その4
その日、紫苑様は弓削景亮どの、安倍真理どの、賀茂康則どのといった人々と行きつけの飲み屋に出かけられて、私は屋敷の中でひとり。 風呂を済ませ、髪を念入りに拭いたあとに乾かしながら、数週間後にこの六条院で催される歌会の招待状をしたためていた。
ちなみに上記の面々の肩書きを列挙すれば、先から魔導院右院次席、同筆頭書記官、陸軍少将・魔導軍帝都駐留師団参謀長、といったところになる。 紫苑様に言わせれば「私の可愛い弟子」たちだ。 皆もうれっきとした大人の割に、どうにも子供じみた茶目っ気が抜けない面々だが、絶対に紫苑様の影響だと思う。
飲み屋と言ったが、高級料亭とかその類の場所ではない。 篝火横丁という、京の中でもとくに猥雑でごちゃごちゃとした界隈があるのだが、そこにある「夢庵」という古い居酒屋である。 切り盛りするのは妖狐と猫又の夫婦で、創作和食というのか、応神の伝統食と西洋料理を組み合わせたような料理が売りだ。
実は私もよく行っているが、安くて美味い、いい店だ。 行き着けとあって紫苑様にも慣れているし。
余談だが、この都は昔から妖怪変化の跋扈していた歴史があり、「夢庵」の夫婦のような非人間種族も決して珍しいものではない。 とくに妖狐や猫又は、人化すれば狼人族や猫人族のような亜人種と大差ない外見になるため、日常に違和感無く溶け込めるのだ。
ちなみに私は狼人という亜人種で、狼の耳と尻尾を種族特徴として持ち合わせている。 それらしい記述が無かったって? 尻尾振ってるとか耳が動くとか、自分ではとても書けん、恥ずかしいし。
「今日はこんなものかな……」
筆を置いて、軽く伸びをする。 文机に向かって長時間作業するのは、なんとも疲れるものだ。
寝る前に少し身体を動かして、それからもう一風呂浴びて……などと考えて、立ち上がる。
そんなところで、電話が鳴った。
はてさて、一体誰だろう。 時刻はそろそろ子の刻に差しかかろうかという頃、こんな時間に電話とは……。
暗い廊下にベルの音がうるさく響く。 まったく非常識な。
かといって不機嫌さも露骨に応対するわけにはいかないので、いつも通りに黒い受話器を手にとり、声音を作って応対に出ることにする。
「もしもし?」
「あ、輝夜様ぁ! よかった、まだ起きてらしたんですね!」
「……葛子殿か? どうした、何かあったのか?」
嫌な予感しかしなかった。 出たのは「夢庵」を切り盛りする夫婦の片割れ、妖狐の葛子殿。 私の声を聞いて安心した風だが、何やらただ事でない事態が進行中だったりはしないだろうか。
「紫苑殿下が、そのう」
「よし、わかった、すぐ行く、待ってろ」
受話器をがちゃりと置いた。 切るまでに「あっ、まだ何も言ってなっ」とか聞こえたが、まあ関係ない。 とりあえず現場に赴いて、紫苑様をひっ叩いて説教すれば多分大丈夫だ。
部屋に戻り、鏡台に置いた髪留めを手にして、腰まで伸びた黒髪を後頭部に纏め上げる。 いわゆるポニー・テール、これが私のいつもの髪型だ。
いっとき集中し、全身のパスを開く。 深呼吸をする感覚で、魔力を私の身に刻まれた術式へと行き渡らせた。 さながら一枚の羽のごとく、身体が軽くなる。 自身の周囲に力場を設定し、余波を周囲へと漏らさぬように注意を払う。 そして全身の代謝を増強し、これからすることに耐えられる状態を整える。 ここまででコンマ5秒。
縁側から突っ掛けを履いて庭に降り、夜風に身を晒しながら門へと向かう。 そこを出れば、篝火横丁へと続く六条大路だ。 深夜になりかけの時間帯、魔術光による街路灯と月明かりが、人影の無い通りを青白く夜の中に浮かび上がらせている。
そして、私は地を蹴った。 刹那の間に遷音速域に加速、白い靄に包まれた私は、水蒸気の尾を曳きながら横丁へと猛進。 二千メートルの距離を、十秒程度で走り、いや、飛び抜けた。
さて、たどり着いた場所を見回してみると、あっけに取られた顔をした人物がひとり。
記憶に拠れば、小柄な彼女は、魔導軍帝都駐留師団・参謀部の副官、鏡原奈々(かがみはら なな)嬢だ。 竜人族という、小さな角と色鮮やかな髪・虹彩が特徴の亜人族であり、彼女のそれは空色である。 私が剣術を手ほどきしたうちの一人で、今も時々食事を共にする程度の仲だ。
とりあえずは、こんな時間にこんな場所に居るような人物ではない――ある例外を除いて。
彼女は私を見、私も彼女を見据えた。 視線が合わさったその瞬間、私たちは比類ない理解と共感を得、ふたつの異なる魂は一つに結び付かんばかりだった。
「?」
「!」
数分後、私たちはくだんの店の前にいた。
つまりは奈々も私も、上司ないしは主を迎えに来た、ということだ。 参謀長もとい賀茂殿も紫苑様も大変な酒豪であり……その、なんだ。 これ以上は主の名誉のために、ってこの後の展開を書き記すと全部バレるんだよな。 まあいいか。
ともかく、上役に苦労させられる者同士、無言のまま魂の交歓を果たしつつ「夢庵」の前にたどり着いた。
中からはいい感じに酔っ払った天空の風琴をかき鳴らすがごとき声が響いてくる。 どんなだ。 私は思わず頭を抱え込んでその場にしゃがみこんでしまいたくなったが、電話で助けを求められてこの場に来た以上、店の前で悲嘆に暮れてるわけにもいくまい。
ふたたび奈々と顔を見合わせる。 そして互いに頷く。 無言のうちに行われる意思疎通、人間とはこうしてわかりあえる生き物だったのか。
二人がかりで引き戸に手をかけ、一息に開け放つ。
「そこまでです!」
奈々が叫んだ。 そういえば中で何が行われているのか、電話をすぐ切ってしまった私はわからない。 が、その惨状を一目見て、だいたいは理解できた。
一言で表すならば死屍累々。 飲み屋でそれということは、つまりはそういうことだ。 つーんとした酒精の匂いが充満する中、さほど広くない店内で、十数人ほどが酔いつぶれてぶっ倒れている。 中にはヨダレを垂らしていたり、既に吐いていたり、そんな老若男女の、(死んでないが)屍の環の中央で――
「うっぷ、もう、駄目……だぁ」
こちらに背を向けた帝都駐留師団の参謀長が、一升瓶をさながら杖のようにして、ずるずるとテーブルに沈んでいった。
「あによぅ、アンタももうダメなのぉ? ったく根性ないわねえー。 もう、私しか居ないじゃないっ、ったく」
銀糸のような御髪を振り乱し、白皙の肌は酒精に侵されて朱鷺色に染まり、きりりとした相貌は堕落の二文字がびたりと当てはまらんばかりに崩れた麗人――つまりは紫苑様が、んぐんぐプハーっ、と一升瓶を開けて、胡乱げな言葉を発していた。 着物の合わせが崩れて大変に扇情的な御姿でいらっしゃる。 酒臭さで評価がマイナスに振れてしまうが。
カウンターの内側を見てみれば、長身の妖狐と小柄な猫又が、もうお手上げ、助けてといった風にこちらを見ている。
奈々は想像を超える惨状に、最初の一言を発したまま口をあんぐりと開けて固まってしまっていた。 そういうところがあるから小動物的だと、今しがた沈んだばかりの上司にからかわれるんだ。 小さいし。
さて、どうしたものだろう?
「あ、輝夜に奈々ちゃーん。 どうよ、ちょっと飲まなーい?」
酔っ払いが何か言い出した。
「ね、葛子さん、もう二本……」
私は無言で手刀を突き出した。 放たれた衝撃破を顔面にしたたかに受け、意味不明な悲鳴を上げて酔っ払いが引っくり返る。 後頭部をうしろのテーブルに強打した気がするが、まあ、あの位では死なないから大丈夫だ。 たとえ死んでも蘇るし。
「悪は去った」
呟いてみる。 隣で奈々が青い顔をしているが、修行が足りんな。 何のとは言わんが。
「それにしても、何故こうなった。 普段はこんな飲み方はされないんだが」
「あ、私は電話で聞いたんですが」
後になってからぞろぞろと集まってきた関係者が、潰れた知人友人親類を引き取っていく中、奈々が私の疑問に答えてくれた。
そういえば私は電話すぐ切ってしまったから、何があったのか具体的にはさっぱり聞いていなかったのだ。
そりゃあ、こんな深夜に呼び出そうというのだから、状況説明はするよなあ。
「うちの上司が、どうも殿下に飲み比べを持ちかけたらしく……そこで殿下がおっしゃったそうです」
「最後まで残ったのに、うちの輝夜1日レンタルするわ!」
……はあ?
何を言っているかはわかる。 言っている意味がさっぱりわからん。
「尻尾モフりてぇとか耳ピクピクさせてるとこが可愛いとかで輝夜さん人気あるんですよ」
「…… 狼人族なんてそこら中に居るだろう」
「いえ、お堅い輝夜さんだから良いんだとか。 輝夜さん自覚ないですけれど、紫苑殿下といっしょにいらっしゃる時なんて、表情はとても凛々しいのに尻尾ぶんぶん振ってらっしゃいますし」
……無意識の挙動まで平時も御するのは神経を使うから、気にしないことにしてるが……こういうことがあるから、狼人のこの身が時々恨めしくなる。
「うちの隊に指南にいらっしゃる時も、撮影部隊が待機してますし」
今度から物陰をしっかり検分しておく必要がありそうだ。 この国の人間はやはり油断ならん。
とりあえず紫苑様は明日から禁酒禁煙、あと……どうしようか。 説教二時間は……その間私の仕事が止まるからダメだ。 ……いや、そうだな。
「怒りませんね?」
「いいや、怒っているとも。 そうだな、どうして差し上げようか……」
いっそ、本当に何日かどこかに出かけるのもいいかもしれん。 私としては骨休めになるし、紫苑様には私という存在の有難さを実感していただく良い機会だ。
うんそうだ、そうしよう。
「……何笑ってらっしゃるんですか?」
「いや、うん。 ひとつ良いことを思いついてな」
いや待て、現実逃避する前に「夢庵」のお二人に謝らんといかんだろ、私。