第71話 天命絶光交錯斬《リヴァース=アーク=オブリヴィオン》
――暗い。
光の死んだ深海のように、上下すら判じられぬ闇が、彼女の魂をずるずると呑み込んでいた。
音も、匂いも、温度すらない。
ただ、ふわり……ふわり……と、自分が自分でない“何か”に変質していく感触だけが、冷たい泥のようにまとわりつく。
(……誰だ……自分は……誰だ?)
声にならぬ声が、闇の中に沈んでいく。
記憶は砕けた鏡の破片のように散り散りで、掴んだ指先からすぐ零れ落ちる。
だが――その裂け目の奥で、かすかに光が灯った。
ある男たちとの旅路。
共に背中を預け、しのぎを削り、世界を救おうとした冒険譚。
(しゅういち……)
彼の名が、霧のように意識に落ちてくる。
それと共に、朧気ながら、彼と交わした約束の記憶も蘇る。
――それでは、修一。共に、この世界を救おうではないか。
手を取り合い、世界を救うと誓った日。
だが結局、果たせぬまま、力尽きてしまった。
胸の奥で熱が渦巻き、闇の中で小さな光が揺れる。
記憶の破片が、刃のように研ぎ澄まされ、魂を貫く。
――ここで立ち止まってはいけない。
――こんなところで終わらせてはならない。
やがて視界が揺れ、仲間たちの姿が浮かぶ。
血まみれ、傷だらけ、泥に塗れ、それでも今もなお、戦い続ける背中。
彼らの息遣い、痛みに歪む表情、必死に前を見据える瞳。
――すべてが彼女の魂を揺さぶる。
(……自分は、誰だ?……)
闇を裂くように、魂の奥で熱が沸き上がる。
過去の悔恨、果たせぬ約束、守れなかった思い――すべてが、怒りでもなく恐怖でもない、純粋な決意として彼女を押し上げる。
(……は、我は……)
そして、ついに声が形を得る。
胸の奥から炸裂する、魂の叫び。
「――我は、勇者ルナテミスだッ!!」
轟く咆哮と共に、闇を覆っていた虚無が切り裂かれ、魂の輪郭が光で満ちる。
記憶の欠片が再び繋がり、自己を取り戻した魂は、迷いも恐怖も、もはや何も残さない。
そして、死してなお光り輝く遺恨が、彼女を再誕させる。
根強い後悔を、残したまま死んだ者が至るという、『魔族』として
◇ ◇ ◇
刃が振り下ろされる――死の影が、目前に迫ったその瞬間。
ガキィン――!
金属と金属が噛み合う火花が、崩れた魔王城の天井まで散った。
修一は、自分の身体がまだ、痛みを感じてられていることに驚きながら、ゆっくりと視線を上げる。
そこにいたのは――
後ろ姿だけで胸が締め付けられるほど懐かしい。
修一がもう二度と見ることはないと思っていた人物。
月光をまとった金色の髪。
肩で揺れるマントは砂塵に荒れ、だが凛とした背は変わらないまま。
――勇者ルナテミス。
死んだはずの、あの勇者が――修一の前で、魔王の一撃を受け止めていた。
彼女はゆっくりと振り返り、凛とした瞳で修一を見下ろす。
「――我は月影白夜騎士団が筆頭……勇者、ルナテミスッ!!
久しぶりだな、修一」
声が震えた。
驚愕に、安堵に、理解の追いつかない恐怖に。
「……な……なんで……。ルナテミス……?
お前……死んだはず、じゃあ――」
だが修一の言葉を遮り、彼女は怒鳴る。
「……う、うるさいぞ、修一ッ!
我だって、なぜこのような場所におるのか、分かっておらんだからな!」
ルナテミスは魔王へと向けていた刃を一瞬だけ逸らし、続ける。
「目を開けたらな、断罪の四骸ネクロフィリアがエリザシュアらを、襲おうとしておった!
だから、すかさず叩き斬ってやったまでだ!
もう、何がどうなっておるのか、我こそ聞きたいぐらいだ!」
そう言って、修一の右腕を見た瞬間――
彼女の顔が青ざめた。
「というか修一ッ!! どうしたんだ、その右腕はッ!!」
焦りに滲む声。
修一は答えようと口を開きかけ――
「……っぷ、ぷ……」
魔王ディアーナが肩を震わせ、吹き出した。
「ぷっははははははッ!!
身体を裂かれ、死んだはずだというのに、生き返るだなんて……ご都合主義にもほどがあるな。
――もし、この筋書きを考えた奴がいるのなら、嘲け笑いたい気分だよ」
城に響く狂笑。
その声を受け、ルナテミスはようやく魔王に視線を向けた。
「これは……一体どういうことなのだ、修一」
その問いに、修一は血を吐きながらも立ち上がり、魔王を睨んだ。
「……あいつが、魔王ディアーナが……全部の黒幕なんだ。
終焉の穴を作ったのも、この世界をぶっ壊したのも……
ぜんぶ、全部あいつのせいなんだよ」
ルナテミスの表情が強張る。
「な……何ッ!?
なぜだッ!? なぜそのようなことをッ!!」
「理由なんて、どうでもいい」
自分でも驚くほど、冷静な声が喉から漏れた。
「もしあいつが……世界を滅ぼすつもりなら……
是が非でも、ぶっ飛ばすだけだッ!!」
魂が焼けるような気迫。
ルナテミスは、その声に一瞬だけ震え――しかし、すぐに鋭い眼光を取り戻した。
剣を構え、低く、覚悟を噛みしめるように呟く。
「……兄上……いいや、魔王ディアーナよ。
我らに討たれる覚悟――あるのであろうな」
すると魔王は、凍りついた声で吐き捨てた。
「貴様に……兄などと、慕われる筋合いなどない。
さあ、来い――二人まとめて殺してやる」
鋭い魔力が爆ぜ、闇が渦巻く。
ルナテミスと修一は、同時に剣を構え、視線を揺らさず怨敵へと定める。
修一とルナテミス、対するは魔王ディアーナ――
瓦礫と崩壊の頂で、最後の決戦が幕を上げた。
===
最初の衝突は、音ではなかった。
世界が破れた。
刃と刃が交差した瞬間、白い火花が視界を塗り潰し、床石が波打つように震えた。
修一の腕に、衝撃が骨ごと砕けるほどの負荷となって返ってくる。
すぐ横で、ルナテミスの銀刃もまた凶悪な唸りを上げ、魔王ディアーナの黒刃と擦れ合い、火花が瓦礫の雨のように散り落ちた。
呼吸する暇すらない。
ほんの一瞬でも怯めば、死ぬ。
魔王の動きは、ただ“速い”だけではなかった。
速さが、斬撃として形になっている。
黒い軌跡が空間を裂くごとに、周囲の空気がねじ切れるように悲鳴を上げた。
その一閃を、修一はかろうじて受け止める。
だが重い。
腕が、抜ける。
剣が、押し負ける。
次の瞬間、修一の剣は完全に弾き飛ばされた。
視界が跳ね、胸元へ黒刃が吸い込まれてくる。
――死ぬ。
斬り裂かれると悟った瞬間、耳元で高い金属音が弾けた。
「――させんッ!!」
ルナテミスが割って入った。
白刃と黒刃が正面からぶつかり合い、火花の爆風が二人を押し返す。
ルナテミスの肩が裂け、血が霧のように舞う。
それでも彼女は踏みとどまり、魔王を押し返した。
修一が息を吸う間もなく、魔王の掌が黒光を帯びた。
「ッ――来るぞ!」
瞬間、魔術の光が銃弾より速く降り注いだ。
光線――いや、殺意の束だ。
床を穿ち、空気を焼き、接触した石壁が溶け落ちていく。
一条がルナテミスの顔面へと突き刺さる軌道を描いた。
反応が追いつかない。
彼女も見えていない。
修一は飛び込んだ。
右腕を差し出し、刃で光線を叩き落とす。
衝撃が腕の骨を震わせ、肘まで麻痺が走る。
皮膚が焼け、金属のような匂いが立ち込めた。
「ぐッ……!」
追撃が止まらない。
魔王は疲れを知らず、次々と光を連射し、斬り込み、蹴りを放つ。
その全てが、まさに『最強』の名に恥じぬものであった。
誰よりも速く。
誰よりも強く。
誰よりも重い。
修一とルナテミスは、防ぐたびに体を削られた。
剣を交わすごとに、衣服が裂け、皮膚が割れ、血が滲む。
呼吸が焼けた鉄のような味を帯び、肺は悲鳴を上げる。
それでも止まらなかった。
修一は魔王の踏み込みを察し、ルナテミスの側面を守るように回り込む。
ルナテミスは修一の背後の死角へ迫る刃を斬り払い、魔王の軌道を少しだけ逸らす。
互いの欠落を補い合う。
互いの死角を埋め合う。
ふたりの剣戟は、もはや一人の戦士のように連動していた。
――だがそれでも、魔王の『最強』に追いつけない。
魔王の刃が、ついにルナテミスの胴を捉えた。
鈍い音がし、紅い線が走る。
熱い血が修一の頬に飛び散った。
次の瞬間には、修一も腹を浅く裂かれる。
痛みが一歩遅れて襲い、呼吸が止まりそうになる。
足元がぐらつく。
視界が霞む。
それでも、立つ。
魔王が振り下ろした大振りの一撃。
修一は歯を食いしばり、死ぬ覚悟で踏み込んだ。
刃の風圧で首筋が切れた。
そのすぐ横――魔王の左脇、ほんの紙一枚の隙。
修一の刃が、そこに優しく“触れた”。
「――ッ!!」
たったそれだけで、魔王の動きが鈍った。
その瞬間、ルナテミスの視線が修一と絡む。
言葉はいらなかった。
呼吸が、拍動が、視線の温度が同じ方向を向く。
ふたりはゆっくりと、同じ構えを取る。
床に散る血が、再び跳ね上がるほど強く踏み込む。
「……修一。我らの旅路を――ここで、終わらせるぞ」
「……あぁ。行くぞ、ルナテミス」
ふたりの剣が光を帯びる。
世界が震え、空気が白く唸る。
「「――|天命絶光交錯斬《リヴァース=アーク=オブリヴィオン》ッ!!」」
光が奔流を描き、魔王へ一直線に走る。
魔王は怯んだ体勢のまま、それでも闇を振りかざした。
「――|冥命歪創殲界斬《インヴァース=ジェネシス=カタストロフィ》!!」
衝突。
白と黒の奔流が再びぶつかり、世界が消える。
床が砕け、壁が吹き飛び、天井から岩塊が雨のように落ちる。
光が押される。
闇が飲み込もうとする。
だが――今の修一は、一人じゃない。
ルナテミスが隣にいる。
彼女の声が、叫びが、力が修一の光を押し上げる。
二つの意志が絡み合い、白は黒を貫いた。
爆ぜる光。
吹き飛ぶ空間。
視界が一度、完全に白に塗り潰される。
そして――
静寂。
光が収まった時、立っていたのは修一とルナテミス、ただ二人だけだった。
血まみれで、傷だらけで、それでもなお前を向いていた。
魔王ディアーナは――
体の半分を喪い、地面に沈んでいた。
魔王ディアーナが崩れ落ち、玉座の間は瓦礫と血と焦げた光に満ちていた。
まだ天井から砂がぱらぱらと落ちる。
さっきまで世界を割るほど響いた剣戟の余韻が、空気の震えとなって残っていた。
ルナテミスは深く息を吐き、血に濡れた白刃を握りしめたまま、ディアーナへと近づく。
その眼は、戦士の眼だった。
とどめを刺す者の覚悟を宿した、冷たい月の光。
だが――その刃先が魔王の喉元に触れようとした瞬間、修一の左手が静かにルナテミスの手首を掴んだ。
「……修一?」
振り返った彼女の顔には、戦いに似合わぬ柔らかな驚きがあった。
修一は血の滲む唇を震わせ、かすれた声で言った。
「……これでもこいつは、俺の描いた創造物なんだ。
最後ぐらい……俺に、終止符を打たせてくれないか」
ルナテミスは少しだけ目を伏せた。
彼女にも葛藤があった。
だがその手を、やがてそっと離した。
背を向け、歩き出す。
もう刃は握っていない。
背中から、その決意が伝わる。
「……承知した。
我は、魔王城の外で待っている」
ルナテミスは静かに玉座の間を出ていった。
足音が遠ざかり、気配が完全に消える。
静寂だけが残った。
修一は魔王の前に膝をつき、震える声で問いかける。
「……ほんとに、本当にこれでいいのかよ、ディアーナ」
歓喜が思わず溢れたような笑みで、魔王は言った。
「えぇ……これでいいのですよ、田島修一。
――すべて我の、筋書き通りです」
その言葉を聞いた修一は、目を見開き驚愕の表情を見せる。
だが、すぐさま冷静な顔に戻し、刃を振り下ろす。
◇
魔王城を出た修一を迎えたのは、冷たい風と、
物憂げに空を見上げるルナテミスだった。
「修一……我は、今までの旅を思い返していたのだ」
彼女の視線は遠く、どこか懐かしさと誇りを宿していた。
「最初に我が、そちを召喚した時から、すべてが始まった。
グレイス・ヴァルム王国の地下で、いきなり終焉の穴の門番と戦う羽目になり……
だが、二人で力を合わせて勝った」
彼女はそうして、今までの旅路を、ひとつひとつ確かめるようにして、振り返る。
「氷結の月影林では、エリザシュアの裏切り……。
あのときの彼奴の顔は、今思い返しても肝が冷えるぞ。
だが最終的には、彼奴の憎悪も晴れ、門番も撃退できた」
ルナテミスの声に修一は、
「……あぁ。そうだな」
ただ淡く笑いながら、相槌を打つ。
「テフ=カ=ディレムでの救星神選抜認定試験では、何があったのかは分からんが、急に修一が顔面蒼白になって驚愕したぞ。
でも自分自身で立ち直り、見事すべて解決した…………したんだよな?
我は、遺跡を出て以降、あまり記憶がない故、その実感はあまりないが」
修一は、彼女が話す想い出に、コクコク頷きながら、同じく振り返る。
「そして──すべての黒幕、魔王ディアーナを討った。
我らの旅は、これで終わったのだ」
彼女の声は、どこか寂しげで、そして誇らしかった。
「今一度、感謝させていただきたい。
――本当に……ありがとう、修一。
もう一度、この世界に向き合ってくれて」
そして、勇者ルナテミスは俯きながら問いかける。
「そちは……これからどうするのだ?
元の世界に帰ってしまうのか……?」
言葉が震えていた。
唇がかすかに揺れる。
恥じらいを隠そうとしているのが痛いほどわかる。
「……あ、その……そのな……。
我としては……そちとこのまま、永遠に離れ離れになど、なりとうない……。
つまり……一緒に……居たい、のだが……」
修一は乾いた笑いを漏らす。
「はは……いいさ。
ルナテミス、永遠に一緒に居ようじゃないか」
その言葉を聞いた瞬間、ルナテミスの顔は林檎みたいに真っ赤に染まる。
そして、胸に手を当て、一歩、また一歩と修一へ近づいていき――
ルナテミスは、抱きしめるために腕を広げた。
そうして修一とルナテミスのふたりは、
余生を、幸せに過ごしましたとさ。
おしまいおしまい。
――ブシュゥゥゥウッ!!
耳を裂く“刺突音”。
温かい血が、辺りに散った。
「……え?」
刺されたのは――ルナテミスだった。
そして刺したのは、修一だった。
修一の刃が、彼女の胸を深々と貫いている。
「……しゅ、……ぅいち……?」
勇者ルナテミスの瞳が震える。
痛みではない。
状況を理解できないという、困惑。
修一は顔を歪め、噛み殺したような声を絞り出した。
「……こんな、くそみてぇな脚本……いい加減、吐き気がするッ……!」
ルナテミスの肩に手を置き、さらに刃を深く押し込む。
「なぁ……ルナテミス。――いいや」
そして田島修一――“俺”はこう叫ぶ。
「お前は……誰だッッ!!!!!!!!!!!!!!!?」




