第72話 すべての黒幕
断崖絶壁に吹き上がる風は、血の匂いを巻き上げながら荒々しく渦を描いていた。
崩れ落ちた岩肌の上には、紅が滲む。
エリザシュアとイグフェリエル――ふたりの身体は並ぶように倒れ込み、冷たく染み出す血だまりが周囲の石を、黒く濡らしてゆく。
脈動は浅く、呼吸はかすれ、意識はとうに闇へ沈んでいた。
その静寂を踏みにじるように、コツ、コツ、と足音が近づく。
やがて影は、喉の奥を震わせるように笑いを漏らす。
「キャシャシャ……」
その声音は冷気よりも冷たく、愉悦だけが刃のように尖っていた。
蒼い髪が風に翻り、黒い装束に仕込まれた無数の刃がきらりと光る。
「エリザシュア……並びにイグフェリエル。
お前らを今から――殺してやるよ」
断罪の四骸ヴァルティーア=シャリンハイムが、倒れ伏したふたりを見下ろしながら、そう唇を吊り上げた。
◇ ◇ ◇
刃が肉を割る手応えが、右腕を通して骨の奥にまで突き刺さる。
俺はそのまま、腹へと突き立てた剣を押し込みながら吠えた。
「――|天命絶光交錯斬《リヴァース=アーク=オブリヴィオン》ッ!!」
光が爆ぜ、ルナテミス(?)の身体を破裂させるように、白い奔流が走る。
だが刃が完全に心臓へ届く寸前、彼女は咄嗟に身をひいて抜け出した。
溢れ出した血が金色の髪を赤く濡らしながら、地面に散る。
「チッ……死ねぇぇぇ!! 本当の黒幕がァ!!」
俺の濁った怒気が声帯を焦がす。
俺は地を蹴り、逃げる暇すら与えない勢いで刃を振り抜いた。
金属音が火花を散らし、剣風が二人の間を裂く。
ルナテミス(?)は腹を押さえながら、よろめく足で剣を受け止めてきた。
その顔は――心底、困惑に染まっていた。
「さっきから、何をしているのだ、修一ッ!!
黒幕である魔王ディアーナなら、我らでともに倒したであろう!!
さっさと正気にならんか!!」
剣戟の衝突で弾かれそうな体勢のまま、俺は意外なほど冷静に言葉を吐き返していた。
「普通なら――そうだ。
あいつが、魔王ディアーナが黒幕だと信じるだろう。
何てったって……自分でそうだと、言い張ってんだからな」
刃を押し返し、呼吸を整えながら続ける。
「でもな……俺が……いや、“創造主”である俺にしか気づけない救難信号を、
あいつは密かに送ってたんだよ」
ルナテミス(?)の黒い瞳が揺れる。
俺はその揺れに刃先を向けるように、ひと息で核心を突いた。
「それは――
――魔王ディアーナが嘘をつくときの癖だよ」
風が黒い大地を撫でる。
ルナテミス(?)の喉がかすかに鳴った。
「……癖……?」
「あいつはな。嘘をつくとき、『手を顎に添える』癖があるんだよ。
お前ならわかるはずだろ?
――なぜなら、その癖を見抜いたのは、幼少期のお前自身なんだからよ」
ルナテミス(?)の表情が、一瞬で変わった。
まるで雷に打たれたように、強く、深く、コクコクと頷く。
「……あ、あぁ!! 知っているとも!
兄上には、たしかにそのような癖が――」
その瞬間だった。
「はッ……ははははははははッ!!!」
俺の喉から溢れた笑いが、辺りに不吉な残響を撒き散らした。
ルナテミス(?)の瞳が揺れ、色を失っていく。
「ばーか。ブラフに騙されてやんの」
俺は唇の端をゆっくり吊り上げ、告げた。
「ディアーナの本当の癖は、『手を顎に添える』ことなんかじゃねぇよ」
ルナテミス(?)の顔が、一気に蒼白へと落ちた。
その反応に、さらに言葉を重ねて叩き込む。
「あいつはな。
嘘をつくとき――
――『うぅん』って喉を震わせる癖があるんだよ。
咳払いみたいな、妙に湿った音でな」
思い出すままに、没世界で初めて会った時の、ディアーナの声が脳裏によみがえる。
===
『うぅん、然るべき情報を得るため先んじて森――《氷結の月影林》に赴きました』
『うぅん、心配しておりましたよ……敬愛すべき我の、我だけの、我が君!!』
『……うぅん、感無量。ええ、我は一生ついていきますとも。創造主様を決して見捨てたりしません!』
===
俺はゆっくりと言葉を続けた。
「……でも、おかしなことにな。
ルナテミスにその癖を、指摘されて以降――
あいつは、一度もその癖を見せなくなったはずなんだ」
右腕の刃が震える。怒りか、武者震いか、もはやわからない。
「だから、没世界であいつと会ったとき既に、何というか違和感は感じていたんだ。
――まるで、あえてその癖を披露しているみたいだなって」
そして俺は、一歩、ルナテミス(?)に踏み込みながら言う。
「だから俺は、初めて魔界に来たときに――
念を押して、こう聞いてみたんだよ」
深呼吸を一つ。
彼女から落ちる血の滴の音が、やけに大きく響く。
『――お前が本当に俺じゃない“創造主”を名乗る存在で……
世界を終焉へ導いた黒幕なのかッ!?』
エリザシュアとイグフェリエルたちと共に、魔王城の玉座に辿り着いたときの光景を、思い出す。
「するとあいつは……こう答えた」
喉が勝手に震える。あの声音が俺をなぞる。
『……うぅん。えぇ、よいでしょう。
我こそが――すべての黒幕でございます』
「……そして俺は、心の中で思ったさ。
『――やっぱり……そうなのかよ、ディアーナ!』
……あぁ、やっぱりお前は黒幕なんかじゃない、ってなッッ!!」
ルナテミス(?)をまっすぐ睨みつけて言うと、彼女の顔に焦燥が走った。
「……たとえ、そうだったとして!
なぜ我が、黒幕になるのだッ!? 他の者だって当てはまるはずであろう!!」
その必死の反論に、俺は乾いた笑みを漏らした。
「どうやら……俺が描いた物語を、あまり知らないらしいな。教えてやるよ」
刃を弾きながら、低く言い放つ。
「あいつはな……ディアーナはな。
――妹のルナテミスのためだけに、魔王になったやつなんだよ。
そんなやつが、大好きな妹が目の前で、真っ二つになってるってのに……あんな平然な顔が、できるわけがねぇだろうが」
そこで、彼の気持ちを想像して、少しだけ胸が痛んだ。
「……もし、平然としていられる理由があるとしたら、ひとつだ。
――“真っ二つになったルナテミスは、本物じゃない”ってことだけだ」
ルナテミス(?)の顔が歪む。
「ならば逆に、魔王ディアーナの中身こそが別の存在に、置換されている可能性はないのかッ!?
修一……我との旅を振り返るのだ!
我が、黒幕などという戯け者だと、疑える余地など、一片もなかろうッ!!」
叫ぶ声は震えていた。
だが、俺は冷え切った声で返す。
「……悪いが。
もし“あいつが黒幕で、これから何かを企んでいる”というのなら、俺はそれに心中するつもりだ」
視線をわずかに上へ向ける。
滲む涙を誤魔化すように。
「バカだよな、あいつは……。きっとお前に抗うために、裏で色々と動いてたはずだ。
俺があいつの癖を思い出さなきゃ……全部、無駄になってた。
――でもあいつは、俺を信じた。
だから、俺はあいつを信じるしかねぇんだよッ」
握る柄に力が入り、声が震える。
「お前に落ち度なんかねぇ。
その姿は、俺が描いた“勇者ルナテミス”そのものだった。
――だから、さっさと諦めて、正体を現せッ!!」
その瞬間、ルナテミス(?)の顔に滝のような汗が流れ、困惑の表情を見せる……。
だが次の刹那、すべてが止まった。
汗も、表情も、呼吸すらも。
無表情がそこに残る。
「……はぁ。
こうなるなら、やっぱり“あの魔王様”は、最初から消しておくべきだったね」
声が違った。
低く、冷淡で、底がない。
次の瞬間――
そいつは、まるでカツラでも脱ぐかのように軽々と、ルナテミスの金の髪を外した。
ぼとり、と落ちる。
その下から現れたのは、漆黒の長髪。
前髪はジグザグに切り裂かれたような段差を描く。
均整はなく、左右で長さすら違う。
顔も、体つきも、まるで別人。
瞳は抜きんでて、おぞましい。
黒とも白ともつかないノイズの粒が絶えず揺れ、こちらを見ているくせに、微妙に視線がズレている。
――見えている対象と、見ようとしている対象が一致していないような、不快な嫌悪感。
装束は黒と金を基調にした豪奢なものだが、飾り紐や紋章の配置が妙にちぐはぐ。
そいつは薄く笑い、俺の名を呼んだ。
「あぁ、そうだよ修一。
“主人公”こそが、すべての黒幕だよ」
――主人公。
そんな聞きなれない一人称で、彼女は自身こそが黒幕だと、言った。




