その3
さて、そろそろ私のことも述べねばなるまい。 前回、私の性別に関する問いかけもしたことだし。
まずは概要から。 氏は源、姓は冴月、名は輝夜。 官位は従四位下近衛中将、まあ紫苑様の側仕えを務めるための名目上のものだ。 これ以外にも色々と肩書きがあるが、紫苑様と同じくあまり気にはしていない……とはいえ、年齢相応、官位相応の振る舞いは心がけているつもりである。
正直、分不相応な地位を頂いている、と思う。 確かに私は一応冴月という武家の娘であり、公的な勤めもいくらか果たしてきたが……。 皇族の身辺の世話をする私が無位無官ではまずい、などといった政治的な事情というものがあったのだろう。 ただ紫苑様のお側に侍ることを望み、また剣の道をひたすらに志して来たが故に、どうにもそういった事には疎い。
そう、娘、つまりは女だ。 読者諸氏におかれては意外だっただろうか、それとも予想通りだっただろうか。
自己紹介はこのあたりにしておこう。 今日はこの屋敷、六条院に来客があった。
私は貴族かつ今風な言い方をすれば公務員、そして紫苑様は皇族で、ともすれば税金泥棒との謗りを受けかねない身の上だ。 故にこの国の人々へと、我々の扶持を与えてくれていることへの敬意と感謝をもって、何かを還元せねばならぬ。 果たして紫苑様の頭の中にこのような念があるかは知らないが、たまに魔術理論書や実践書を執筆されたり、雑誌への寄稿をされたりしていらっしゃる。 ちなみに私は、週に二度ほど、市井の道場に招かれて剣術の臨時講師を務めたり、やはり雑誌に記事を書かせていただいたりしている。 現実に実戦を経験した剣士などそう居ないためか、どうやら人気の記事らしい。 まことにありがたい事だと思っている――話が逸れた。
来客とは、紫苑様が寄稿されている雑誌を出している、わが国でも老舗の出版社の編集者であった。 紫苑様の担当は……実名はなにかとまずいので、N氏とさせていただこう。 彼は背こそ低いが、少なめに見積もっても三尺はある横幅がそれを補って余りある、夏ともなると大層暑苦しそうな風体の紳士である。 常に脂ぎった顔に満面の笑みを浮かべており、またその脂が余程良い潤滑油と見えて舌も大層良く回る。 ともかく、率直に申せば、二つの理由であまり歓迎したくない客だった。 ひとつは、私にしてみると彼のような口ばかり回る(もっとも、彼の仕事ぶりを私は知らないので、これは偏見と言うものだが)人種は好かないということ。 もうひとつは彼の来訪のたび、応接間の椅子がギシギシと音を立てるので、壊れやせんかと冷や冷やさせられるためだ。
今日はそのN氏が、新人と思しき青年S君を連れてきていた。 このS君はN氏とは対照的に、さながら鉛筆の如き痩身。 とはいえ挙措には新人らしい真面目さと礼儀正しさが感じられ、私は好感を抱きながら彼らを屋敷内に招き入れたのだった。
「こちら、今度から殿下の担当をいたします、Sでございます。 ほれ、挨拶せい」
「え、Sと申します。 殿下におかれましては、ご、ご機嫌うるわしゅう」
「かったいわねえ。 Nさんも、最初こんなだったっけ? いいのよS君、そんなに畏まらなくたって」
「え? は、はあ、殿下……?」
「はっは、懐かしい話ですなぁ」
「堅苦しいのは嫌いなのよ。 昔は良く頭の固いのに怒られたもんだわ」
来客二人に出すお茶を淹れている後ろから、こんなやりとりが聞こえてくる。 やたら気さくで親しみやすい皇族、しかも超美人というので市井の人々からも人気は高い紫苑様だが、フランク過ぎてもどうなんだ、と常々思う。 言って聞き届けていただけるものなら、もうとっくに直っているだろうから、口には出さんが。
「N先輩N先輩、殿下ってお幾つなんですか……?」
おい聞こえてるぞS。 小声のつもりだろうが、練達の剣士の感覚を侮らないでいただこう。
……まあ、疑問に思うのも無理もないことなんだが。 ちなみにN氏は答えなかった。 というか、このあたりの疑問を持つところからして、S君はこの都の出身ではないらしい。 ならば紫苑様の人となりをあまり知らないというのも、頷ける話だ。
「お手伝いさんも凄い美人さんですし……」
「だろう? だからお前、運がいいって言ったんだよ」
……言われて悪い気はしないな。
「粗茶ですが」
形式通りの言葉と共に、私は湯気をたてる湯呑みをふたつテーブルの上に置いた。 紫苑様のところには、既に手ずからお淹れになった珈琲が注がれたマグカップが置かれ、特有の香気を放っている。 紫苑様の傍らに、盆を持ったまま私が控えたところで、本題が始まった。
さて、紫苑様は昨日徹夜をされていたが、なんとか原稿は無事に完成したらしい。 茶封筒に入った紙束が紫苑様からN氏に手渡され、N氏が「失礼いたします」と前置いてから、中身の検分をはじめた。
S君はといえば、ちらちらと紫苑様と私を見比べている。 これで仕事になるのやら……などと呆れていた折、マグに口をつけていた紫苑様がそれを置き、S君と視線を合わせて、ふわりと微笑まれたのだ。 恐ろしく邪気の無い笑みだったが私にはわかる。 直前の目は面白そうなオモチャを見つけた子供のそれだった。
……S君、哀れにもきみは今蛇に睨まれた蛙の立ち位置になったのだよ。 あー、その僅かな赤面と照れの入った表情、それは思う壺だ。
それにしても紫苑様から、あれほど澄明な微笑みを向けていただけるとは、羨ましい。 嫉妬すら覚える。 表情にも仕草にも出さないが、いま私の胸中はとてもとても複雑なのだ。
「輝夜、おかわり。 お二方にも」
「はっ」
御声をかけられた。 私が内心で若干の嫉妬心を育んでいるさなかに、マグカップが空になっていたらしい。 不覚……!
盆の上に湯飲み二個と、マグカップを載せて応接間を出る。 視界に入り込んできた蚊を指先を動かして放った衝撃破で叩き潰しながら、蚊取り線香をそろそろ用意せねば、と思った。
珈琲は、紫苑様が淹れられたものがサーバーの中に入っている。 保温性も密閉性も高い特別製らしいが、見た目は普通のガラス製サーバーだ。 なにやら複雑そうな術式に包まれているあたりが特別製。 茶のほうは淹れ直しだ。
戻ってみれば、別段暑くもないのに紫苑様のシャツの胸元が不自然に開いていたり、S君の目線が……おいこらその目線、どこに行っている。 気持ちはわかる、わかるが、私が居る前でそのような不埒な……!
「紫苑様、御戯れはほどほどになさってください」
あくまで冷静に声を出す。 やれやれという風に吐息をしながら、湯飲みとマグをテーブルの上に置き、ついでに紫苑様の胸元のボタンを閉めにかかる。 平常心、
平常心を保て冴月輝夜。
「まったく、はしたない」
後ろでS君が「これはこれで」とかつぶやいている気がする。 一体なにが「これはこれで」なのか……。
……ということがあったが、原稿の受け渡し自体は滞りなく行われた。 紫苑様が文章を書かれると毎度毎度と誤字脱字が多いので、今回もきっと校正の手間を出版社の方々にはかけさせてしまうだろう。
個人的にはS君の行く末が気になるところだ。 二人が屋敷を辞去する直前までぽーっとしていたのでおかしいと思ったのだが、軽いチャームを使っていたらしい。
何考えてるんですかと一発怒鳴ったら「最近輝夜が冷たくて寂しかったんだもの」とかおっしゃられた。 まったくけしから……ん?
これはつまり、私の反応は紫苑様の思う壺だったということか……?