その1
この人にならついていける、という人を持つ。 それは幸せなことだ、と思う。
その人の為ならば、身命をなげうっても惜しくはない――、左様な人物がいかにこの時勢に稀有な存在かは、読者諸氏にも解っていただけよう。
私は幸いなことに、そんな人物に恵まれることができた。
大げさな事と人は笑うかもしれないが、私はその御方の為ならば何をしても良いと思っているし、その御方が死ねと私に命ずるならば喜びのうちに果てるだろう。 その御方が天空の風琴のような御声で私の名を呼び、白磁のような繊手で私に触れてくださるとき、私は喩えようも無い幸福を得ることができるのだ。
さて、これから始まる一連の文章は、そんな主に私が御仕えしている日々のうちに起こった出来事を、散文の形式で綴ったものだ。
読者諸氏においては、私が主に最高の敬意と至高の歓喜をもって御仕えしていること、よくよくご承知いただきたく思う。
……たとえ、私がどの様な言を主に対してものし、どの様な行動をとろうとも。
約束だぞ?
*
先日のことである。
その日は雲ひとつ無い青空が広がり、私が手ずから剪定した庭木たちは燦々と降り注ぐ陽光の中、伸びやかにその枝葉を茂らせていた。 添水の音が耳に心地よく響く中、私は午前中の作業を終えた疲労感と達成感に包まれながら、縁側に腰掛けて、緑茶の注がれた湯呑みを傾けていた。
こんなことを考えもした。 抜けるような青空というのは、こんな青空のことを言うのだろうな、と。
そんな心地よい静寂を破ったのは、敬愛する主様の、焦ったような声だった。
「うわ、ちょっと……!」
屋敷の奥、書斎の方から聞こえてくる大きな声。 しかし私は動かない。 いちいち反応していては仕事が増えるだけだ。 何かが続けて落ちる音と、ぎゃあー、と悲鳴じみた声が続いて聞こえた気もしたが。
「ああ、もう……!」
無かったことにして、休憩を再開しようと思った矢先。
「ちょっと来てー!」
呼ばれたので、やれやれと吐息して動くことにした。 湯呑みを置いて立ち上がるのに、思わず「よっこらせ」と声が出てしまい、多少の落胆を得る。 まったく、私も年をとったものだ。
果たして、主はこの屋敷の中では数少ない洋室の中央で、腰に両手を当てて立っていた。 若干煤けた風な表情には、焦りと苛立ちがありありと見て取れる。
雑然とした部屋の中を見回せば、大きなマホガニーの机の上にどさりと積まれていた紙や本が消え失せており、代わりにそれらが渾然となったうず高い小山があった。 どうやら、机の上のバベルが、とうとう絶妙なる均衡を失って崩壊したらしい。
「見てよコレ」
「はあ」
私が主の美しいかんばせにに視線を移していると、その山を指差し、主は言った。 私は生返事を返しながら、言われた通りに再び山に視線を戻す。
「……これはひどい」
「感想を述べろ、とは言ってない」
「はあ」
主様――御神楽紫苑という――は素晴らしい方だが、このような事がよくある。 何かを私にして欲しいのだが、何ゆえかをおっしゃらない。 或いはその逆で、ご自身の心境や、現状をおっしゃられるのだが、それで私が何をすればよいかが欠けている。
察しろだとか、空気を読めだとか、賢明なる読者諸氏はそう思われたかもしれない。 確かに一般には、一を聞いて十を知る、というようなことが良いこと、それが出来るのが良い部下とされる。 私も重々承知している。 が、それだけでは済まないのが人の世というものだ。
「片付けるの、手伝って欲しいんだけど」
肩を怒らせながら、紫苑様。 声音のほうは、幾分か疲れの色が混じっている。
「……恐れながら、過日私がこの部屋を掃除した際、叱責を頂戴しましたが」
「私が何をどこに置けばいいか言うわ」
「では、御自分でなさった方が早いのでは」
だいたいこの主は「あれ」だの「そこ」だの、指示語が多いのだ。 指示する場所や物についての見解が相互に一致していればそれで良いが、認識がちぐはぐだと互いに困る。 私がこう言うのも、互いの不幸を最小限に留めるためなのだ。 誓って。
この部屋は設計当時、一応「書斎」として設けられたものなのだが、既にその機能――蔵書を保管し、落ち着いて読書に耽るための空間――を失って久しい。 私からすれば最早ただの物置に思えるような有様で(しかもほぼ全て紫苑様の私物)、なるべくならば手を出したくはなかった。 それでも我慢ならずに掃除を敢行し、結果怒られるというわけだ。 たいてい翌日には、もう部屋の中は散らかり始めている。 こういうのをエントロピー増大と言うのだろうか。
そういったことがある度に「もうこの部屋の掃除などすまい」と思い、ところがやがて我慢できなくなり手を出してしまうのだ。 私の心情、読者諸氏の中にも理解していただける方がいらっしゃると思うのだが、いかがだろう。
「大体ですね。 紫苑様なら手など使わずとも、どうとでもなさることができるでしょう」
なにせ紫苑様がその卓越した魔術師としての力を用いれば、六十四ほどの物体を同時に宙に浮かべて自在に操ることができるのだ。 私と合わせて4本の手を使うよりも、余程早く片付くに違いない。
「かわりに頭を凄く使うし凄い疲れるんだけど、アレ」
か細い指先が銀糸のような髪をかき分けて頭を掻く。 埒が開かないと思った私は、はあ、と嘆息して、建設的な行動に移ることにした。
「手足と頭と、疲れるならどちらも変わりないではありませんか。 さあ、私も手伝いますから、片付けましょう」
……ああ、言ってしまった。 まあ、主に片付けるのは紫苑様ということで、私は指示されたとおりにやればいいか。
内心で頭を抱えながら、とりあえずはその指示の指示語含有量が低くなるよう、私は十ほどの神仏に祈ってみるのだった。
あまり効果はなかった。