15 一本足の鬼
「なんだ、《笛の姫》が来てるからこれから宴会だと聞いたってのに。もうお開きか? まったく、俺がどれだけ時間かけてここまで来たと思ってるんだ。足一本でだぞ。呼ぶなら宴が始まる前に呼べと何度言ったことやら」
片方の目玉は和子を見据えて微動だにしないが、もう一方の目玉は周囲を観察しているようにぐるぐると忙しなく動く。
それを真正面から見てしまい、和子は身体の隅々まで一度に熱が消え去ったような心地になった。これ以上見ていたくない、目を逸らさなければ。そうは思うものの、鬼の視線に捕えられたように和子は動けない。
その間にも、鬼は独り言のような言葉を続ける。
しかし、ぐるぐる回っていた目玉も和子を見据えたと思えば、突然こちらに言葉を投げてきた。
「なぁ、《笛の姫》よ。宴なんぞ関係なく、ここは一つ、俺の為に笛を吹いてはくれんか」
白く薄暗闇に浮かぶ一対の目玉がなんの感情も宿すことなく、ただ凝視してくる。
《笛の姫》という呼び名は聞き覚えがないが、これほど凝視してくるのだ、和子にその言葉を投げかけているのだろう。
返事をしなければいけないのだろうか。そう思いながらも、和子の喉は恐怖で引きつり、わずかな呼気しか吐き出さない。
そんな和子を案じたのか、春昭は抱き上げたまま向きを変え、無理矢理和子の視界に鬼が入らないようにしてくれる。鬼の眼差しから逃れると途端に和子を支配していた緊張の糸が切れ、思わず春昭の肩に顔を埋めた。
瞬間、地響きのような音が聞こえる。地の底から響くような音。かと思われたが、よくよく聞けば鬼が喚いている声だった。
「あ、これ姫よ、無視するでない。お主の笛の音ほど楽しいものはないのだぞ。我らが笛の音をどれほど切望しているか、分からぬお主ではあるまい」
視界に入れていないとはいえ、声は聞こえてしまう。あの巨体が見えないだけで随分と恐怖が薄れたためか、相変わらず恐ろしげな声ではあるが必死に訴える声はどこか愛嬌があるような気がする。
それほど、悪いものではないのかもしれない。その思いを読み取ったのか、春昭が声を潜めて問いかける。
「二姫さま、お知り合いですか」
「そんなわけないでしょう。なにをおっしゃるの春昭さま」
「しかし、向こうは二姫さまを知っているかのように話かけていますが」
「会っていたとしたら、きっとわたし、気を失っていたのだわ」
過去に遭遇したのだとしたら、こんなに強烈な出会いはないだろう。少なくとも、先程の衝撃はしばらく忘れられない。
素直に言えば、納得したように春昭は頷く。そうして、なんの臆面もなく一本足の鬼へ声をかけた。
「ちょっといいか」
「なんだ男。お主が姫の代わりに楽しませてくれるのか」
「残念ながらそうではない。確認したいことがあるのだ。先程から聞いていると、お前と《笛の姫》は顔見知りのようだ。しかし、こちらの姫はお前を知らないと言っているぞ。人違いではないか」
異形相手にはっきり物を言う春昭に、和子は賞賛の眼差しを向ける。対する鬼は、いやいやと否定した。
「そんなはずはない。ほれ、そこの姫は笛を持っているだろう。その笛はまさしく俺の知る《笛の姫》が持っていたのと同じものだ。見間違うはずがない」
「……と、申しておりますが。二姫さま」
確かに和子は今、笛を持っている。瑠璃姫に聴かせたときに取り出していたからか、魂抜けした後もなぜか持っていた。
だが、自分が鬼の言う《笛の姫》であるはずがない。そんな確信があるため、記憶を巡らせていた和子はあることを思い出した。
思い出したのは、この笛の元の所有者である。
「この笛は、母の形見なのです」
「……もしや」
「わたしではなくて、その《笛の姫》というのはわたしの母のことでは……だって、わたしは本当に覚えがありませんもの」
和子らの母は、和子が生まれてわずか二年で世を去った。元々身体の強い人ではなかったらしい。
しかし、だからといって和子は己の母のことを全く知らないと言う訳ではなかった。父や乳母から母の話はよく聞いていた。
儚く美しい人だったとか、気が強い人だったとか、聞く人によって正反対な印象を伝えられたが、その中でも唯一皆が口を揃えて言っていたことがある。それは、母が笛の名手であった、ということだ。
「わたしでないとすれば、母しかいません。とても信じられませんが」
和子の母がその《笛の姫》だとすると、この一本足の鬼と顔見知りだということになるのだ。それは和子にとって、自分で言いだしたことにせよ、あり得ないことのように思った。
推測ではあるが、このまま和子を《笛の姫》と勘違いさせたままにするのも具合が悪い。
そういう経緯で一本足の鬼にも和子が《笛の姫》の娘かもしれない、と話す。そうすれば、笛を吹いてくれなどと訴えなくなるだろうと期待してのことだった。
しかし、和子と春昭の思惑は鬼の一言で崩れ去った。
「なに、娘でも構わん。吹いてくれ」
態度もなにも変わらず、ただ笛を所望する鬼。
予想外のことに困惑する人間を放置して、和子にとって聞き捨てならないことをしゃべりだす。
「《笛の姫》の縁者、しかも娘なら尚更だ。近頃、都には《魂呼び姫》などという姫がいるらしいじゃないか。あれはお主のことだろう? 人どころか妖すら魅了する笛の音だと聞いたとき、俺はすぐ分かったぞ。《笛の姫》の縁者に違いない、とな」
どこか得意気に話す鬼の声は延々と続く。鬼というのはこうもおしゃべりなのかと驚く一方、和子は鬼の言葉を聞いてどうしても気になることがあった。
「母の笛の音は、それほど見事だったのですか」
「おう。姫が笛を吹き始めたと聞けば、方々から妖が集ったものだ」
「それは人魂も集ったり……?」
「もちろんだとも」
笛を吹けば妖が寄ってくる。それは和子が最近体験したことと似通っている。
今まで、和子は自分が笛を吹いたことで人魂が集まったということを決して肯定しなかった。笛を吹いたら、偶然、人魂が集まった。ただそれだけだと考えていた。
そうはいっても、噂が収拾できないほど広まったことや不可解なことが起こっていることでその決意も揺らいできていた。加えて、この鬼の話が本当であれば母も和子と同じ――いや、和子が母同様の性質である可能性がある。
和子がなにを聞きたいのかを途中で察したのか、春昭も小さく「母君も……」と呟いたのが聞こえた。
そんな和子らに構わず、鬼は痺れを切らしたらしく期待した声を上げる。
「それで、お主、笛を吹いてくれるのか?」
「ごめんなさい。吹きたいのだけれど、今は身体が動かせないのです」
「身体が動かせない? 姫は手が欠けているのか?」
指が欠けているのなら治してやろうか、と平然という鬼にもはやどんな反応をすればいいのか分からない。そもそも鬼というのは、そんな力も持ち合わせているものだったのか。
雑多な思考に気を取られるが、新たに生まれた疑問に浸っている場合ではない。いかに諦めてもらうかを考えなければならない。魂抜けした身体は未だに重く、笛を構えることもままならないだろうことは分かり切っていた。もっとも、妖を集めてしまうかもしれないという不安を抱えて笛を吹く気にはならなかった。
早く断りの言葉を告げねば。そう思うが、依然鬼には背を向けているため余計に次に続ける言葉に迷う。
返答を待つ鬼と返答に困る和子。この双方が黙ったことで生じた間が沈黙になる、という場面で、すかさず春昭が言葉を繋げた。
「今宵は姫の体調が優れないのだ。無理に笛を持たせたとしても、お前が満足できるような音を聴けないぞ」
「……そうか、体調が優れない、のか。体調が優れない」
春昭の言葉を繰り返し、噛みしめるように口に出す鬼。その反応は、慣れない言葉を聞いたとでも言いたげで諦めてもらうことはできないかもしれないと思わせた。
しかし、やけに静かになったかと思えば、鬼は手の平を返したかのように態度を変えた。
「ならば仕方がない。今回は諦めよう」
「ほ、本当ですか」
「体調が優れないのなら、仕方がない。人は弱いというのをすっかり忘れていた」
まさか体調を考慮してくれるとは思わず呆けてしまった和子だったが、鬼が続けた言葉に我に返った。
人が鬼など妖たちの事情を詳しく知らないように、彼らもまた人に関して知らないはずだ。ましてや脆弱とは程遠いこの鬼なら尚更のこと。
そんな鬼が人の体調を慮るというのは――そこまで考えた和子は軽く肩を揺らされて顔を上げた。
「二姫さま、あの鬼、去ってしまいましたよ」
「いつの間に……」
「笛を聴かせてもらえないと分かってすぐに。あの鬼の本来のねぐらに戻ったのでしょう」
促されるままに恐る恐る鬼がいた場所へ目を向ければ、確かに、あの一本足の鬼は跡形もなく消えていた。あれほどの巨体が一体どうやって音もなく立ち去れたのか不思議でならないが、和子が考えたところで仕方のないことだろう。
「では、我々も行きましょう」
このままでは夜が明けてしまう。そう言う春昭に、和子は力なく頷いた。
一夜のうちにたくさんのことに遭遇して、和子は混乱していた。ただ、今まで見て見ぬふりをしてきた《魂呼び姫》という自分と向き合わねばならないのだということは感じていた。
母も、こうして悩むことがあったのだろうか。
そんな疑問を抱きつつ、和子は遠ざかる羅城門をぼんやりと眺めていた。