第7話 夢、或いは現実
昼休み。街角の小さなうどん屋に、俺は後輩の佐藤くんと並んで腰を下ろしていた。
窓から差し込む光は淡く、白っぽく揺れている。外の喧騒が遠くに感じられ、店内のほのかな出汁の香りと水音だけが、静かに耳に届いた。
俺はビニール袋に入ったお手拭きを取り出し、顔に軽く押し当てる。
——昨日の夢が、まだ皮膚の奥に残っているようだ。
隣で佐藤くんは、いつも通りの元気な笑みを浮かべている。俺が沈黙している時間も、彼の存在は空気を少しだけ明るく震わせていた。
「いやー、そういえば今朝話してた田島さんが見たっていう夢の話の続き、聞かせてくださいよ!
自分が描いた、黒歴史漫画の世界に行ったとかなんとかのやつ……」
佐藤くんが興味津々に聞いてくる。彼は今回だけこんなにノリノリというわけではなく、どんなにつまらない話題でもいつもこんな調子だ。
本当に最高の後輩を持ったな、と感心しつつ彼へのアンサーを出す。
「……うん、それがね~」
と、昨日あったあまりに密度が大きく深海まで沈んでしまいそうな夢の話をする。
――懐かしい自分の漫画を拾ったと思ったら、白く光り、再び目を開けると、目の前には昔思い描いていた通りの勇者ルナテミスが。
そして、自分が漫画を描かなくなったせいで世界は終焉へと誘われていた。
んで色々あって終焉の穴の門番と戦い、戦況は劣勢になるも、俺がトラウマを克服することで、
「理論構築」とかいういかにも厨二チックな能力を手に入れ、勇者ルナテミスとともに撃破。――
はぁ。簡単にまとめるだけでも、とんでもない夢だった。
「……正直昨日の夢が壮絶すぎたせいか、眠気が全身に残ってるんだよね」
「よし! それなら僕が田島さんに元気をおすそ分けしますので安心してください! ははっははは!」
佐藤くんは目を輝かせ、屈託なく笑った。
俺はお手拭きで汗をぬぐい、視線を机の上の紙ナプキンに落とす。
夢の中での廃れた城下町や、終焉の穴の光景が、現実に溶けて浮かんでは消える。
――本当に、夢だったのか?
佐藤くんは自らのコップに注いだお冷を口にしながら聞いてくる。
「てゆーか、漫画家目指してたなら、昨日僕が『漫画家になりたい』っていう話をしてた時に教えてくれればよかったのに!」
俺は微かに笑い、手元のお手拭きをぎゅっと握る。
「……結局、夢破れちゃったんだ。だから言いづらかったんだよ」
胸の奥に、少し痛みを伴う後悔が膨らむ。
しばらく沈黙が流れ、佐藤くんは顔を輝かせて口を開いた。
「じゃあさ、僕たち二人で漫画家になりませんか!? 田島さんが絵とストーリー描いて、僕はアシスタント!」
思わず俺は吹き出した。
「いやいや、原作と漫画どっちもやらないのかい!」
笑いながら、でも心の奥では、胸のどこかが少し軽くなった気がした。
そのとき、うどんが運ばれてくる。湯気がふんわりと立ち、出汁の匂いが鼻をくすぐる。
俺は箸を手に取り、割りばしをカチリと割る音が小さく響いた。
「いただきます」
声に出すと、現実の世界に戻ってきた感覚と、夢の余韻が微妙に混ざり合う。
箸先でうどんをすくい、熱さを確かめながら口に運ぶ。柔らかくも弾力のある麺と、じんわりと広がる出汁の味が、身体の奥に微かな安堵を染み込ませる。
◇ ◇ ◇
うどん屋を出ると、午後の光はガラスの壁を何層にも反射し、ビル街全体が白くまぶしく霞んで見えた。
俺と佐藤は、いつものように世間話をしながら歩いていた。
仕事の愚痴と、佐藤くんのつまらないようで面白い世間話。麺の出汁の匂いがまだ指先に残っている。
そのときだった。
人の流れが、ふいに滞っていた。
前方に、黒い壁のような人だかり。スーツ姿の男たち、通学鞄を背負った学生、スマホを掲げて何かを撮る若い女性たち。
ざわめきが空気を揺らし、湿った息のような熱気が漂っていた。
「……なんですかね、あれ。撮影でも?」
隣の佐藤くんが呟く。
俺は返事もせず、ただそのざわめきに耳を澄ませた。
鼓動がひとつ、喉の奥で跳ねる。
――嫌な予感がした。
理由なんてない。ただ、皮膚の裏がざらつく。
首筋に冷たいものが這い、背中を汗が一筋伝い落ちていく。
あの群衆の奥には、認識してはならない存在がいる――そんな確信だけが、喉の奥に棘のように引っかかった。
「……ほら、さっさと戻るぞ」
声が自分のものじゃないように乾いていた。
歩幅を広げる俺の背に、佐藤くんが慌ててついてくる。
ざわつきの中から、風の音とも人の呻きともつかない、奇妙な音が追ってきた。
振り返る勇気だけが、どうしても出なかった。
知っている。
その瞬間、背後から、ありえない響きの声が届いた。
「——修一!」
知っていた。
足が止まる。空気が変わる。
振り返ると、人だかりの中央を割って、一人の女性が歩いてくる。
黄金に輝く髪が昼の光を跳ね返し、蒼い瞳がまっすぐ俺を射抜く。
現実には存在しないはずの、あの勇者ルナテミスが、現実の舗道を歩いていた。
心臓がひどく暴れる。指先の感覚が消えていく。
佐藤くんが耳元で小声で囁く。
「……も、もしかして、あのんでもなく美人な人、田島さんの恋人ですか!?
くぅ……! 僕という人がいながら!!」
俺は何も答えられない。声にならない息が喉を震わせるだけだった。
そしてルナテミスは人だかりを抜けて俺の前に立ち、まるで当たり前のように笑った。
「パパ! こんなところにいたのね」
彼女は最大限の愛くるしさを憑依させてそんなことを口にする。
世界が裏返る音がした。頭の奥で、何かが崩れる感覚。
俺は喉の奥から絞り出すように、意味のない言葉を吐きかけたが、声にならなかった。
涙が頬をつたう。止まらない。
(ルナテミス……!おのれ、許さん!許さんぞぉ!)
――そちが自分で「パパ」と呼べと言っていたではないか。
憎きルナテミスはおそらく、いや絶対にそんな挑戦的な顔で俺を見つめている。
横で佐藤くんが固まっていた。やがて彼の頬が引きつり、眼が泳ぐ。
「……田島さん、そんな、娘さんがいらっしゃったなんて……!」
彼は顔を赤くし、混乱したまま後ずさる。
「ち、違っ……!」
俺は反射的に、ルナテミスから視線を外した。
周囲の視線が肌に突き刺さる。
人だかりのざわめきは、いつの間にか俺ひとりに向けられた熱に変わっていた。
知らない。知らない。ここで認めたら終わりだ。
その一心で、俺は乾いた笑みを作った。
「……あの、どちら様、でしょうか?」
勇者ルナテミスは一瞬、首をかしげ、それから唇の端に薄い笑みを浮かべた。
その笑みは、剣より鋭い記憶の刃だった。
「我を忘れてしもうたのか……?
あの夜……、我にあんなことを言ったくせに…っ」
ざわ、と周囲が揺れる音がした。
スマホを構えた女子たちが小さく息を呑む。
佐藤くんが目を丸くして、俺と彼女を交互に見た。
――あぁ、確かに言ったよ! お前たちの世界を救うってさ!
俺が否定するより早く、佐藤くんは頭を抱えて走り出した。
「――僕、出直してきますので!」
彼の背中がビルの角に消える。
残された俺とルナテミスだけが、ビル街の光の中に取り残されていた。
人々のスマホのレンズがこちらを向き、ざわめきが波のように押し寄せる。
俺の心臓はまだ、夢の中のように狂ったリズムで打ち続けていた。
◇
人だかりとスマホのレンズから逃げるように、俺はルナテミスの手首をつかんだ。
「こっちだ」
ビルの間にある薄暗い路地裏へ、半ば引きずるように彼女を連れていく。
午後の光が届かないその場所は、昼間でも夜みたいに冷たい。
ゴミ袋の匂いと、排気の残り香。
現実の重さが、指先から伝わってくる。
俺は壁際で立ち止まり、反射的にルナテミスを壁に押し付けた。いわゆる壁ドンの格好になる。
「これはどういうことだ!」
声が勝手に荒くなる。
俺の両腕は震えていて、壁に当たった掌がじりじりと痛い。
ルナテミスは一瞬だけ目を見開き、それから逆に俺を射抜くように見返してきた。
「それは我が問うべきことだぞ、修一!」
蒼い瞳の光が、暗い路地の中でもなお鋭く煌めく。
「どういうこと……だ?」
俺は息を詰めた。
「そちが、我らの世界から消えたあと、最初に呼び寄せたときのように転移魔術を発動させ、すぐに連れ戻そうとしたのだ」
ルナテミスの声は淡々としているが、その奥には怒りがひそんでいた。
「だが媒介である『我の冒険が記されている伝記』の近くに誰もおらず、転移は発動しなかった。
あの紙束を介さなければ、我とそちは世界を渡れぬ。
何か不測の事態でも起こったのでは心配になって、我はこうして自ら此方の世界に赴いたというのに……そちは、……そちはっ!!」
俺の頭に、昨日まで夢だと思っていた記憶が一気に蘇る。
黒歴史の漫画、勇者、あの戦場の光景、世界を救うと誓った自分。
すべてが夢ではなく現実だったのだ、と脳が告げる。
現実の中で、夢の記憶が鮮明に重なり始める。
彼女の眉がひそめられる。
「そちはあの時、我と世界を救うと誓ったではないか。それをもう忘れたというのか」
怒りと、ほんのわずかな悲しみが混じった声だった。
俺は力が抜けて、壁ドンの姿勢のまま頭を下げる。
「ごめん……本当に、ごめん。あまりにいろんなことが一度に起きすぎて、理解が追いつかなくて。とりあえず日常に戻ることで、精一杯だったんだ」
ルナテミスは俺をじっと見つめていた。その眼差しに、かつての戦場の空気がよみがえる。
俺はその視線に射抜かれたまま、ようやく決意を絞り出す。
「……でも、わかった」
自分の口から出た声は、思っていたよりずっとかすれていた。喉の奥にひっかかるものを、無理やり吐き出すようにして続ける。
「夢だなんて思っていたけど、違った。あれは現実だった。俺が……俺はまた逃げようとしてた」
その言葉が口をつく瞬間、胸の奥で何かが砕けた。
そして砕けた破片のあいだから、熱が立ちのぼる。
小さな火種が心臓の奥に埋め込まれていたかのように、じりじりと、しかし確実に熱を増していく。
頭の奥に焼け付くような光景が連鎖的に蘇る──崩壊しかけた城下町の瓦礫、剣を構えて泣いていた兵士、そしてルナテミスが背中越しに見せたあの決意の瞳。
それらすべてが、まるで俺の血に混じって流れ込んでくる。
「今すぐにでも、世界を救いに行く」
言葉を吐き出すごとに、足元のアスファルトがやけに鮮明に見える。
手が震えるのは恐怖じゃない。たまっていたものが抜けて、代わりに何かが満ちていく感覚だ。
「もう一度、あの場所へ。もう一度、俺の力で」
ルナテミスは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目を細める。
その瞳の奥に渦巻く怒りが、ゆるやかに溶け、かすかな安堵の色が見えた──いや、俺が勝手にそう思いたいだけかもしれない。
それでも、俺は確かにそれを見た気がした。
路地裏の空気はまだ冷たい。
けれど胸の奥の熱が、冷たい外気とぶつかって、白い息となって溢れる。
冷たさの中に、奇妙な温かさが宿る。
背筋を這い上がるそれは、恐怖でも興奮でもなく、決意という名の熱だった。
もう逃げることはできない──いや、逃げる理由を自分で潰したのだ。
昨日までの俺は、夢のような現実から逃げて、灰色の日常にしがみついていた。
だが今、灰色の世界の中で、ようやく色が戻り始めている。
この胸の奥の熱こそ、あの世界の光だ。
──俺が、世界を救う。
その覚悟は、静かな炎のように、俺の全身を包み込み、冷たい路地裏を照らしていた。
「……申し訳ないが、そちに伝えなきゃならんことがある」
彼女の口から落ちた言葉は、俺の頭が追いつかなかった。
「度重なる転移で、我の魔力は今、ほとんど枯渇している。あと数時間は、回復に時間がかかるだろう」
勇者がそう呟いたとき、その横顔には初めて見る疲れがあった。
頬を伝う一筋の汗、かすかに色を失った唇、胸の奥でゆっくり整えられる呼吸。
あの世界で神話のように剣を振るっていた彼女が、今はただの「女の子」として息をしている。
そのことが、俺には妙にこたえた。
「まじか……」
でも内心では、「そりゃそうか」と納得していた。
小さく呟いた声は、路地裏のコンクリに吸い込まれていく。
彼女が立ち尽くす姿が、逆光の中でやけに儚く見えた。
「じゃあ、待とう」
俺は自分でも驚くくらい、素直にそう言っていた。
「せっかくだし、こっちの世界を見せてやるよ。少し楽しんでいけ」
◇ ◇ ◇
街の空気は、いつものように乾いていて、そして騒がしい。
ガラス張りのビル群のあいだから風が吹き抜け、電光掲示板の文字列が光を散らす。
横断歩道の白線に沿って人波が行き交う。
流れるBGM、甘い匂い、フライヤーを配る手。
勇者ルナテミスはすべてを初めて見る生き物のように目を丸くしていた。
彼女の視線の先に、剣も魔術もない「別の戦場」が広がっている。
俺は彼女の腕を軽く引いて、ショッピングモールの回転扉を押した。
クーラーの風が二人を包み込み、外界の熱と騒音が一気に遠のく。
エスカレーターから流れてくるポップな音楽、化粧品の甘い匂い、ガラスに反射する光。
現代のこの空間は、俺にとって「ただの日常」だが、彼女には「未知の迷宮」に映っているらしい。
「まずは、その格好だな」
俺は彼女のマントを見てため息をつく。
フードの縁に刺繍された古代文字、膝まで垂れる布、銀色の留め具。
「どう考えても目立ちすぎ」
勇者は眉をひそめ、まるで敵陣にひとりで突入する前みたいな顔で辺りを見回す。
剣を持たない手は、微妙に落ち着かない動きをしている。
「こっちだ」
俺は手近なセレクトショップの扉を押した。
店内は白を基調とした柔らかい照明に満ちていて、ハンガーにかかった服が静かに揺れている。
鏡の向こうで別の世界の自分がこちらを覗き込むような、不思議な空間だ。
「すみません、彼女に似合う服を見繕ってもらえますか。予算は気にしなくて大丈夫です」
仕事ばかりの生活だから貯金はたらふくある。
スタッフはにこやかに「はい」と言い、視線を勇者に向けると、ほんの一瞬「コスプレ……?」と眉を上げた。
ルナテミスは背筋をぴんと伸ばし、店員さんの力量を測っている。
俺は笑って肩をすくめた。
──俺は、彼女のこういう表情を見るためにここへ来たのだ。
あの物語の中で戦いばかりに明け暮れさせた彼女に、世界がどれだけ娯楽に満ちているかを見せてやりたかった。
服、食べ物、色、匂い、光──あの世界には存在しないものを、彼女に浴びせるように。
その想いが俺を、半ば衝動的にここまで連れてきた。
欲を言えば、自分が生み出したキャラクター全員にも、いつか同じものを見せてやりたい。でもそれは、まだ遠い未来のことだろう。
ルナテミスは、試着室の奥へと消えていった。
その背中が、あのとき見た姿とは異なって、何だか頼りなかった。
店内のBGMが流れる中、俺はふと壁の時計に目をやる。
彼女の魔力が回復するまで、あと数時間。
この数時間が、彼女にとって、そして俺にとってどんな意味を持つのか。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
「お客様」
奥から店員が小走りにやって来て、俺に声をかけた。
「着付けが終わりましたので、ご確認ください」
俺は返事もそこそこに歩き出す。
──これが、彼女にとって初めての「平和な時間」だ。
そして俺にとっても、たぶん初めての「世界を救わない時間」だ。
その扉の先に何があるのか、胸の奥で微かな期待が膨らんでいた。




