11 真夜中の訪問
《魂呼び姫》の噂の他に、新たにもう一つの噂が流れ始めたころ。瑠璃姫に宛てた為成の文は送り返された。
為成の文の内容は瑠璃姫へひたすら愛を語るもの。家族との永訣に直面している瑠璃姫にとって、それは邪魔以外のなにものでもなかったらしい。
持ちかえって来た文には為成の字以外に、別の人物の字が書かれてあった。
竹夫曰く、瑠璃姫がわざわざ筆を持って為成の恋文を添削したとのこと。
文を突き返された挙句、相手から駄目だしを食らうとは。歌に心得のある者であれば誰でも、矜持が傷つくような対応だ。
ましてや、為成は若くして歌の才のある人と言われている。
自分の兄と言えど、和子は為成がどのような行動に出るか分からなかった。
しかし、恐る恐る尋ねた為成の様子は、和子の予想に反していた。
「送り返された文を見て、逆に向上心を刺激されたらしく……」
「それで、今は室に籠って新たに文を練っているの?」
黙って頷く小梅を見て、和子は数日前と同様の驚きを感じた。それと同時に、一抹の疑念が過ぎる。
以前、為成は瑠璃姫に恋慕していると思われたが、それは怨霊と化した瑠璃姫に憑かれていたことが原因だった。
後日、その事件は解決した。和子自身がこの目で確認したのだから間違いない、はずだ。
それでもあの為成が瑠璃姫にやけに固執しているという知らせを受けると、杞憂とは分かっていながらも考えてしまう。
「ねぇ、また別のなにかに憑かれてるのではないの?」
「二姫さま……若君も人の子ですよ。特定の方をお好きになる可能性はないわけではございません。ご自分の兄君を信じられないのですか」
「そうは言うけれど小梅、あの兄さまよ? 今度こそ瑠璃姫を一心に慕っていると思う?」
薄情な妹だと言われるかもしれないが、あんな出来事が起こった後では疑わずにはいられない。
期待させてから後で落胆させられるというのは存外に疲れるものだ。
「様子を見ましょう。その間、引き続き我が家と縁を結んでくれそうな方を調べないと」
和子が怨霊に頭を悩ませている間にも、優秀な使用人たちは方々から姉兄の婿嫁候補の情報を集めていた。それを元に目星をつけて、今から少しずつ根回しをしておかねばならない。
そう計画していると、小梅がやけにじっとりした目線を送ってくる。
「二姫さまご自身はどうなのです。先日から、ある噂が流れていますが」
小梅の言う噂というのは《魂呼び姫》関連の噂ではなく、春昭に文を渡した後から流れた噂のことだ。
和子の指示通り竹夫は動いてくれたらしく、狙い通りの結果を得ることが出来た。
事実無根のその噂は噂にされている本人が流したのだから自業自得だ。
むしろ、春昭への仕返しとしてそれなりに噂になってくれないと困るとさえ思っていたくらいだ。
そう言っても心配してくる小梅へ和子は微笑んだ。
「そうね、わたしも準備しないとね。早めに、縁のある尼寺に連絡しましょう。《魂呼び姫》を受け入れてくれるか」
《魂呼び姫》などという呼び名をつけられた時点で、誰かと生涯を寄り添うということは諦めていた。
だからこそ、春昭に対してあのような噂をでっち上げることができたようなものだ。
尼寺に入った女性は俗世とは切り離される。和子が尼寺へ入ったとなれば、その噂も絶えるはずだ。
春昭には和子が尼寺に入るまで辛抱してもらおう。
そう言えば、小梅は力なくため息を吐いた。
いつもの如く姉が物語を読みあさり、兄が一心不乱に文を書き散らし、使用人と和子が結託して情報収集をした一日が終わった。
夜になり、床についた和子はふと、そんな一日が久しぶりに感じた。
思えば怨霊騒ぎの間はそれどころではなく、こうして穏やかに夜を迎えたのは事件が終わって今夜が初めてだったのだ。
そう考えると和子は今更ながら、これまでの怨霊騒ぎを思い返すことができた。
その中でも特に思い出されたのは和子と親しかったらしい少年の記憶っだった。
「あの子、どこの子なのかしら」
正直なところ、あの少年との記憶は先日思い出したあの一場面しか思い出せなかった。
どうしても気になって、小梅や昔から仕えている使用人に幼少時に親しかった童はいるか尋ねてみた。
しかし、誰彼も和子が探しているような少年は覚えていないという。
顔もおぼろげで、はっきりとした記憶でないことは確かだ。それでも、少年を思い出すだけでどこからとも分からないが親愛の念が溢れる。
この感情は偽りではない。だからこそ、和子は少年がただの思い違いや想像の産物とは思えなかった。
それでも、少年の行方を調べようにも情報がない。手詰まりだった。
「もう一度会えたらいいのに」
会えたとしてもお互いに相手が誰だか分からないかもしれない。けれど、それでも会いたい。
このような感情に駆られることは今までになく、本当に自分の感情なのか自分で疑ってしまう。
もしかして初恋の相手だったのだろうか。
だが、昼には小梅相手に「尼寺へ行く」と言っていたというのに今頃初恋を思い出したのだとしたら滑稽だ。
皆が寝静まった夜だからこそ声を上げて笑うことはないが、ひっそりと小さく笑う。
そこへ突然、女の声が響いた。
「会いたい相手というのは、あの陰陽師のことかしら」
ぴたり、と和子の身体が止まった。驚いて止まっているのではない。動かしたくても手足が動かなかった。
瞬きさえもできずにただ目の前の御簾を凝視する。
すると和子が見ていることが分かっていたかのように、御簾に一つの影が浮んだ。
女の声は続く。
「噂が流れていたものね。わたくしの邸にも届くほどよ?」
その声は小梅の声でも、この屋敷の者の声でもなかった。
目を逸らすこともできない和子の前で、御簾を通り抜けてやってきた女性は和子を射抜くような鋭い視線を向けた。
「お久しぶりね《魂呼び姫》」
そう皮肉げに言うのは、あの瑠璃姫であった。
怨霊となって現れた夜と同様に姿を現した彼女は、和子の驚きの眼差しを受けて自嘲気味に笑う。
「そんなに心配しなくても、今のわたくしは怨霊ではないわ。あなたもあの場にいたのだから、それは分かっているでしょう?」
「はい……ですが、なぜここへ」
「分からないわよ。気づいたらこの邸にいたんですもの」
瑠璃姫の言うとおり、彼女の眼はあの夜のように赤に染まってはおらず、黒い煙にまとわりつかれている様子もない。
しかし、先程御簾を通り抜けたところをみる限り、今の彼女は生身ではなく魂だけになっているようだ。魂が勝手に身体から抜け出るというのは異常だ。
彼女もそのことを理解しているようで、物憂げにため息をついた。
「また怨霊にでもなってしまうのかしら。それとも《魂呼び姫》さまに呼び寄せられたのかしらね」
「……わたしはそんな名で呼ばれるような力はありませんよ」
「どうかしらね。それならあなた、どうして私の真名を知っているの? 教えた覚えはないのだけれど」
そう言われて、和子は口ごもる。
彼女自身が怨霊であったときの話など、聞きたくないのではないか。
そう懸念したが、彼女の「もしかしたら、わたくしが満足したら元の身体に戻れるのかもしれないわよね」との言葉に折れた。
「魂を抜かれそうになった時に、あなたの記憶を見たのです。わたしにもどうしてそんなことが起こったのか分かりませんけれど」
「……わたくしの記憶?」
「はい。兄君と二人でお話ししていらっしゃる様子や……」
「わたくしが怨霊になるまで、すべて見たのね?」
「……はい」
きっと睨まれるだろうなと思った。
しかし、予想に反して瑠璃姫は声を荒げることも和子を詰るようなこともなかった。
ただ、「そうなの」と一言漏らす。その声はあまりに弱々しかった。
「兄は、わたくしの家族は幸せそうだった?」
「父君は見てませんけれど……はい、とても幸せそうでした。あなたも」
「……そう。そうね、幸せだったわとても。とっても、幸せだったのに……!」
瑠璃姫の秀麗な容貌がぐしゃり、と歪む。
途端に和子の身を縛っていた力も増したようで、身動きが取れないどころか呼吸すら苦しくなっていった。
「怨霊ではないというのは嘘なのでは」とか「やっぱり話さなければよかった」とか「瑠璃姫落ち着いてください」とか。言いたいことは山ほどあれども、瑠璃姫の感情の奔流に流されて目が回るようだった。
「なにもかも、裏切られたのよ! そうでないと父さまや兄さまが謀反の罪を着せられるなんてありえないわ! 伯父上にもあの陰陽師にも……親王さまにまで」
その言葉に、なぜ親王の妃候補となっていた彼女が呼び名の通り《六条》という都の辺鄙な場所に居を構えているのか察した。
謀反の罪で裁かれた家の娘を妃にするのは難しい。本人がよくても、滅多なことでは周りが許さない。
瑠璃姫は妃候補の座から下ろされたのだ。それが誰かが望んだ結末なのだろう。
感情を爆発させた後の瑠璃姫はただ押し黙って涙を流していた。
魂だけの状態でも涙は流せるものなのか。そう思いながらも身を起こす。いつの間にか身体は自由になっていた。
側に置いていた桐の小箱を取り出す。そして中から横笛を取り出すと、構えた。
父の文才を受け継いだ姉兄たちなら、その豊かな感受性と巧みな言葉で慰めることは容易だったのかもしれない。
しかし、そんな才のない和子は言葉で慰めることはできない。
笛を吹いている間は、夜中だということを気にすることはなかった。ただひたすらに瑠璃姫の気が晴れることを祈った。
最後の音を吹き終えると、瑠璃姫が呆然と和子のほうを見ていることに気づいた。
「あなた……今、夜中よ? 笛を吹くなんて」
瑠璃姫の感情が乱れることで金縛りになるのであれば、多少の迷惑は被ってでも和ませたい。
そう素直に答えたらようやく落ち着いたらしい彼女を怒らせることになるのだろう。そのため、彼女の問いには曖昧な笑みを返した。
「ところで、六条君。わたしがお答えできることはお答えしましたが……もうそろそろお体にお戻りになりませんか」
よもや夜が明けるまでここに居座るつもりではあるまい。
そう思って声をかけたのだが、ここで彼女が「何を言い出すのだ」というように呆れた顔をしたことに和子は目を瞬かせた。
「あのね、わたくし最初に言ったわよね? 気づいたらここにいた、と。わたくし自身が進んでこのような場所に来たわけではないのよ?」
「……それはつまり」
「どう来たのか分からないのだもの。戻り方だって、分かるものですか」
瑠璃姫の開き直ったかのような言いぶりに和子は眩暈がした。