第75話 裏切者
「……どうして、主人公を愛してくれないの?」
足元の時間が、凍りつく。
「主人公は……修一が産んだ“最愛の娘”でしょ……?」
『物語歪曲者』は哀しげな目で、そう呟いた。
俺の動きが止まる。
脳内に、濁った波が押し寄せた。
娘? そんなもの俺に、いるはずがない。
だが――待て。
“俺は今、どこにいる。”
これは俺が描いた物語だろ。
ここにいる全ては、俺が“創った”存在。
なら――
“最愛の娘”とは、俺が描いた“創造物”を意味する……?
その思考に囚われた瞬間。
『物語歪曲者』の猛撃が二人へ襲いかかる。
俺の動きが遅れ――
ザルギエスが、すべてをひとりで受けた。
今までは、ふたりでやっとこさ防いでいた、それを。
爆烈の閃光。
ザルギエスの身体が裂け、深い傷を刻まれ、崩れ落ちる。
「……ッ!!」
俺は我に返る。
目の前には倒れたザルギエス。
振り返ると、聖槍と魔術を捌き続けるエリザシュアたちの姿――
みな、魔力は衰え、息は乱れ、限界は目に見えていた。
そのとき、『物語歪曲者』がゆっくりと歩み寄る。
足音だけが、やけに大きく響いた。
「ねぇ、修一。被創造物たちは、もうダメみたいだよ」
彼女は優しい声で――壊れた人形のように微笑みながら、俺の頬へ手を添える。
「大丈夫。一度や二度の不貞行為ぐらいなら……許してあげるから。
……さぁ、“主人公”の胸に飛び込んできなよ」
俺の両手が、まるで糸に絡め取られたかのように動きを封じられ、『物語歪曲者』の滑らかな背中へと強制的に回されていく。
ぞわり、と指先に触れた体温が、生々しくいやらしい。
その瞬間だった。
「フッ……愚拙を忘れてもらっては、困るな」
乾いた大地に低く重い声が落ちた。
どこか土煙の奥、揺らめく残光の中から、鎧の巨体が姿を現す。
月影白夜騎士団、戦騎士長グラウスだ。
刹那、彼の大剣が蒼い弧を描く。
「――蒼裂嶽ッ!」
力任せではなく、熟練の兵が積み重ねた年月そのものを線へと落とし込んだような一撃。
『物語歪曲者』の背に深い傷が刻まれ、血が噴き上がる。
「グラウス……ッ!!」
俺の声は、思わず笑みに滲んだ。
「おらのことも忘れちゃ、困るみゃあよ!」
直後、甲高い声が闇を裂いた。
影から飛び出した少女の輪郭が、赤い鱗と灼熱へとただちに形を変える。
シャーリア――彼女は、「キスをした相手に擬態できる」。
その力を存分に生かし、竜へと変身したのだ。
「シャーリアッッ!!」
胸の奥が焼けるほど、俺は笑った。
涙が零れそうになる。
シャーリアが大きく息を吸い込み、喉奥で火炎の奔流を圧縮する動きが見えた。
放たれた火炎は『物語歪曲者』に決定打を与えこそしないが、熱を孕んだ炎が一帯を濃く覆い、視界を奪うには十分だった。
「……ボクちゃんも最初、これやられたとき、戸惑いましたよー!」
煙の影から、疲弊したザルギエスが、命を燃やし尽くすように躍り出る。
軽口を叩きながら、しかし気配は鋭い。
炎に紛れ、一瞬の隙を逃さず、『物語歪曲者』の体躯へ拳を叩き込む。
炸裂音。
骨が軋み、肉が揺れ、『物語歪曲者』の身体が大きく後ろへ弾かれた。
どうやら急所に入ったらしい。
『物語歪曲者』がわずかに怯むその瞬間、俺は奥底に渦巻く力を振り絞った。
右腕の刃『黄昏』が光を帯び、空気を切り裂く音が耳を突き刺す。
一気に振り下ろされた一閃が、躊躇いなく彼女の肩から背中にかけて突き刺さる。
鋭利な切っ先が肉を裂き、骨の軋む音が周囲に響いた。
衝撃で、彼女の体躯は後方に大きく吹き飛ばされる。
『物語歪曲者』の瞳から光が落ち、糸が切れた操り人形のように地面へ崩れ落ちていく。
途端に、空を覆っていた幾億もの魔術と聖槍が嘘のように霧散し、夜空のような静謐が戻った。
戦いは、これにて終わったのだ。
◇
ザルギエスと、人型へ戻ったシャーリアが手を叩き合いながら勝利を噛み締めている。
すぐ横で、グラウスは静かに俯き、戦いの余韻を深く沈めていた。
その姿は、どこか暗く、浮かない顔だった。
俺は倒れ伏した『物語歪曲者』から一瞬たりとも目を逸らさない。
そうしていると、背後へ、ボロボロになったエリザシュア、ネクロフィリアたちがゆっくりと集まってくる。
イグフェリエルが静かにつぶやく。
「……終わったのだな」
エリザシュアが俺へ問う。
「この者の処遇は、どうするのですか……修一くん」
ネクロフィリアが低く唸るように言う。
「極刑の他、あるまい」
すぐにルシモディアが反論する。
「えぇ~!
あーみゅは、どういう理由で、こんなことしたのか、問いただすべきだと思うゾ~!」
俺は胸の奥で思考が渦巻くのを感じていた。
……ルシモディアの気持ちは分かる。
こいつは言った。
自分こそが“最愛の娘”だと。
その真意を、聞くべきなのではなかろうか……?
だが――
俺は息を整え、ゆっくり言葉を紡いだ。
「……こいつの力は、あまりにも危険すぎる。
一瞬の隙でも与えれば、最悪が生じる可能性が大いにある。
だから……」
深く息を吸い、光を帯びた右腕の刃を構える。
「ここで処理するッ!」
エリザシュアたちがわずかに後ろへ下がり、その決断を見届ける態勢を取る。
俺が究極の名を、紡ごうとする。
「――天命絶光《リヴァース=アーク》……」
その刹那だった。
『物語歪曲者』の身体が、どろり、と溶けはじめた。
皮膚が崩れ、骨格がほどけ、何か別の“形”が内側から姿を押し広げるように現れる。
現れたのは――猫耳の少女、シャーリア。
俺の思考が荒れ狂う。
……な、なぜシャーリアが……?
いや、騙されるな! 俺の知る姿に化け、同情を誘う魂胆に違いないッ!
……だが、口では上手く説明できないが、目の前の存在が不思議と、偽物に思えない……。
まるで、この目の前の存在こそが、本物のような。
だ、だとしたら、じゃあ……
――さっきまで、共に戦ったシャーリアは誰だ?
疑念が深く喉をつまらせ、俺は反射的に後ろを振り返ろうとした。
――その瞬間。
空気を切り裂く、低く強烈な咆哮が響く。
「――蒼裂嶽ッ!」
聞き慣れたはずの声なのに、背筋が凍るほど異質な響きが混ざっていた。
振り向いた俺の眼前で、世界がねじれたように歪む。
グラウスの巨躯が、エリザシュアとイグフェリエルへ向けて振り下ろしたのは――さきほど救いの光として現れたときと同じ、あの蒼い必殺の斬撃。
それが今、仲間の首元へ吸い込まれるように迫っていた。
だが間一髪、エリザシュアの前にルシモディアが、イグフェリエルにはネクロフィリアが割り込み、
『快感』と『死』を以て、無効化していた。
ルシモディアは目を見開き、声を裏返らせる。
「え、なんでグラウスくん……? 今の、本気で殺す気だったよネ??」
ネクロフィリアはすでに警戒の色を濃くし、刃を構え直す。
「ルシモディア、まともに取り合うな!! 攻撃してきた以上、奴も敵に外ならんッ!」
俺とザルギエスは、そのやり取りを少し離れた位置で見ていて――戦慄が走った。
そして俺たちは、本能で同時に叫ぶ。
「「敵はひとりだけじゃ――!!!」」
だが、その声が届くより早かった。
ルシモディアとネクロフィリアの背後に――
先ほどまで共に戦っていた方の、シャーリアが、音もなく歩み寄っていた。
振り返る間すらない。
細い指先で、二人の背にそっと触れる。
そして、無機質な声でただ一言。
「――消去」
光も音も残さず、影も、気配も、歴史すら残さず、世界から二人が、丸ごと抜き取られる。
エリザシュアとイグフェリエルは蒼白になり、慌てて俺のもとへと下がる。
震えながらも敵から目を逸らさない。
シャーリアの姿をした“それ”は、薄く笑いながらつぶやいた。
「いや、念のためシャーリアと、役を交代していて正解だったよ。
もし最初の筋書きのまま、主人公本人が戦っていたら――修一に殺されて、死んでしまうところだった」
その声は、いつもの甲高く天真爛漫な調子から、ゆっくりと、落ち着いた大人の女の声へと変質していく。
皮膚が溶け、形が崩れ、内側から“本体”が現れた。
そこに立っていたのは、先ほどまで戦っていたはずの、『物語歪曲者』本人。
『物語歪曲者』は言っていた。
すべての存在の力を使えると。
ならば、シャーリアの「キスをした相手に擬態できる」という力を使い、今の今まで、シャーリアに化けていたのではないか。
――そして、今思い出しても何の意味もないが。
天界で俺が目覚めて以降、シャーリアは俺のことを、いつものように「創ちゃん」ではなく、「創造主様」と呼んでいたような気がする……。
『物語歪曲者』のすぐ横に、俯いたまま暗い表情を浮かべるグラウスと、
『物語歪曲者』に化けていた“本物の”シャーリアが並ぶ。
俺の胸の奥で、怒りが爆ぜる。
「……グラウス、シャーリア……お前ぇら、まさかッッ!!!!」
その叫びと対照的に、『物語歪曲者』の声は異様に静かで、よく通った。
「ほら。お前らも挨拶してあげなよ。
――“裏切り者の、グラウスとシャーリアです”ってさ」




