第76話 大好きな創造物たちの、願いに応えるために
『物語歪曲者』の上空――その闇の彼方に、再び幾億という魔術式が輝き、無数の聖槍が形を成しはじめていた。
大気が震え、世界そのものが悲鳴を上げるような光景に、俺の胸は凍りつく。
(……連戦に継ぐ連戦で、俺たちはもう満身創痍だっていうのに。
これ以上どう戦えって言うんだ……)
絶望が、『物語歪曲者』の影と共に頭上へ降りてくる。
そして――光雨のように、魔術と聖槍が降り注ぎはじめた。
その刹那、ザルギエスが俺たちの前に躍り出る。
一本しか残っていない腕が風を裂き、迫り来る魔術を叩き落としながら叫んだ。
「ここはボクちゃんに任せてくださいッす!!
……あ、別に死ぬつもりなんて、ありませんよ」
軽口とは裏腹に、その瞳は覚悟と緊張で研ぎ澄まされている。
続けて、鬼気迫る怒号――
「だからッ! 早く逃げるんだッ!!!」
その声が引き金となり、エリザシュアが、俺とイグフェリエルの腕を掴む。
傷だらけのエリが、ふらつきながらも呪文を唱える。
「ザルギエスッ!!」
俺は叫び、足を踏み出す。
共に戦うために。仲間を置いて逃げるわけにはいかない――
だがエリザシュアとイグフェリエルの力が、それを強引に押し留める。
「修一くんっ、今は……! 今は撤退が最優先です!!」
転移魔術の眩い光を放つその直前――俺の視界に、ザルギエスの身体が幾つもの聖槍に貫かれていく姿が焼きつく。
鮮血が散り、光に呑まれ、仲間の姿が遠ざかる。
次の瞬間、世界が反転した。
眩しさが消えたとき、そこは海に囲まれた小島だった。
波の音だけが、やけに静かに響く。
エリザシュアが膝をつき、血を吐きながら苦しく咳き込んだ。
「エリ!! 大丈夫か!?」
俺が抱きかかえるように支えると、彼女はかすれた声で答えた。
「……申し訳ございません……本当は北の森の、わてちしの館まで転移したかったのですが……
少々、疲労が積もっているようで……」
イグフェリエルが背をさすりながら寄り添う。
だが――
――バチコォォォオオンッッッ!!!
世界そのものが割れるような轟音が、海の下から這い上がってきた。
振り向くと、海面に巨大な大穴が空いていた。
まるで魔界という大地すべてを食い尽くすような、崩壊の孔。
その中心から、小さな影が浮かび上がる。
『物語歪曲者』だ。
あの黒髪の女が、再び姿を現した。
きっと彼女は、先程までは、俺がいたから本領を発揮していなかっただけで、
本来は世界を簡単に滅ぼせるんだ……そうに違いないと確信した。
俺たちの顔から、希望の色が消えていく。
これはもう、抗えない、終わりだと悟ってしまうほどの絶望。
だが、エリザシュアとイグフェリエルは互いに顔を見合わせ――
強く、覚悟を決めたように頷き合った。
そして俺の方を向く。
エリザシュアが涙をこぼしながら微笑んだ。
「修一くん……色々とひと悶着はありましたが、わてちしは……貴方と出逢えてよかったです。
そして貴方の想い人でもあったエリさんの意思を、わてちしに継がせ……オサムくんという最高の伴侶を恵んでくれて……
――ありがとうございましたっ!」
俺の頬を、自然と涙が伝う。
続いて、イグフェリエルが、子どものように泣きじゃくりながら言う。
「修一様……貴殿に言っていただいた、あのときの台詞を、つい先ほど言われたかのように、覚えております。
此方らを、絶望の沼から救っていただき……ほんとうに、本当に……ありがとうございましたっ!」
その言葉に、俺は喉を震わせながら叫ぶ。
「……おい、なんだよ、それ。今生の別れみたいな言い方すんなよ……。
俺も最後まで戦うから――泣くんじゃ――」
言い終える前に、イグフェリエルが祈るように呟く。
「シェラフィアス……修一様のことを、どうか……!」
直後、俺の身体を、巨大な力がつかみ上げた。
世界が反転し、足元が遠ざかる。
エリザシュアとイグフェリエルの姿が、豆粒のように小さくなる。
俺は何に掴まれたのかを確認し、目を見開く。
天界の大天使――
シェラフィアス=エル=ヴァルハイルの巨大な手が、俺を掴んでいた。
「……シェラフィアス!?
いや、それよりも!! 早くエリたちのところに戻してくれ!!
俺は最期まであいつらと一緒に――ッ!!」
俺の叫びを遮るように、大天使は厳しい声で叩きつける。
「――なりません……ッ!」
シェラフィアスの翼が、破れた旗のように風を裂いた。
その瞳には涙が滲み、けれど声だけは揺るぎなく、俺へと向けられる。
「先程……救星神イグフェリエル様より、天界の民へと思念が伝達されました。
――創造主様を、何としてでも元の世界へ返還せよ。この世が滅ぶ前に、と。
妾たちは……その覚悟に報いなければならないのですッ!」
彼女の声が裂ける。涙が頬を滑り落ちる。
それは天使の涙というより、ひとりの少女の祈りに近かった。
◇
――そして、一方その頃。
迫りくる『物語歪曲者』を前に、エリザシュアは震える指先を必死に押しとどめていた。
死がすぐ隣まで迫っている。
それでも視線だけは決して逸らさない。
そんな中、ふっと表情を和らげた。
「……最後に、背中を預け合うのが貴方で良かったです、イグフェリエル様」
言葉はかすかに震え、しかし優しさが滲む。
イグフェリエルは一瞬きょとんとして、それから俯くような声を漏らした。
「……じょ、冗談言わないでくださいよ……。
本当は、オサムくんっていう恋人さんと、一緒にいたかったんじゃないんですか?」
その声音には、救星神の威厳も神としての気高さもなかった。
ただ――幸福を祈る少女の声だった。
エリザシュアは、その言葉に一度だけ表情を陰らせる。
けれどすぐに微笑みを作り直す。
イグフェリエルは小さく息を吸い、意を決したように囁く。
「……ひとつ、お願いがあるんですけど」
「なんですか?」
震える声に、エリザシュアは優しく返す。
「……もし、また出逢えたら、そのときは……。
此方の友達になっていただけませんか。魔女と救星神としてじゃなくて……少女として。
あ、その……此方、友達とかいないんで……」
その告白に、エリザシュアは小さく微笑んだ。
「もし、そのようなことがあれば。友達になりましょう――イグフェリエル」
名前を呼ばれた瞬間、イグフェリエルの瞳から涙が溢れた。
だが彼女は首を振り、涙を振り払う。
次の瞬間には、凛とした視線で『物語歪曲者』を見据えていた。
「……よろしくお願いしますね、エリザシュア」
◇
俺の耳に、世界の終わりを告げる轟音が届いた。
振り返る。
そこには、地平を裂くほどの大爆発の光があった。
胸の奥が焼け焦げるように熱くなり、声が漏れる。
「……エリ……イグフェリエル……」
涙がひと筋、頬を伝い落ちた。
そして、確信した。
エリザシュア・ルミナとイグフェリエル=テラ=オルディアは、死んだ、のだと。
前方には北の森――氷結の月影林が見える。
しかし背後から、翼を広げた『物語歪曲者』がゆっくりと浮かび上がり近づいてくる。
「修一?
あの被創造物の、足止めは無駄だったよ。
今なら許してあげるから、さぁ、こっちにおいで」
媚びるような囁き声。
魂の奥に触れるような誘惑。
だが――
天から、無数の光。
幾百の天使たちが降下し、『物語歪曲者』に向けて弓や槍を構えた。
「やめろッ! お前らが敵う相手なんかじゃ――!」
俺の叫びは、間に合わなかった。
天使たちの身体は、まるで紙細工のように、いや――豆腐のように柔らかく破裂し、血と光だけを残して崩れ落ちる。
『物語歪曲者』は、ついに俺の眼前まで来た。
その瞬間――
「――創造主様、御達者で」
シェラフィアスが微笑み、そしてそのまま、俺を北の森目掛けて、投げ放つ。
俺が拒絶の言葉を叫ぶ間にも、シェラフィアスは天界に手を伸ばし、
幾億もの聖槍を引きずり出すように空へ展開した。
口から血を噴き、目からも赤い涙を零しながら。
身を破滅させる勢いで、『物語歪曲者』へと飛びかかる。
◇
俺は地面に叩きつけられ、視界がぐにゃりと揺らいだ。
頭を押さえながら身を起こすと――
「ほんとーに、お父ちゃんが来た!!」
「わーいわーい、創造主様だー!」
「お久しぶりです、創造主様」
聞き慣れた声が、半ば泣きかけの俺の耳に飛び込んだ。
顔を上げると、そこには――
没世界で出会った人形の少女・モルフィーナ。
北の森の妖精。
そしてエリザシュアの恋人である兵士、オサムが立っていた。
オサムは姿勢を正し、礼儀正しく頭を下げた。
その声は極限の状況とは思えないほど澄んでいた。
「エリザから、事のあらましを聞き及んでおります。
さっ、早く元の世界へ、お帰りになってください!」
そう言うや否や、彼は俺の手を強く引いた。
現実世界へ繋がる魔術陣――魔女の館、二階の私室へ向かうために。
だが俺は足を踏ん張り、必死に抵抗する。
「……だ、だめだ! お前たちを置いてなんか行けるか!
俺もあいつと、たたか――」
叫び終えるより早く、乾いた音が響いた。
――ぱっちん。
頬を叩いたのは、人形の少女モルフィーナだった。
陶磁器に似たその手が震え、瞳の奥には苦痛が渦巻いている。
「お父ちゃん……それは、戦ってるみんなのことを思って言ってるんだろうけど……全然嬉しくないよ」
声がひび割れ、涙が溢れる。
「だって、みんな……お父ちゃんに生きていて、欲しいんだから。
あたいたちを生んでくれた、大好きな創造主様に――」
そして、彼女は今にも壊れそうな笑みを浮かべた。
「……大丈夫。
あたいたちは、お父ちゃんの心の中で生きられるだけで……幸せだよっ!!」
きっと本当は死ぬのが怖くて仕方がないに違いない、そんな表情を彼女はしている。
そしてそんな彼女を見ていると、自分がどうにもなく情けなくなった。
そして――決意を押し殺すように、俺たちはエリの私室へ向かう階段を上がった。
大好きな自分の創造物たちの、その願いに応えるために。
◇
エリの私室の扉を開いた瞬間、俺は息を呑んだ。
室内は血の絵画のようだった。
壁も床も、紅色が滴り、濃密な鉄臭さが空気に張り付いている。
その中心に――『物語歪曲者』がいた。
白い指先でぶら下げているのは、シェラフィアスの生首。
血管と髪が絡まったそれを、まるで玩具のように揺らしていた。
あの一瞬の間に、すべての天使を殺し、先回りしたのだろう。
俺はたじろぎ、一歩後ずさる。
しかしオサムとモルフィーナは逆に一歩前へ出た。
全身が震えている。
死を悟っている。
それでも二人は背筋を伸ばし、剣と小さな腕で『物語歪曲者』を迎え撃とうとしていた。
「妖精くん!! ここはもうだめだ!
もうひとつの返還地点へと、転移させるんだ!!」
オサムが叫び、背後の妖精が頷く。
すぐに魔術の呪文が紡がれ、俺の周囲の空気が震え始めた。
その時、扉の入り口や、テラスから這い上るようにして、奔流のように人々が駆けつけてきた。
没世界の住民たち――かつて俺を殺そうとしていた者たちが、今は創造主を守るために『物語歪曲者』へと挑んでいく。
だが、次々に崩れ落ちていく。
それでも、向かっていく。
一瞬。
ほんの一瞬でもいいから、時間をつくるために。
転移が完了する直前、俺の視界に映ったのは――
オサムが胸を貫かれ、倒れ、
モルフィーナが小さな手を伸ばしたまま崩れていく姿。
その瞬間、世界が霧散し――
◇
――俺は目を開けた。
そこはグレイス・ヴァルム王国。
俺が初めて、この世界に足を踏み入れた、人間の国。
背後には巨大な城が聳え立ち、見上げるだけで胸が締めつけられるほどの威容を放っている。
しかし城下町の方に目を向けた瞬間、俺の血の気が引いた。
――奥の方から、『物語歪曲者』がやって来る。
歩くだけで、人が、町が、世界が消えていく。
横切ったものの存在を、溶かすようにして、こちらへ向かってきている。
俺は急いで城の中へ駆け込み、大広間の隅にある階段を下りる。
薄暗い螺旋階段。
松明の影が揺れ、息を切らしながら深部へと向かう。
やがて――懐かしい、あの地下施設に辿り着いた。
初めて俺と、勇者ルナテミスが相まみえた、あの場所に。
石畳に囲まれた薄暗い空間。
現実世界と繋がる赤い魔術陣が、沈黙した心臓のようにそこにあった。
そしてその前に、ひとりの蒼髪の少女が立っていた。
「あーあ。負けちまったか……」
そんなことを小さく呟いたのは、断罪の四骸――ヴァルティーア=シャリンハイム。
いや正確には、その中に入っている、月からの侵略者。
その瞳は悔しさと、どこか諦念の入り混じった色をしていた。
俺は何か言おうと、彼女へ一歩近づいた。
だが蒼髪の少女――ヴァルティーア=シャリンハイムは、手をひらりと上げ、俺の言葉を封じた。
「いいか、創造主様。一回しか言わねぇから、ちゃんと聞けよ」
その声音は、どこか湿り気を帯びた決意の響きだった。
「『――アルケイディア・ペンナム』っつぅ、呪文を唱えて、早くお前の世界へ戻れ。
そんだら、何よりもまず、名無しちゃんたちの世界を燃やして灰にしろ。
――それから先は、もうこの世界のことなんか忘れて、幸せに生きろ」
その一言一言が、まるで俺の胸の中心へ杭として打ち込まれるようだった。
だからこそ、俺は思わず喉が裂けるほど声を張り上げた。
「……燃やすっつったって、この世界はどうなんだよ!」
叫びは虚空に響き散り、返答は得られなかった。
代わりに――。
階段の上から、ひたひたと、粘りつくような足音が下ってくる。
闇を剥ぐような少女の声がした。
「……修一、ここにいるんでしょ~?」
声だけで肺の奥が凍りつく。
紛れもなく “あいつ” だ。
「……もう目の前まで来てんぞっ! 何秒の時間を稼げるか分かんねぇ――だから早く行けッ!!」
焦りで震えながらも、ヴァルティーアは俺の背中を押し飛ばすように怒鳴った。
その気迫に、俺は反射的に魔術陣の中心へ膝をつく。
赤い陣の紋様が、鼓動のように明滅する。
そして――階段の足音が静止した。
目の前。
闇の手前。
遂に、『物語歪曲者』と名乗る少女が姿を現した。
黄昏の瞳。
狂気を煮詰めた笑み。存在だけで空気が歪む。
「あぁ、やっぱ、お前だったんだ。
裏で、魔王様とこそこそやっていたのは。ヴァルティーア=シャリンハイム。
……いいや、“月からの侵略者”」
刹那、ヴァルティーアは迷いなく、その声の方へ鋭い視線を向けた。
「お前が、あんまりにも被創造物だから、忘れちまっていたよ」
『物語歪曲者』は、そんあ嘲笑も交えた言葉を発する。
俺は喉の奥で息を呑み、震える唇で呪文を結ぶ。
「――アルケイディア・ペンナム」
世界が爆ぜる。
俺の身体が白い光に包まれ、視界が溶けていく。
その刹那。
振り向きもせず、彼女――月からの侵略者は言った。
「……もし、何か困ったことがあったら、また戻ってこい」
その言葉の真意を理解する前に、俺の世界は白に塗り潰された。
◇ ◇ ◇
――そして白が静かに晴れる。
そこにあったのは、見慣れた……いや、久方ぶりに嗅ぐ現実の匂い。
俺の自室であった。
床には一冊の漫画が落ちていた。
『天魔双極~幻影幻想曲第14番 <Phantom Fable>』
かつて俺が描いた、漫画のタイトル。
そして、先程までいた世界の名。
俺は震える手でその紙束を掴むと、キッチンへと足を引きずる。
ライターを探し、親指をかけ――火を点けかけたところで、胸の奥をかき乱す葛藤が襲いかかった。
……これを燃やせば、あの世界はなくなる。
頭の中に、あの世界の仲間たちの顔が、一人ずつ浮かんでは消える。
そのひとりひとりが、炎に呑まれ、灰になっていく幻が見えた。
迷いの中、俺の手の中の漫画が――白く光る。
「……ッ!?」
紙束の中心から、手が伸びてきた。
そして、狂気に歪んだあの『物語歪曲者』の少女の顔が、現実世界へと覗き出す。
「修一……修一っ!!」
声は飢えた獣のよう。
世界を喰らい尽くす侵略者が、この現実へ侵入しようとしている。
俺は歯を食いしばり、覚悟を押し込むように火をつける。
だが――『物語歪曲者』の手が火を払った。
「……ッ!」
ライターだけでは押し切れない。
俺は台所へ手を伸ばし、サラダ油を掴み、紙束へ思いきりぶちまける。
そして――火花。
紙は瞬く間に爆ぜるように燃え上がり、炎の舌が『物語歪曲者』の影を舐め殺していく。
少女の手が引き裂かれ、狂気の声が遠ざかり、気配が霧散していった。
ゆっくりと。
確実に。
紙束は灰に変わった。
俺は燃え尽きた真っ黒な灰を見つめながら、静かに涙を零した。
膝から力が抜け、大の大人が子供のように崩れ落ちる。
そして――心がひび割れる音を聞いた気がしながら、俺はただ泣き続けた。
もう会えることのない、仲間の顔を思い浮かべながら。




