第64話 死に近づいた彼
「……さ、ちゃんとついてきてくださいっすよ?」
その声が鳴り響くと共にザルギエスは、ひとりひとりを確実に怯ませ、崩してゆく。
血が舞い、苦鳴が散り、第三冥府の空が嗤う。
こうして戦況は、完全にひっくり返った。
だが。
イグフェリエルは歯を食いしばり、ふらつく膝を必死で支えながら天へと腕を掲げた。
「……まだ、終わらぬッ!」
雲海の奥で燐光が脈動し、聖槍の嵐が再び形を成す。
次の瞬間、矢継ぎ早に放たれた槍が、ザルギエスへと降り注ぐ――。
どういうわけか、彼は避ける気配すら見せない。
そうして。
ズシャッ ズブブブッ……!
その身体に十数本が突き刺さる。
しかし。
「あら、よっと!」
ザルギエスはまるで、服の裾についた埃でも払うかのように、最後の一本だけを軽やかに避け、胸に刺さった槍を抜きながら笑った。
「いやぁ、危ない危ない。
あえて攻撃を受けて『死』に近づこうとは思ったんすけど、あと一本刺さってたら……ちとまずかったっすね!」
ぞわり、と。
イグフェリエルの瞳に、殺意の色が重く落ちる。
「……ならばあと一本、射するまでだッ!」
彼女は両手を前に出し、新たな聖槍群を創造する。
今度の槍は、追尾の性質を併せ持ち、縦横無尽な軌跡でザルギエスを追う。
「うおっと!? ちょ、ちょっと多すぎっす!?」
ザルギエスはすたこら逃げ惑い、冥府の岩場を転々と跳躍し――
突然、身体が消えたように加速した。
「ま、今のボクちゃんの速度なら、どうってことないっすけど」
一瞬でイグフェリエルの目の前に。
笑顔のまま、膝蹴りを突き上げる。
――ドガァッ!!!
イグフェリエルの細身が吹き飛び、草が芽生えようとするこの大地を、何度も跳ねて転がる。
ザルギエスは次の標的を探すように首を巡らせ――
ふと、自分の足元に不自然な影が落ちているのに気づいた。
「……ん?」
見上げると、そこには竜と化したシャーリア。
その喉奥に蒼紫がうねり、今にも爆ぜんとする。
そして――
ゴォオオオオォォッ!!!
炎が大地を焼き、ザルギエスを包む。
「シャーリアさんでしたっけ? ごめんっすけど、今更その程度の炎、ボクちゃんには効かな――」
その台詞を最後まで言わせず、シャーリアが、信頼する仲間に向けて叫んだ。
「グラウスちゃんっ!!」
ザルギエスの表情が一瞬で変わる。
意図を悟り、反射的に背後へ振り向く。
そこには――
炎に焼かれながらも、一歩、一歩と確実に踏み込む老戦騎士の影。
皮膚は焼け、衣服は焦げ爛れ、だが――
その手の大剣だけは、焔を食うほど紅く光っていた。
この炎は殺傷のためではなく、煙幕の目眩ましとして、放ったものだったのだ。
「……ウオオォッ!!」
グラウスの咆哮と共に振り下ろされた一撃は、
重力すら割るかのような威力でザルギエスの胸を断ち――
ドゴォォッ!!
ザルギエスの身体が宙へと吹き飛んだ。
地面へ叩きつけられ、胸部には裂け目のような深手が刻まれる。
「……い、いやぁ、ボクちゃんは大丈夫だけど……。
普通の人間なら、あの炎はかなり堪えると思うんすけどねぇ。
あのおじさん、大丈夫かなー……」
軽口を叩くが、声には微妙に震えがあった。
そのとき――。
地響き。
冥府の広大な地面がぐらりと揺れ、裂ける。
ザルギエスは前方に視線を向けた。
そこには、全身に傷を負いながらも魔術を編み上げているエリザシュアの姿。
彼女の周囲の大地が渦を巻き、空間がめくれ、重力がねじれはじめる。
「……これは……?」
ザルギエス視界が、昼から夜へと急降下したように――闇へと閉じていく。
大地そのものが巻き取られ、丸められ、圧縮されていく。
ザルギエスの身体は逃げる間もなく、その大地で造られた、球状の闇へ押し込まれる。
エリザシュアの声が、低く、冥府全体に響いた。
「――惑星型封印魔術。
広大な大地……すべてを、貴方を包む『檻』に変えました」
闇の球体――惑星型封印魔術は、冥府全土の大地を巻き取り圧縮したものであり、
惑星の名に恥じぬ、質量を誇っていた。
ひとたび押し潰されれば、肉体はミンチどころか存在ごと歪みに沈む。
エリザシュアの胸の奥では、祈りとも懺悔ともつかぬ声が震えていた。
(……お願いです。どうか……どうか、このまま息絶えてくださいませ……)
指先は冷たく、全身ががくりと揺れる。
だが――。
――バキ……ッ バギィィィィッ!!!
封印された惑星が、内側から砕けた。
破片が冥府の空へと弾け飛び、中心から狂気じみた笑い声があふれ出す。
「あっはははっはははッ!!
いやぁ、流石、世界を救おうとしてるだけはあるっすね――皆さん!」
粉塵の中から現れたザルギエスは、胸に深い裂傷を抱え、身体が所々潰されながらも、不敵な笑みを浮かべていた。
その傷は、むしろ生を喜ぶかのように脈打ち、身体能力を何段にも引き上げている。
「でも、四人がかりってのはさすがに、ズルくないっすか?」
――そしてその瞬間、彼は低く、禍々しく、何かの詠唱を始めた。
『――骸界よ聞け。
死灯の揺らぎ、骨鳴りの脈をいま此処へ』
嫌な予感を感じ取り、エリザシュアは叫ぶ。
「っ……|時空凍結症候《クロノ・フリーズ=シンドローム》!!」
時が砕けるような音が響き、彼女を中心に時間が凍りつく。
イグフェリエルやシャーリア、そしてグラウスも先ほどと同じようにして、行動が可能だ。
「皆様、なんとしてでもザルギエスを阻止し――!」
仲間に向けて放ったその言葉は、途中で止まる。
――パキィィンッ!
どういう訳か、時が……熔けたのだ。
凍っていたはずの時間が、春の雪のようにさらりと溶け落ちる。
続いたのは、どこか舌ったらずで、しかし妙に艶のある声。
「あっひひ! う~ん!
やっぱりさ、時が凍る感覚っていうのは、さいっこうに気持ちいいね、エリザシュアちゃーん!」
どこからともなく現れたのは――
先ほどまで、味方として共にいた断罪の四骸、ルシモディアだった。
彼女もまた、ザルギエスに連なるようにして、詠唱を始める。
『――灰は灰へ、骨は骨へ。
いま再び、断罪の巡礼を始めん』
グラウスは怒号と共にザルギエスへと斬撃を放つ。
だが――その刃が触れるより先に、低い男の声が冥府に満ちた。
「……そうだな。
その見事までの斬撃の死因は、爆死にしようではないか。
――骸録死因転写=爆死」
ボンッ!!!!
斬撃は触れることなく爆ぜ、風圧で霧散する。
灰の向こうから歩み出たのは、骨を軋ませるような存在感の死神――。
断罪の四骸 ネクロフィリア=シャリンハイム。
彼も、静かに、冷たく詠唱を紡ぐ。
『聞き届けよ、地獄層に沈む朽滅の眷属ども。
集え、万骸の戒律よ』
さらに――。
竜のシャーリアが咆哮し、爪を振りかざすが、足首が何者かに強く引かれた。
「足が……!」
足元には、地面から湧き出した夥しい死霊群が絡みついていた。
腐臭混じりの手が幾十もシャーリアの脚を掴み、地へと引きずり戻す。
その様を眺め、上品な少女の声が響いた。
「ここには……たくさんの死骸が眠っておりますゆえ。
死霊の量産には、まこと事欠きませんね」
白い脚をゆっくりと組み直しながら、闇から姿を現したのは、
断罪の四骸 ヴァルティーア=シャリンハイム。
その双眸は、少女のような幼さと、死を感じるまでの冷たさが同居していた。
そして、彼女は堂々と名乗りを上げる。
「麿は――断罪の四骸、ヴァルティーア=シャリンハイム。
死神ネクロフィリアの娘にして……魔王軍副官に候う」
続いて、ルシモディアが小躍りしながら言う。
「えぇっと、あーみゅは、断罪の四骸、ルシモディア=フォーリンメイソンだゾ~!
楽しいことしか興味ないんで、改めてそこんとこよろしくネぃ!」
ネクロフィリアは死の気配をまとって言い放つ。
「断罪の四骸、ネクロフィリア=シャリンハイム。
死にたくば――いつでも吾輩の前に来るがよい」
そして最後に、ザルギエスが、余裕の表情で締める。
「皆さん、もう知ってると思うっすけど、
ボクちゃんは――断罪の四骸、ザルギエス=ネメリアっす!」
四つの骸が並び、冥府の風すら息を呑む。
「……とまぁ、こんな感じで」
四人の声が重なり――。
「「「「――断罪の四骸、ここに在りッ!!!」」」」
冥府の空が震えた。
エリザシュアたちの背筋には、凍えるほどの絶望が走った。
◇ ◇ ◇
――深海。
終焉の穴が生む、無限渦のただ底。
存在そのものを削り取る波圧の中で、田島修一は静かに座禅を組んでいた。
思念すら澄ませば砕ける空間で、彼だけが平然と呼吸している。
失われたはずの右腕の部分には、“何か”が芽吹き、脈動していた。
周囲には、息絶えた得体の知れぬ生物たちが、層となって沈んでいる。
修一はそっと目を開き、ひと呼吸。
「……そろそろ行くか」
その一声だけが、深海の死を押し返すように澄んでいた。




