その7
紫苑様は運動が苦手であらせられる。 元々病弱だった、ということもあるが、そもそも大抵の事を魔術でなさってしまうために、手足をロクに動かさないのだ。 そのことを注意すると、
「別段困りはしないからいいのよ」
などとおっしゃることが多い。 いつのことだったか、これはいかんと思って、もっと女性的な部分に作用する言葉を使ってみたことがある。
その日、紫苑様は書斎の椅子に足を組んでどっかと腰掛けたまま、魔術を用いて12ほどの書物や紙片を周囲に浮かせていらっしゃった。 これは様々な資料の内容を比較検討をされているらしいが、まあ中身をみたところで私は理解できないものだ。
私は部屋の入口でわざとらしく嘆息し、いかにも呆れているというような声音と表情を作り、口を開く。
「そのような事ばかりされていると、今に太りますよ」
「……!」
びくり、と表情が硬くなった。 効果ありだ。 言葉のナイフは確かに飛び、紫苑様を縫い止めたようだった。
「以前にも申し上げましたが、紫苑様の健康管理もまた私の任のうちと考えております」
「……それって、私が自己管理できないって言われてるみたいじゃない」
このことだが、今になっても自覚はないらしい。 時々私が居ないとこの御方はどうなってしまうのか、と恐ろしくなる事さえあるのだが……。
「腹筋も薄くなっていらっしゃいましたし、二の腕、太もも、いずれも更に柔らかく。 そろそろ本格的に運動をなさらないと、危ないですよ」
あまり量を食べるお人ではないから、激しく太る、ということはないのが救いといえば救いだ。 酒量も増えてるので危ないものだが。
腹筋だの二の腕だの太ももだの、何故知ってるかって? ……まあ、なんだ。 色々あるのだ。 言わせるな恥ずかしい。
「私の運動神経なんて無いも同然だって、知ってるでしょ?」
「難しいことをなさらなくて良いのです。 1日10分走るですとか、腹筋や腕立て伏せを回数一桁なさるだけでも、効果はあります」
「ふーん……?」
不審げな目でこちらを見てくる紫苑様。
「あれでしたら、一緒に素振りでもなさいますか。 私と」
真剣は多分腕が大変なことになるので、最初は木刀からということにすると、紫苑様は首を縦に振ってくれた。
それにしても、以前は弓などもやっていらっしゃって、それなりに均整の取れた筋肉をお持ちだったのだが……あれか、やはり魔術のせいか。 紫苑様の魔術に関する才覚は最早人倫を超越したところがあり、いかに複雑な術とて詠唱を必要とせず行使なさってしまう。 簡単なものなら、集中すら不要だ。 先程の本を浮かべていた術も、物体浮遊術と遠隔操作術をそれぞれの物体にかけて、個数分の同時制御を行っているという凄まじさだ。 並の術者ならば脳髄が焼き切れかねない負荷がかかる操作を、涼しい顔をしてこなす。 そんなことができるのだから、自分から身体を動かそうという気にあまりならないというのも、ある程度理解はできる。
だからといって、主をぶくぶく太らせて良いという理由にはならぬ。 私は心を鬼にして、紫苑様の体調管理に邁進せねばならないのだ。
――いつぞや、先輩と言える執事からいただいた言が思い出されたものだ。
「雇い主というのは馬か、或いは時計のようなものだ。 折にふれての手入れが必要だ、ということさ」
聞いた当時は不敬にも程があると思ったものだが、事ここに及んでみると、なるほど理解できるものだなあ、と感慨を抱きながら、私は日常業務に復帰したのだった。
翌朝、私は「どうしてこうなった」という思いを禁じえずにいた。
目の前には弓道着を身にまとい、汗ばんだ顔を朱鷺色に紅潮させ、目に涙を滲ませる紫苑様が。
私は至極当たり前の事を言ったまでだったのだが……。
事の顛末はその十数分前。
私が普段鍛錬する中庭に古い弓道着を身に付けていらっしゃった紫苑様は、体重計にでも乗られたのか、どこか鬼気迫るような様子だった。
そんな紫苑様に私はまず木刀を握らせ、次に正眼に構えていただき、それから姿勢を矯正した。 べたべたと紫苑様の御体に触るのは若干抵抗があった。 うん、あったんだ。 さすがに恐れ多い――が役得だという思考も無きにしも非ず……私は何を言っているんだ。
それから素振り開始。 私のペースに紫苑様がついてこようとするのは土台無理な話なので、先にその旨を申し上げておいた。 ご自身のペースで、ゆっくりと、回数をこなしていってください、と。
一方で私は全身に"彫り込んだ"術式を駆動した。 負荷軽減部へのパスを遮断。 あえて過負荷をかけ、身体が耐えられなくなるギリギリの線を見極めて一回一回を振り上げ、そして振り下していった。 この全身を焼き焦がすような疼痛と熱感を身体に覚えこませておかねば、いざというときの超過駆動には耐えられん。
百回を数えたところで、動作を一旦停止。 隣では紫苑様が十回目を終えたところだった。
「どういうスピードよ……風が吹いてきてちょっと涼しかったわ」
手を止めて、呆れたというふうにおっしゃる紫苑様。
「どういうも何も、負荷軽減なしで身体が耐えられる限界のスピードですが」
何のことはない一言だったが、これが不味く、場の空気が変わった。 作務衣を肌に張り付かせる程だった汗が、すっと引いてゆく。
儚げな有様だが、紫苑様の御姿には有無を言わさぬ迫力があった。
こんな表情をされる時には、そう、怒っていらっしゃるのだ。 それも、私に向けるものでは最大級に。
「この馬鹿。 ……もうそんな必要ないんだって、何度言ったら、わかるのよ」
不意に一歩を踏み込まれ、抱きしめられた。 直後に耳元でこぼれ出た御言葉は、震えていて。
その声音はどこか寂しげで、そして静謐な悲しみ、複雑な怒りをたたえているようだった。
「もう終わったの。 あなたはもう、戦う事なんて考えなくていいの。 全部終わったんだから」
そうおっしゃって下さる紫苑様のお気持ちは、とてもとても有難いものだ。 しかし、私も譲れん。
「……その御下命には、従えませぬ」
抱きすくめるその細腕を振りほどき、足元に跪き、頭を垂れて、そして口を開く。
「あの日、あの瞬間。 この世に紫苑様が在られる限り、この身命を賭してお護りすると、誓いました故」
「たわけ。 それで、貴女の安息はどこにあると言うの!」
対して頭上から降ってくる詰問めいた言葉は、しかし、やはり悲しげで。
「とこしえに。 貴女様の御傍にあるかぎり」
それでも、私の答えは揺るがなかった。
……私のこの言葉、愚かと言う人があるかもしれん。 しかし私は、誰に、どの様に言われようが構わぬ。
これこそが私の、一片たりとも偽らざる、まっさらな本懐なのだ。
私は立ち上がり、紫苑様は一歩退き、しばし、無言の刻が流れた。
沈黙を破ったのは、紫苑様。
「……どうでもいいけど、顔が赤いわよ」
「っ、照れているのです! あんな事を言わせたのはどなたですか、まったく」
「あと何度目よ、さっきの」
「紫苑様があのようなことを問われる限り、何度でも」
「……馬ぁ鹿」
……あなたも赤面してらっしゃいますよとは、さすがに言えなかった。
――蛇足ではあるが、この日から始まった鍛錬の効果もあってか、紫苑様の身体は適度に引き締まったと付け加えておく。
もともと一人称の習作のつもりで書き始めた近作、まとまりのない乱文でしたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
ここでひと段落、とはしますが、こちらもネタが浮かび次第何かしら投稿していこうかと思っています。
今後ともよろしくお願いします。