第77話 灰色の世界
涙が枯れはじめたころ、ようやく外の音が耳へ戻ってきた。
鳥のさえずり。
新聞配達のバイクが遠ざかるエンジン音。
その響きが、非現実と現実の境界をなぞるように胸へ沁み、俺はようやく気づく。
――あぁ、今の時刻は朝なんだ。
ヴァルティーアが最後に告げた言葉が、不意に脳裏で再生される。
『それから先は、もうこの世界のことなんか忘れて、幸せに生きろ』
その響きに導かれるように、身体は自然と“朝の支度”へ向かった。
まずはスーツに着替えよう――
そう思った瞬間、現実がひとつ、鋭く俺の目を刺す。
右手は刃、『黄昏』のまま。
このまま袖を通せば、生地など簡単に裂けるだろう。
そう思った瞬間、右腕がふっと光を帯びた。
まるで呼応するように、刃は人間の右腕の形へ変貌する。
ただし、それは外見だけの擬装にすぎない。
細かな動きはまるで利かず、刃の鋭い感覚が残ったままだ。
『黄昏』はもともと、使い手の感情を糧に進化し続ける刃。
ゆえに、このような形の変質も可能なのだろう。
俺はそのままスーツへ袖を通した。
筋肉が以前よりついたせいか、布がやや張るが――まあ、いい。
顔を洗い、髪を整え、息を整える。
俺はキッチンに散らばっている、黒い物体に視線を移す。
『天魔双極~幻影幻想曲第14番 <Phantom Fable>』――俺がかつて描き、そして燃やした漫画の、灰だ。
昨晩、火をつけ、サラダ油を燃料に燃やした。
残ったのは、軽くて頼りなくて、触れただけで崩れる灰ばかり。
俺はその灰をそっと箒で集め、広がらないように手で囲いながら、ひとまとめにする。
それをゴミ袋の口を広げ、静かに流し込んだ。
ぱさ……と灰が底に落ちる音が、妙に大きく響く。
「……ふぅ」
携帯を取り出して日付を見る。
今日は可燃ゴミの日だ。
他のごみも入れながら、袋の口を固く縛って持ち上げる。
そしてビジネスバッグも携えながら、俺は玄関の扉を開けた。
◇
住宅街の朝は、やけに眩しい。
眠りの残滓をまだ抱えた家々の壁を、白い光がなぞる。
その明るさが、手に下げたゴミ袋の重みをやけに浮き立たせる。
俺は歩道を静かに歩き、角を一つ曲がった先――
塀で囲われたゴミステーションが見えてくる。
誰もいない。
ただ朝日だけが、影を細かく地面へ落としていた。
俺は袋を持ち直し、そっと投入口を開けた。
中には、既にいくつかの白い袋が並んでいる。
袋を放すと、底へ落ちる軽い音がした。
灰の袋は、他の袋の上でわずかに揺れ、それきり静止した。
なんてことのない行為だ。
けれど、その一瞬で、胸の奥に絡みついていた黒い糸がひとつちぎれた気がした。
「……あぁ、全部終わったんだな」
小さくそう呟き、ゴミステーションの蓋を閉める。
すると俺の背後で朝の風がふわりと、灰色のスーツを揺らした。
会社へと徒歩で向かいながら、俺はひとつの現実へ思い至る。
(……よく考えれば、多分俺、長らく無断欠勤してたんだよな。
クビ切られてても仕方ねぇけど……そのときは誠心誠意謝って、なんとか復帰させてもらうしか――)
そんな弱々しい思索を断ち切るように、背後から明るい声が弾けた。
「……えっっ! 田島さんッ!?!?」
振り返ると、そこには後輩の佐藤が立っていた。
目を見開き、信じられないものを見るような顔で。
「や、やぁ……佐藤くん。久しぶりだね。音信不通になってしまっていてすまない。
色々、君にも会社にも迷惑をかけたことだろう」
俺が頭を下げると、佐藤は慌てて手を振った。
「いや、頭なんか下げないでくださいよ!
確かに心配はしてましたけど、生きていてくれたみたいで安心ですって!」
それから、少し照れたように続ける。
「……それに、勝手に僕が、田島さんの有給休暇を消化してたんで、会社にもそんな迷惑をかけてないと思いますよ!
むしろ部長なんて、『田島くんがやっと休んでくれた~!!』って泣きながら言ってたくらいです!」
「……へぇ、部長がそんなことを」
「色々あったんでしょう、田島さん。
僕になら、いくらでもぶちまけていいですからね」
その言葉に、俺の胸が少しだけ熱くなる。
「ありがとう、佐藤くん……」
歩きながら俺たちは取りとめもない話を続けた。
――なんか田島さん、ごつくなってません?
そんな軽口や、時事ネタのような、どうでもいい会話。
灰色の街。灰色の空。灰色のスーツ。
かつて俺が嫌悪していた日常そのもの。
なのに、今はなぜか――胸の奥が温かい。
この灰色の世界が、愛おしい。
そんな思いに浸りながら、信号待ちのためスクランブル交差点で足を止めた時だった。
――「修一」
声が、世界のどこからともなく響いた。
空耳だと思った。
悪夢の残響だと思った。
だが。
――「修一」
――「修一」
――「修一」
街中から、電子音のように同じ声が重なりはじめた。
周囲の人々も異変に気づき、ざわめきが広がる。
「た、田島さん! ……あ、あれを見てください!!!」
震えた佐藤の声が耳に刺さる。
俺は、彼の指差す方向へ、恐る恐る顔を向けた。
巨大な電光掲示板に、黒髪の女性が映っている。
いや――それだけではない。
電器店のテレビ、喫茶店のモニター、
道行く人々の手にあるスマートフォンの画面でさえ、
すべて同じ“黒髪の女”を映し出していた。
そして、すべてが同じ口を動かす。
知っている。
――「修一」
ひとつの顔。
ひとつの声。
知っていた。
「修一。主人公も、こっちの世界に来たよ」
スクリーン越しに微笑むその人物。
それは、勇者ルナテミスに化けていた、あの『物語歪曲者』だった。
――世界を喰い破った歪曲者が、現実へと降りてきた。




