異の中の蛙
私の中には小さな箱があった。この箱の中には常に何かしら”悪いもの”が入っており、常に私を悪い方へと誘っていた。いや、箱は決して私だけにあるものではないだろうが、私の良くない性格と良くない思考がこの箱の内容物をよく表に出してしまうために非常に厄介なものなのである。
私がこの箱の存在に気付いたころの話をしよう。
私は、大いなる夢を持って勉学に励むひとりの学生であった。夢というのは、戦争や差別の根絶とか社会的人間の育成とか、つまりは世界平和につながるような、いま改めて考えると私にしては大きすぎるものであった。私はこの夢を達成するために日々教育学を学んでいたのである。というのも、私の大いなる野望は教育によって実現するものであったからである。
私にとって教育とは”人間の基”である。人間は教育によって成熟し、教育を伝播させることで社会が生まれるのである。ゆえに教育は常に変化し、時代に応じたものであるべきだと考えていた。人間の形成を見直すこと、つまり教育を見直すことによって現代に生じる人間の問題を根絶することが可能であると信じていた。
しかし、その理想主義者的な希望は学問によって反対される。
教育はこれまで、人間を正しい方へ導いたこともあれば間違った方へ導いたこともあった。しかも間違った方へ導いたことの方が多く、記憶にも残りやすい。ゆえに、人間は教育を間違った方へと導かないようなものへと変化させたのである。これはきわめて合理的で正しいものであり、この変化が現代の社会の発展に大きく機能してきたということは明らかなものであると言えよう。
しかし同時に、ここまでしか発展させることができなかったのも現代教育である。これは私の強烈な教育への信頼からくる発想だと思ってもらって構わない。私は教育に非はなく、教育を行ってきた者に非があると考えたわけである。これが私を崩壊へと導いた。
人間は教育によって成熟すると私は言ったが、そうではなかった。教育によって成熟することのできない人間がいたのだ。そしてそのような者たちが教育する、教育を考える立場へとなった時に人間を成熟させることのできない教育が生まれ、成熟していない人間が生まれるという負の循環が発生していたのである。
このような経緯で私は人間に絶望した。
道を行けば他人に迷惑をかけている者や咎める者がいないからといって違法なことを平気でする者が跋扈する、そんな街を歩くのが非常に苦痛であり、私の精神を蝕んだ。このころ始めたアルバイトが深夜まで営業する居酒屋であり、夜の街にそういった人間が多かったのも私をここまで変化させた要因の一つだろう。また、このような人間にあきらめの感情を抱き始めていた私に対して世間は冷酷だと一蹴する。こんなことが続き、私は次第に人間と関わるのが怖くなっていった。
ここで、私の臆病で考えすぎてしまう性格が災いし、ある残酷な現実に気が付いてしまう。それは、私自身も世に蔓延る未完な人間の一人であるということだ。これまで私が見下し、軽蔑した人間群の中に私も存在していたのである。
この気づきから私の自己肯定感は地に落ち、私の中の理想像を演じることで正気を保とうとするようになったのだった。
そんな生活の中で、私に絶望する内なる私と理想像を演じる表向きの私との間にある大きな溝の中に闇の存在を感じてしまった。それは自分の過去への否定であり、存在価値がない証明であり、日々の無力感の正体であった。これが私が言う箱の中身である。
私は箱に気付いて以来、人間の生活をすることができなくなってしまった。悪夢のせいで寝る時間や起きる時間はバラバラ、外出できないためご飯も2日に1食コンビニ飯程度、アルバイトで外出する際はできるだけ自分を作って理想を演じる、自己肯定感の低さから誰かに助けを求めることもできず。このような生活の中で私は、自分というものが何かわからなくなってしまった。
常に何かに自分を閉じ込められているような、不自由の中で自由の存在を突き付けられるような生活。私は今後どのようになってしまうのだろうか。或いは何者でもなくなってしまうのだろうか。既に何者でもないような感覚は感じているが。
こうして箱は私という井を飛び出し、私自身が箱という異の中へと包み込まれていったのである。
これは私に限った話ではない。誰しもが心の奥底に闇を抱えており、それがいつ表出するかはわからない。私の精神が正常なうちに、これをここに記しておくとする。




