12 光る糸の先
そこへ、先程の笛の音を聞いたのか誰かがこの室に近づいてくる音が聞こえてきた。慌てているようでもなく、極力足音が響かないように気をつける余裕があるらしかった。
顔を見せたのは、落ち着いた顔の小梅だった。
側に立っている瑠璃姫には驚かないということは、彼女の姿は見えないのだろう。
「二姫さま、起きていらっしゃいますか?」
「えぇ、起きているわ。ごめんなさいね、こんな夜更けに笛なんか吹いて」
「……あの、二姫さま?」
「ん?」
会話をしているというのに、小梅の視線が合わない。
どこを見ているのだろうか。そう思って小梅の視線を辿る。
すると、そこには《和子》がいた。起き上がって笛を握っている和子に対して、《和子》は目を閉じて横になっていた。
総毛立った。
「どういうこと!?」
「気のせいかしら……二姫さまは寝ていらっしゃるようだし」
「ちょっと、小梅?」
慌てて声をかけるが小梅は全く聞こえないようで、そのまま首を傾げて出ていってしまった。
その様子を見ていた瑠璃姫はぽつりと呟く。
「自分で魂抜けしたのではなかったの?」
「そんな技は知りません! いつの間にこんなことに」
小梅の目に見えない、声が聞こえないということは間違いない。和子まで魂の状態になってしまったようだ。
目の前に抜け殻の自分が見えている今、疑いようもない事実にがっくりと力が抜ける。
「笛を手にした時から、あなたは魂抜けしていたわよ」
「……なぜそのときに声をかけてくださらなかったのですか」
「わたくしを元に戻すための策でもあるのかと思ったのよ。……この様子を見ると、本当にあなたは知らないみたいね」
頭を抱えている和子を見て、ようやく瑠璃姫は和子が《魂呼び姫》と呼ばれるほど知識がないことを信じたらしい。
しかし、彼女が次に口にした言葉はその《魂呼び姫》にしかできないようなことだった。
「でも、知識がないのと力があるのとは別だわ。あなた、魂に『身体に戻れ』と念ずれば戻せるのではないの」
「そ、そのようなことは」
「やったことがないのなら一概にできないとは言えないでしょう。やりなさい」
瑠璃姫の強い物言いに和子は黙る。それは、彼女の言うことにも一理あるからだ。
和子に力があるかと聞かれれば「ない」と即答できる。けれども、そう否定していられないほどに、ありえない出来事が連続して起こっていることも確かだった。
もし、和子自身に力があるのであれば。
そう思った矢先、瑠璃姫が異変に気づいた。
「光の糸……?」
彼女に目を向けると、その身体から仄かに光る糸がいずこかへ繋がっているのが見えた。
これは、和子が念じたからだろうか。説明を求められるような視線が瑠璃姫から送られるが、本人さえもよく分からないものを説明できるはずもない。
そこへ、穏やかな声が和子の代わりに答えた。
「この糸は姫君の身体と魂を繋げるものです。これを辿っていけば、元の身体に戻れるでしょう」
その声にハッとした和子は自分の横を見る。そこにはいつの間に居たのか、瑠璃姫の過去の記憶で出会った、あの老年の陰陽師が立っていた。
ここにいるはずもない人物が突然現れたことに驚く。一方、瑠璃姫はすかさず顔を隠して鋭く誰何の声を上げる。
「何者です!」
「お初にお目にかかります。わたくしは賀茂忠雪と申すもので、一介の陰陽師でございます」
「陰陽師ですって?」
途端に瑠璃姫の柳眉が逆立つ。
「この前から陰陽師と関わって良かったことなどないわ。もしかして、こうして魂抜けが起こったことにお前が関わっているのではないでしょうね」
「誓ってそのようなことはありません」
「では、なぜこのようなことに」
「魂抜けはある人物に会いたいという気持ち、強く焦がれる気持ちがあると起こるのです」
静かに語る忠雪の言葉通りだとすると、瑠璃姫は和子によほど会いたいということになる。和子が魂抜けした理由も強く焦がれたからとでも言うのだろうか。
それを聞いて思わず瑠璃姫の方を見る。彼女もまた、苦虫を噛みつぶしたような顔で和子の方を見ていた。
「そのようなことはありません。なぜわたくしが《魂呼び姫》に会わねばならないのです」
「ご本人でさえもご自分の気持ちに気づかぬことがあるというのは世の常でございます。されど、お気づきにならないままでは再びこのようなことが起こると思われます」
忠雪はそっと瑠璃姫を繋ぐ光の行く先を示す。そして、瑠璃姫だけではなく和子もこの先を辿るようにと言った。
「この光を辿れば姫は元の身体に戻れるでしょう。本来ならわたくしがご案内したいところですが、二姫さまにその役を担ってほしいのです」
「わたしが?」
「はい。あなたさまならば、迷わずにご自分の体までお帰りになれるでしょう」
その言葉に視線を下に落とせば、確かに瑠璃姫と同じような光の緒が横たわった身体と繋がっていた。
「わたくしはあなたさまがお戻りになるまでここに留まっております」
「忠雪さまご自身のお身体に戻らないのですか?」
「はい。魂が抜けた身体というのは無防備なのですよ」
暗に和子が戻るまで身体を見張っていると言う忠雪に首を傾げる。なぜ彼がここに現れたのか分からないが、魂抜けしている彼にとっても自分の身体が無防備であるという点では同じではないのか。そう思うが、その言葉を聞いて瑠璃姫の表情がサッと曇ったのを見て、慌てて立ちあがった。
ここで時間を食うよりも、速やかに瑠璃姫を元の身体に戻さなければ。そうすれば早く和子も身体へ戻れる。忠雪も同様だ。
「分かりました。早く戻ってきますね」
その言葉に忠雪は緩やかに首を振る。急いで戻ってこなくてもいい、という意だろうか。
しかし、それを問いただす時間はないようだ。瑠璃姫はすでにこの邸から外に出ている。見失ってしまってはいけない。
意を決して御簾をくぐる。ぶつかることはないと知りながらも、思わず目を瞑ってしまう。
そんな和子を瑠璃姫は急かした。
正直、外で待っているとは思わなかったのだが、聞いてみると苦い顔で呟いた。
「あの男、忠雪も言っていたでしょう。魂抜けの原因を。別に、あなたに会いたくて堪らなかったわけではないけれど、言いたいことがあったのよ」
そう切り出した瑠璃姫はよほど忠雪の言う通りだということに不服のようで、光の糸を辿りながらも不機嫌そうな表情を隠さない。
しかし、今後も魂抜けしてしまう可能性を考えたのか、渋々口を開いた。
「藤原為成というのは、あなたの兄だと聞いたのだけれど」
「はい。わたしの兄で間違いないです」
「その方から送られた文を、わたしはそのまま送り返したわ」
「はい」
「……どうだった?」
「はい?」
瑠璃姫が和子に言いたいことで「為成」という言葉が出た時点で、文の話だと見当はついていた。
しかし、和子が想像していた瑠璃姫の言葉と実際に目の前にいる瑠璃姫が合致せず、思わず聞き返してしまった。
彼女は視線を合わせることもなく「だから、」と続ける。
「文を送り返されて怒っていた? 悲しんでいた?」
「いえ、その……喜んでいました」
「……なぜ?」
「わたしの推測なのですけれど、兄さまは昔から和歌の才がある人で周囲から認められていました。でも、兄さまはそのことを張り合いがないと感じていたのだと思います」
だからこそ、瑠璃姫から文を添削されたことに喜んだのではないか。
とても常人には理解できない思考だが、自身の才に驕らず常に上を目指す為成らしいと思う。
そう言えば、瑠璃姫は小さく返事をした後、黙ってしまう。
しかし、その横顔がどこか安心したような、先程までの緊張が抜けているように見える。不機嫌そうな表情が消えていた。
もしかして。そんな都合のいい考えが浮ぶが、焦ってはいけないと首を振る。和子の思い違いかもしれないのだから。
沈黙のまま歩む。魂の状態だからか、かなりの距離を歩いただろうに疲れがない。
そうこうしているうちに、瑠璃姫の邸に到着したようだった。
粗末な、とは思わないが、以前の瑠璃姫の邸を思えば随分と小さく質素な邸だった。
「ここまででいいわ」
敷地に入る前にそう言われる。
もう今後会うこともないと、そのまま背を向けて屋敷の中に行ってしまう瑠璃姫。
そんな彼女に鎌をかけるつもりで最後に呼びとめた。
「六条君、兄さまはまた文を出すようなので、ぜひお返事をくださいね」
「……文句のつけようのない文が届けば考えるわ」
それ以外は論外。それだけ告げると、瑠璃姫は邸の中へと消えていった。
受け取らないと答えられなかっただけマシだろうか。
しかし思っていたよりも希望はある。そうと分かれば明日にでも屋敷の女房らと共謀しなくては。
瑠璃姫と別れた後は自分の光の緒を頼りに一人で歩く。
都と言えども夜盗が出ると言う大路に来ると、只人に自分の姿が見えないと分かってはいても怯んでしまう。
ひゅるりと吹く風に首をすくめる。
しかし、風音に紛れて別の音が聞こえることに気づく。ぴゅーぴゅーと拙く鳴るのは笛の音か。
音の聞こえる方へ顔を向ければ、異様な光景が見えた。
大路の中心で、男が人魂に囲まれていた。笛の音だと思っていたのは指笛だったらしく、人魂に手を差し伸べている姿はまるで呼び寄せているようだった。
とても普通の人とは思えない。こんな夜中に人魂と戯れていること以外にも、忌服である黒橡の衣を身に付けていることや結うこともできないほど短い髪をそのままにしていることがこの男の不可解さを増長させていた。
幸いにも、相手はこっそりと様子を伺う和子に気づいていない。このまま悟られぬうちにこの場を去ろう。
そう考えていた和子は、その男があるモノに手を伸ばしたことに気づいた。
なにかを掴むような動作をする男。見定めようとした和子は思わず悲鳴のような声が出た。
男が掴んだのは、和子から伸びた光の緒だった。