出しできない物事を、陰陽師はいとも容易く解決してしまうのだから。
「今宵も二姫さまをお助けくださった。そんなあなたさまが分からないことを、わたし如きが分かることなどありましょうか」
「そのようにわたしが万能であればいいのだがな」
素直な気持ち半分、やっかみ半分の言葉を投げかければ、予想外に自嘲するような声が返ってくる。
ちらりと横目で見れば、春昭が苦笑しているのが見えた。
「わたしはまだまだ若輩だ。分からないことだってある。特に、二姫さまやご家族のことをよく知っているのは、長年仕えてきた者たちの方だろう」
「それはそうですが……なにか、お聞きしたいことがあるのですか?」
藤原家の人間が気にかかっているかのような言い方に、小梅は疑りながらも先に問う。
そうすれば、目の前の陰陽師は笑みを浮かべて頷いた。
「あぁ、二姫さまの母君のことを聞きたい」
なにを聞かれるのだろうかと身構えていた小梅は、春昭の口から予想外な言葉が出たことにわずかに驚いた。
しかし、普段から無表情を貫いている小梅にとって感情が表に出ないのはいつものこと。春昭も、その返事が小梅の感情を揺らがせたことに全く気付かず、言葉を続ける。
「二姫さまの母君がどんなお方か、ご存じか」
「えぇ、わたしの母が側にお仕えしておりましたから。しかし、それをお聞きになってどうなさるおつもりです」
確かに、小梅は自分の母から和子の母についてよく聞かされていた。そして、幼いながらもその話はあまり、他人に聞かせてはならないものだということも理解していた。
自分の無表情が相手に威圧感を与えるものだと分かっていて、あえて小梅は相手から視線を離さない。だが、春昭はなんでもないように軽い口調で言い放った。
「今宵、二姫さまの母君を知る鬼に会ったのだ。どうやら笛を聴かせていたらしい」
あまりの衝撃に言葉のでない小梅を無視し、春昭は尚続ける。
「妖に笛を聴かせるとは、並の姫君ができるようなことではない。それで、気になったのだ。二姫さまの母君とは、どんな方であったか」
どうだ、話してくれる気になったか。
そう尋ねる春昭は涼しげな顔をしている。一方、小梅は表情は変わらないものの、思わず唇を噛んでしまうほどには動揺していた。
小梅が黙っておきたい話を、すでにこの陰陽師は知っている。
齢二十四でこの世を去った佳人は、生前から出家者のような生活を送っていた。そのため、和子らの母のことを知るものは少ない。
知るものが少ないからこそ、今まで誰にも詮索されずに静かに生活していたのだ。それが今、この陰陽師によって崩されようとしている。
場合によっては和子が《魂呼び姫》と呼ばれる以上の影響がでる。それは藤原邸の者に仕える小梅にとって耐えがたいことだった。
「……申せません」
「別に、わたしはこのことを知って、脅そうとしているわけではない。むしろ、二姫さまの助けになればと思うのだよ」
「助けに、ですか」
いつの間にか伏せていた目を上げる。春昭は微笑んでいた。
「先程言ったように、わたしは若輩だ。しかし、この手の知恵はある。二姫さまの身になにかあったとしても、わたしならば今宵のようにお助け出来よう」
利用すればいい。そう促す春昭に小梅は押し黙った。
この陰陽師は確かに今まで和子の危機を救った。しかし、だからといって決して信用できる相手というわけではないのだ。
小梅は考えた。この陰陽師に出来て、小梅には出来ないことを。この陰陽師には出来ず、小梅に出来ることを。
そして、浮んだ答えに小梅は小さく頷いた。
「そこまでおっしゃるなら、利用させていただきましょうか」
「あぁ、そうしてくれ」
「二姫さまの母君についてお教えします。その代わりに、こちらの要求をお受けしてくださいますか」
「もちろんだ」
「ではまず、二姫さまを娶ってくださいませ」
小梅の言い放った言葉は、その場に沈黙をもたらした。
「主人のご夫君ともなれば、秘密にすることなどありません」
「……待て、熟考した末に出た答えかそれは」
「はい」
和子の母は人と離れすぎた。例えご夫君と巡り合い、家族を得たとしても彼女の本質を変えることは出来なかった。
今、その亡き母の後を和子が追おうとしている。
和子がなにも言わなくても、小梅には分かる。和子は、家族が幸せになるためには《魂呼び姫》がいなくならなければならないと考えているに違いない。姉兄の結婚相手が決まったなら、すぐさま人里離れた場所、尼寺にでも行こうとするだろう。
和子の考える幸せがどこにあるのか、共に過ごしてきた小梅は分かる。
だが、それ以外の道を知ってほしかった。小梅は唯一の主人を、友を、早くに失いたくはない。
「何度でも申し上げます。二姫さまを妻になさいませ」
そして、和子をこの世に繋ぎとめる枷となってほしい。
この要求こそ、小梅にとって和子のために出来ることだった。