1 魂呼び姫
牛車が行き交う左京の片隅にその邸宅はあった。
半町という敷地に建てられたその邸宅。上流貴族から見れば貧相に思えるだろうが、それを囲う庭は四季折々の草木が楽しめるように工夫してある。今は、薄紅の花が散って新緑が萌えている。
そんな、かろうじて貴族として体面を保っている邸宅の中で一人、この世のすべてを呪い殺しそうなほど嘆き悲しむ姫がいた。
名を藤原和子。中流貴族の父と同母の姉兄をもつ、掃いて捨てるほどいるような齢十四の姫だ。
しかし、現在の和子の様子は普通の姫君の姿からはかけ離れていた。
指先が白むほど脇息を握りしめ、今にも投げ飛ばしそうな形相。固く閉じた瞼の上には、険しい山脈をつくる眉間が。なにより、強く噛む唇の隙間からこぼれる言葉には、尋常でない気色があった。
「おのれ……わたしの努力を水泡に」
聞いた者が顔色を真っ青にしそうな声音がもれる。
しかし、和子の側に寄り添う女房は顔色ひとつ変えなかった。それどころか目を付けられれば抹殺されそうな雰囲気を無視し、口を開く。
「二姫さま、そう落ち込まないでください」
落胆というより立腹しているような和子を、明後日の方向に慰める。
案の定、うつむいていた和子が顔を上げる。その表情は予想外なことに笑顔。だが、狙いを定めた獣のごとく鋭い眼差しは女房を射抜いていた。
「落ち込む? いやね、小梅。あなた、感情を読み間違えてるわ。いいかしら、わたしは今、とっても怒ってます」
「笑顔ですが」
「女は時として感情を押し殺さねばならないときがあるのよ」
片や平然と受け答えをし、片や違和感を覚えるほどの笑みを湛える。
しかし、これも長くは続かず。和子は悔しげに手元の扇を鳴らした。
「あのとき、笛なんて吹かなければこんなことにはならなかったのに」
和子が悔やむ出来事は、今から半日遡ったころに起こった。
その日は毎年恒例の春の祭が営まれていた。
祭といえど、政治的な観念が強いこの祭。しかし、皇女のきらびやかな行列が神社まで伸びる様を見たいがために、多くの貴族がこぞって車を寄せていた。
かく言う和子も行列を見るために外出していた、というわけではない。
和子も貴族といえど、上流貴族とは肩を並べることもできない中流貴族の姫。そんな和子が赴けば、牛に囲まれた蟻も同然である。わざわざそんな危険な場に行く必要はない。
日中は大人しく邸宅に留まり、遠くから聞こえる雅な音を聞いていた。
しかし、祭も終わったものの、興奮が冷めない浮ついた夜。和子は我慢ならず横笛を構えた。
宴好きなどこかの貴族がどんちゃんやっている音を聞いて、平然としていられるほど和子は大人ではない。
普段は冷静な和子も、このときばかりは祭の雰囲気に身を任せた。
そこまではよかった。和子も自身が得意とする笛を思う存分吹き、あまりの心地よさに目を閉じていたくらいだ。
しかし、その空間は鋭い悲鳴によって切り裂かれた。
気づいたときには、赤々と燃えていた周囲の松明が消えていた。和子の邸宅だけではない。見渡すところにあった松明のほとんどに火が点っていない。
悲鳴がどこで聞こえたか分からないが、何か異常なことが起こったことは確かだ。
そう思い、和子は警戒していた。賊が出たのなら、急いで役人を呼ばねばならない。
だというのに、自分の頬をかすめるように飛来してきたものがなんなのか、一瞬分からなかった。
それは一見、炎だった。ちろりと燃える炎。
しかし、ただの火が飛び回るわけがない。気づけば、数多の火の玉に囲まれていた。
和子は血の気が失せるのを感じた。
鬼火だ。
生きとし生けるものの霊魂が鬼火だ。もっぱら人前に現れるのは恨みを持って死んだ者の霊魂だと言われている。
それが、目の前に無数に現れた。
どこか冷静に、なるほど悲鳴も出るはずだと納得する。
その間にも悲鳴の合唱は続いている。ついには鬼火が集まっている場所まで特定されたらしい。柴垣の向こう側から人のざわめきが聞こえる。
これほどの注目を浴びながらも、鬼火は縦横無尽に飛び交っていた。しかし、しばらく経つと突然現れた鬼火は突然姿を消す。
残るのはただ立ちすくむ和子のみ。
突然の出来事に半ば放心状態になっていた。だが、外から人々がささやき合う言葉を聞いて、我に返る。
「おい、ここの屋敷に鬼火が」
「直前に笛の音が聞こえたな。それはもう美しい音色だったが……」
「あの音色は死人をも誘惑する音色だ」
「なんと、笛で鬼火を呼び寄せたのか」
「たしかに笛の音が止んだ途端に鬼火も消えよった」
「ここは式部丞の邸宅であったはずだ」
「では、この屋敷の者が……」
それ以上聞かなくても、今後どうなるかが予想できた和子は頭を抱えた。
案の定、式部丞である藤原為行の子女で横笛が得意な末姫、として和子は一夜の内に都の人々の耳に入ったようだった。
鬼火を呼び寄せた姫、《魂呼び姫》という呼び名を付け足されて。
「あの宴の一夜で、わたしの今までの努力は水の泡になったのよ。たった一夜、笛を吹いただけで! なによ《魂呼び姫》って、好きで鬼火呼ぶ人なんかいないわよ!」
「一夜にして有名になりましたね」
「こんな形で有名になりたくなかったわ」
和子も一介の姫として、それなりに自分の情報を貴族たちの間で流していた。すべては将来の婿候補を呼び寄せるためである。
悲しいかな、その情報の一つである横笛が得意、ということが《魂呼び姫》と確定される一因となってしまった。
鬼火を呼び寄せる姫などと噂されれば、どんなに良条件の情報を流せども婿候補の足が遠のくのは間違いない。
「遠い地でお勤めなさっているお父さま。申し訳ありません、二姫はお家に貢献できそうにありません」
国守として都から離れている父へ、遠い目で呟く和子。
すでに、彼女は自分の結婚を諦めていた。