第1話 目覚めの痛み
ゴツゴツとした硬い感触が、頬に食い込んでいた。
消毒液の臭いも、空調の低い唸り音もしない。
あるのは、土と草の匂い。
そして、肌を撫でる風の冷たさだけだ。
ゆっくりと、重い瞼を開ける。
視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井ではなく、どこまでも高く広がる青空だった。
「……っ」
上体を起こそうとした瞬間、背中のあたりでバキバキッという鈍い音が鳴った。
錆びついた蝶番を無理やり動かしたような、不快な軋み。
普通の人間なら、顔をしかめて呻くところだろう。
けれど、俺は目を見開いて震えていた。
(身体が動く?)
「……すごい」
背中が痛い。腰が重い。
地面の硬さが、俺の肉体に拒絶を突きつけてくる。
(体が"凝る"感覚がある!)
俺は思わず、口元を手で覆った。
ニヤけそうになるのを必死で抑える。
手も、指も動く。
足の感覚まである。
(立てるのか?)
俺は立ち上がり、わざと地面を強く踏みしめる。
靴底越しに伝わる砂利の不均一な反発。
足の裏をジンジンと駆け上がる衝撃。
そのすべてが、愛おしくてたまらない。
「ははっ……最高かよ」
俺は大きく伸びをして、関節が鳴るのを音楽のように楽しんだ。
◇ ◇ ◇
一通り体の痛みを堪能してから、俺は周囲を見渡した。
どう見ても、日本じゃない。
鬱蒼と茂る巨大な木々。見たこともない色の花。
遠くに見える山脈は、絵画のように険しい。
いわゆる異世界、なのかもしれない。
そう思うことで、頭が追いつく気がした。
「おーい! 案内役の妖精さーん? 転生特典をくれる美少女女神さーん?」
両手を口元に添えて叫んでみる。
返事はない。
どこかで鳥が鳴く声がしただけだ。
俺は肩をすくめた。
「なんだよ、ナビゲートしてくれるマスコットキャラとか居ないのかよ」
右も左もわからない。
水場がどこかも、街がどこかも不明。
完全に遭難状態だ。
「……不親切設計だなあ」
言いながら、俺の口角はどうしても上がってしまう。
「最高じゃん」
誰も指示してくれない。
それはつまり、もう誰にも「安静にしてろ」なんて言われないということだ。
どこへ行くのも、何をするのも、俺の自由。
俺はニヤリと笑うと、適当な方角へ向かって、勝手に歩き始めた。
◇ ◇ ◇
歩き出して数分。
いや、もっと前から視界の隅に違和感はあった。
ゴミがついているわけではない。
意識を向けると、そこには半透明の文字が浮かび上がっていた。
【名前:池本 尊】
【Lv:1】
【特性:〈天賦の才〉】
「……うわ」
ゲームのようなステータス画面だ。
間違いなく俺の名前が表示されている。
俺の視線は、その中の「特性」という項目に吸い寄せられた。
〈天賦の才〉
効果:SP獲得量が常に2倍になる。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
天賦の才って?
俺の人生は、ある日から点滴の管と心電図の電子音だけの世界だった。
青春のすべてをベッドの上で浪費した俺に、神様は今更"才能"なんてものを寄越したらしい。
(……皮肉なもんだ)
ベッドの上で腐っていたのに、ここでは誰よりも優れた"才能"があるなんて。
神様のジョークに感謝しつつ、俺は詳細を確認する。
手持ちのSPは2ポイント。
隣のタブを開いてみる。
膨大なスキルツリーが展開された。
攻撃、防御、魔法、生産……あらゆる可能性がそこにあった。
その中に、一つのスキルを見つける。
〈痛覚軽減〉
効果:受ける痛みを緩和する。
俺の指が止まった。
(……いらない)
「RPGの世界なら、やっぱりこれだろ」
俺が選んだのは、基本中の基本。
憧れだった身体強化スキルだった。
〈フィジカル・ブースト〉
効果:一時的に身体能力を向上させる。
スキルを取得した瞬間、体の奥底からカッと熱いものが湧き上がるのを感じた。
◇ ◇ ◇
最初の遭遇は、唐突だった。
草むらがガサガサと揺れ、何かが飛び出してきた。
長い耳。ふさふさの毛並み。
二股に分かれた尻尾。
(うさぎか?)
愛らしい小動物に見えた。
しかし、その口が裂けるように開くと、サメのような何重もの歯が覗いた。
その瞬間、俺の認識は"獲物"から"敵"へと書き換わった。
「ッ――!」
殺る気満々で飛びかかってくる。
反応が遅れた。
避けきれない。
俺はとっさに腕を前に出した。
鋭い牙が、俺の前腕に深々と突き刺さる。
「ぐっ……!」
熱い。
傷口から焼けるような熱が広がり、その直後に鮮烈な痛みが脳髄を突き刺す。
鮮血が舞った。
(痛っ……)
脂汗が滲む。
でも、俺は思考の片隅で、冷静にその感覚を分析していた。
(すごい……ちゃんと、痛い)
夢じゃない。
骨に響く本物の痛みだ。
痛い。
痛くてたまらない。
(……怖い)
死ぬかもしれない、という恐怖はあるのに。
足が震えるのに。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
それどころか、喉の奥から笑いがこみ上げてくる。
「離せッ!」
俺は噛み付かれたままの腕を振り回し、落ちていた手頃な木の棒を逆の手で掴んだ。
殴る。殴る。殴る。
鈍い手応え。
好きじゃない。
泥臭く、無様に、ただ生きるために命を削り合う。
奇妙なうさぎが動かなくなった時、俺もまた、地面に大の字になって倒れ込んでいた。
「はあ……はあ……っ」
息が切れる。
肺が酸素を求めて喘ぐ。
腕の傷がズキズキと脈打ち、全身が泥だらけだ。
「はっ、ははは。スキル……使ってないじゃん」
すっかり忘れていた。
痛い。苦しい。
それが、最高に心地よかった。
◇ ◇ ◇
一息ついた俺は、ふと鼻をひくつかせた。
風に乗って、何かが焦げたような匂いがする。
痛む体を引きずって立ち上がり、匂いの元を探す。
森の向こう、木々の切れ間から、細い煙が立ち昇っているのが見えた。
(……煙だ。誰かいるのか?)
人がいるなら、話が聞けるかもしれない。
俺は期待に胸を躍らせて歩き出す。
そして、足が止まった。
行く手の草むらに、誰かが倒れていた。
いや、もう"誰か"とは呼べない状態だ。
風化した白い骨と、錆びついた装備。
その傍らには、古びた手記のようなものが落ちている。
(……随分、経ってるな)
遺体の指先は、あの煙の方角を向いていた。
この人は、あそこへ行きたかったんだろうか。
助けを求めていたんだろうか。
恐怖が、冷たい水のように背筋を伝った。
俺も、こうなるのか?
いや、そもそも。
まばたきをしたら、あの白い天井に戻っているんじゃないか。
ここで死んだら、またあの動かない肉体に逆戻りなんじゃないか。
「……」
思考が弱気になる。
俺は首を振り、両手でバチン、と自らの頬を叩いた。
痛い。熱い。
よし、せっかく動けるんだ。
「ビビってる時間はもったいないだろ」
いつ覚めるか分からない夢なら、覚めるその瞬間まで走り続けるだけだ。
俺は遺体のそばに落ちていた剣を拾い上げる。
ずしりと重い。
その重さが、命の重さみたいで心地よかった。
「借ります、先輩」
俺は短く手を合わせた。
「あなたが見たかったかもしれない景色、俺が見てくるから」
足を踏み出すたびに傷口が焼けるように痛む。
でも、目の前に広がる世界をどうしても進みたかった。
病室の窓から見ていた四角い空じゃない。
どこまでも続く、俺だけの世界だ。




