第70話 魔王ディアーナ・セリューヌ
魔王城では、かつてない激戦が荒れ狂っていた。
修一の《黄昏》が火花を散らしては震え、握る腕からは骨の軋む音さえ聞こえる。
対する魔王ディアーナの黒剣《極夜》は、まるで世界そのものを切り取るかのように、重く、鋭く、揺るぎない。
衝突する度に地面が裂けた。
剣を押し返される度に、内臓が揺れるほど衝撃が走った。
修一は足を踏ん張る。
国王アルヴァレインから教わった型を全て叩き込み――しかし、届かない。
理由は単純だ。
魔王ディアーナの父こそが、アルヴァレイン・セリューヌであり、
彼もかつては、父を師として鍛錬を積んでいたことがあるのだから。
「いやはや、短期間でこれほどまでに成長なさるとは」
嫌味を含んだ魔王の声が、戦場の空気を舐め回した。
「では、これは如何でしょうか。
――虚滅の廻葬深淵」
言葉とも呪いともつかぬ囁きが落ちた途端、
空が砕け、黒い彗星が雨のように降り注いだ。
「――ッ!」
ただ避けるのが限界だ。
回避が一手遅れた瞬間、地面が爆ぜ、修一の体が吹き飛ぶ。
息を吸う暇もなく、次の闇が迫る。
魔王は指を鳴らした。
「――万幻影死屍骸々《ヴァニシング・グリム・レヴナント》」
地面が腐敗したように沈み、
そこから英雄たちの屍が、ずるりと立ち上がった。
空虚な眼窩、絶望に濡れた鎧、かつての英雄たちの名残が軋む声を上げる。
修一はそちらへと意識を割かざるを得ない。
その一瞬――
彗星の一撃が背を掠め、焼け焦げた臭いが皮膚から立ち昇る。
「が……ッ、ああ……っ!」
視界が霞む。それでも斬る。
屍を、次を、さらに次を――血と汗で視界が歪むまで斬り伏せる。
ようやく死者の群れが静まりかけた頃、
魔王は楽しげに唇を上げた。
「――祝辞寿ぐ終焉誕生」
魔力で形成された竜が顕現し、咆哮とともに灼滅の光線が奔った。
「クソ……!」
まともに受ければ蒸発する。
修一は迷わず、エリザシュアに与えられた魔術の知識を辿り、魔導書を取り出す。
「――刹那反転・人戒書ッ!」
白い膜が炸裂するように展開し、無数の魔術式が視界一面に浮かびあがる。
竜の光線の、魔術のコードを、修一の意識が同時に書き換えていく。
光線の“破壊”を“通過”へ、
“殺す”を“逸らす”へ。
しかし――
一瞬で全てを書き換えることはできない。
当然だ。
付け焼き刃の魔術が、通用してたまるものか。
膜の外側、変換が間に合わなかった部分が修一の身体を焼いた。
熱が皮膚を裂き、血の味が口に広がる。
それでも――防ぎきったのだ。
膝をつきながらも、修一は黄昏を構える。
魔王ディアーナの瞳がわずかに輝いた。
その拍子に長い黒髪が揺れ、魔王の紫紺の瞳が歓喜に染まる。
血の匂いを悟った獣のような、悪辣な笑みだ。
魔王は手を叩き、その音が洞窟の奥へ乾いた反響を返す。
「ふっふふ……我のしもべ、ルナシスファル・セリューヌとして受肉しているだけあって、魔術の才は確かにあるようだ。
けれどやはり――エリザシュアほどに、練度は極まっておらん」
修一は息を荒げながらも、口元だけは不敵に歪めた。
「……やっぱり、お前は強いな、ディアーナ」
魔王はその言葉を受け、胸を張って宣言する。
「当然でございましょう。
我の能力は――『常に最強になりつづける』ことなのですから」
黒いマントが、まるで王の翼のように揺れた。
「――この世界に存在するすべての生命の力の、総量が我に宿る。
そういう理を孕んでいるのですから」
修一は眉をしかめ、心底うんざりしたように吐く。
「……我ながら、ほんと厄介な能力にしちまったよ。
強くなればなるほど、お前も強くなる。勝てるわけねぇだろ、そんなの『普通』はさ」
だがそこで、彼は剣先をぴたりと魔王へ向け、鋭く言い放つ。
「……ただひとつ、例外がある」
魔王の眉がわずかに動いた。
「この俺――田島修一だ。
俺はこの世界の“存在”じゃない。お前の理に含まれていないんだ」
そして炎のような視線で魔王を貫く。
「――だから、そこで待っていろ。
お前の“最強”に、俺が追いついてやる」
次の瞬間、二人の剣が火花を散らし、夜闇を裂くような衝突音が大地を震わせた。
◇ ◇ ◇
地鳴りのような風切り音が冥府の荒野をえぐり、砂が横殴りに流れていく。
エリザシュアはその中心で、胸元に両手を添えて息を整えた。
魔力の残量は、先の戦闘で枯渇へと一直線――それでも、彼女の瞳には消えない光があった。
次の瞬間、世界が色を変えた。
黒炎が爆ぜ、氷山が隆起し、疾風が牙を立て、雷撃が光を引き裂き、毒霧が渦を巻き、地面が盛り上がり、深海の圧が押し寄せ、月の刃が降り注ぎ、闇夜が触手のように伸びる。
九属性の魔術が、怒涛のように重なり合ってネクロフィリアへ殺到した。
だが――骸骨の巨体はまるで遊戯のように鎌を回した。
キィンッ、と金属の擦れる音が立ち、高速回転する大鎌が黒い輪を描く。
来る魔術を次々と弾き、砕き、裂き飛ばしていく。
弾ききれぬ術だけは、鎌の紫黒い光を軽く触れさせ――
「――――骸録死因転写=水死」
言葉と同時に魔術は音もなく消滅する。
泡になって溶けたように。
エリザシュアは奥歯を噛んだ。
「……くそがっ」
その時、風を割る音が頭上から降ってきた。
「いや、よくやってくれた、エリザシュアよッ!」
金色の雲が空一面に広がり、そこから無数の聖槍が光の雨のように落ち始めた。
時間を稼いだおかげで、聖槍の充填が完了したのだ。
イグフェリエル自身も、長槍を回転させながらネクロフィリアへ突撃する。
大鎌と長槍がぶつかり、火花が散った。
イグフェリエルの斬撃はまるで白金の旋風。
対するネクロフィリアの鎌筋は、死そのもののように静かで重い。
槍の突きと聖槍の雨――両方を捌くには、いかにネクロフィリアでも負荷が大きい。
骸骨の肩がわずかに落ち、刹那の隙。
「そこだッ!」
イグフェリエルが渾身で槍を横薙ぎに振るう。
骨の胴に確かな手応えが走った。
だが骸骨は斬れた箇所を確認もせず、低い声を洩らした。
「……あぁ、残念だ。
その『死』も、吾輩は既に知っている」
反撃の鎌が闇の稲妻のように走った。
イグフェリエルは本能で槍を立ててガードした。
だが――衝撃が重い。
槍を通して肩が痺れ、地面を滑るように後退する。
「っ……く……」
その横を、エリザシュアがふわりと歩み出る。
魔力は尽きかけ、額に汗が滲む。
それでも微笑みは整っていた。
ネクロフィリアから、死の圧が爆ぜる。
イグフェリエルが槍を突き出して初撃を受け止め、エリザシュアが魔術で裂け目を埋める。
二人の連携は見事だったが――ネクロフィリアはそれを力でねじ伏せる。
骸骨が足を踏む。
大地が陥没する。
「―――骸録死因転写=狂死」
その一言とともに、大気が狂い、暴れまわるようにして、二人を襲う。
「きゃ……ッ!」
「ぐっ……!」
エリザシュアとイグフェリエルは同時に吹き飛ばされ、断崖絶壁の縁まで叩きつけられる。
視界が揺れ、呼吸が乱れ、それでも二人は岩盤を掴んで踏みとどまる。
断崖に舞う砂塵は、いまだ着地する場所さえ忘れたように宙を漂い続けていた。
風は嵐に似ていたが、温度も、湿度も、そもそも自然の揺らぎではなかった。
まるで――この地が、死の圧に怯えて震えているかのように。
地面に伏したエリザシュアとイグフェリエルの身体は、もはや形としての輪郭が危うい。
骨は砕け、魔力は尽き、魂の光すら薄れて……生者の領域からは、遠ざかりすぎていた。
その中を。
ネクロフィリア=シャリンハイムが歩む。
一歩、また一歩。
そのたびに、世界が嫌な軋みを訴えた。
陰鬱な粘度を持った漆黒が、足元から地面へ吸い込まれ、触れた草石は、生者の時間を奪われたように朽ち落ちる。
そして――エリザシュアらの落ちた地点へ辿りついた時。
影が覆う大地は、もはや棺のように冷たかった。
エリザシュアは動かず。
イグフェリエルは翼を損傷し、血溜まりの中。
その瞳はまだ燃えているが、生命の火種としては、あまりに弱い。
絶望は、すでに形になっていた。
それはこの場のすべてを、終わらせるための儀式めいていた。
ネクロフィリアはゆっくりと鎌を構える。
刃の両端が、冥府の冷気を震わせるように鳴いた。
そして――
まるで死刑宣告の続きを語るように、低く呟いた。
「……さらばだ、大魔女、救星神」
その刃が振り下ろされるより、ほんの心臓一拍ぶんだけ早く。
ふ、と。
弱々しいはずの魔女が――エリザシュアが微笑んだ。
崩れた頬に血が流れ、目も半ば閉じているというのに、
その笑みは、なぜか温かく、柔らかく、そして……どこまでも静かだった。
ネクロフィリアの動きがわずかに止まる。
その刃先から滴っていた死の因果が、一瞬だけ揺らいだ。
エリザシュアは、喉が詰まり切った声で、それでもはっきりと告げた。
「……修一くんのことは……貴方に託しましたよ……。
――ルナテミス様……」
その名を聞いた瞬間、ネクロフィリアの炎が大きく揺れた。
「……ルナテミス? 勇者ルナテミスは死んだはず――」
ゆっくりと振り返る。
次の瞬間――
斬撃が走る。
骨が割れ、躯が砕け飛ぶ。
そして、吹き飛びながら見た。
血煙の向こう。
そしてあるひとりの影が、静かに呟いた。
「……あぁ。託されたぞ、エリザシュア」
そこにいたのは――
◇ ◇ ◇
魔王は即死級の魔術を次々と繰り出す。
修一はそれを見切り、避け、避けられないものは《刹那反転・人戒書》で強引にコードを書き換える。
爆ぜる光。
爆裂の衝撃。
魔術陣の残滓が焼け焦げる匂い。
そして修一は闇夜の魔術を放ち、空間を漆黒に染めた。
闇に乗じて修一は、死角から刃を切りつける――
だが魔王はそれを、わずかな動作で受け止めた。
「そういえば」
魔王はふと思い出したように言う。
「以前の戦で、“創造主様の攻撃”しか、我に通らなかった理由……尊は見当がついておられるのですか?」
修一は即答した。
「あぁ。けどな、正確には“俺の攻撃しか”じゃない。
俺の双剣の片割れ――“白夜”だけが、お前に通っていたんだ」
魔王の瞳が細くなる。
修一は刃を絡めながら続けた。
「国王に言われて思い出したことだが……『白夜』というのは、勇者ルナテミスの剣の銘だったんだ。
そしてそこから導かれるに、お前は……」
その瞬間、魔王の口元に理解の笑みが浮かぶ。
修一は一気に言い切った。
「『魔王は勇者にしか倒されてはならない』……そういう理論を自らに構築したんじゃないのか?」
魔王は愉悦に染まった声で返す。
「ふっ、仮にそうだとして――今の尊が、我を討てますかな?」
修一は刃を押し返しながら吠えた。
「俺の右腕の刃『黄昏』には、『白夜』が混じってる!
それに、先代勇者である国王アルヴァレイン・セリューヌから型を叩き込まれた!」
その時だ。
修一の刃《黄昏》が、まるで意思を持ったかのように白光を放ち――
轟くような輝きが修一の腕を包み込む。
「――だから今の俺は、勇者と呼べるんじゃなかろうか」
白い閃光が爆ぜ、魔王の眼が大きく見開かれ――
修一の一閃が、魔王の身体を初めて、弾き飛ばした。
瓦礫と灰燼の匂いが、焼け落ちた魔王城の残骸を満たしていた。
その中心で、修一の身体は血に濡れ、呼吸のたびに喉の奥から鉄の味が上がる。
視界はゆらりと歪み、世界が千切れかけたフィルムのように揺れる。
修一は奥歯を噛み砕くほど強く噛みしめ、究極の構えへと身を起こした。
「……天命――絶光――交錯斬《リヴァース=――アーク=――オブリヴィオン》ッ!!」
叫びとともに放たれた光は、稲妻が束になって世界を裂くがごとく暴れ狂い、魔王へ向かう。
だが魔王ディアーナの瞳は微塵も揺れていない。
むしろ薄く笑い、漆黒の剣『極夜』を軽く掲げる。
「――|冥命歪創殲界斬《インヴァース=ジェネシス=カタストロフィ》」
呟きとともに、夜そのものが反転したような闇の奔流があふれ出る。
光と闇、双極が衝突した瞬間、大気が絶叫し、天地にひびが走る。
爆風は天をえぐり、魔王城の外壁は粉々に砕け、ただ滅びの協奏曲が奏でられていた。
どれほどの時間が過ぎたのか――
光と闇がようやく冷め、灰の吹雪が舞い降りたころ。
立っていたのは、魔王ディアーナただ一人だった。
その背後に迫る陽光さえ、彼の輪郭を避けるように歪んでいる。
修一は地面に伏し、血の水たまりの中でようやく息をしている。
対する魔王も満身創痍で、服は裂け、腕は震えている。
それでも、続く一歩ごとに絶対者としての気配が滲み出る。
「……あぁ、残念だよ。田島修一」
足元の瓦礫を踏み砕きながら、魔王は静かに笑う。
「僕如きを、倒せなかっただなんて」
『極夜』の刃を掲げ、冷たい矛先が修一の喉元へと落ちる影を描く。
振り下ろす直前、ディアーナは静かに別れを告げた。
「――さようなら。我らの創造主様」
刃が走り、風が裂ける。
その瞬間――
ガキィンッ!!
火花を散らす金属音が、崩壊した城の空洞に鋭く響き渡った。
修一は驚愕とともに顔を上げる。
視界は血で霞んでいる。
それでも、その背中だけは、間違えようがなかった。
焦げた風に揺れる、深い藍のマント。
灰まみれの中でなお、月光を宿したように清冽なラインがひらめく。
地面に食い込む鉄靴、肩から伝わる闘気、そして凛とした佇まい。
――この世界では、もう二度と見られないはずの姿。
刃を受け止めていたのは、一人の女。
真っ二つにされ、葬られたはずの勇者。
「……我は、月影白夜騎士団が筆頭――勇者、ルナテミスッ!!」
彼女は肩越しに、凛々しい月のような目を修一へ向け、笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、修一」
その声は、滅びかけた世界に差し込む、確かな生の輝きだった。




