第63話 勝利こそが、すべて
少しの間、歩を進めると、ようやく光が見え、第三冥府の世界へと辿り着く。
その先に広がるのは、青霧に包まれた荒野。
緑がかすかに生え、古びた遺跡がぽつぽつと立ち並び、遠くには崖と滝、そして巨大な世界樹が見える。
そして――エリザシュアたちの前には、見知った姿があり、その者は、聞きなれた軽薄な声を発する。
「いやぁ、遅かったですねぇ?
世界の危機だっていうのに、キャバクラで働いたり、アイドルになったり、随分とまぁ、悠長に過ごしてましたねぇ」
そこに立っていたのは――断罪の四骸のひとり、ザルギエス。
にやりと唇を裂き、四本の腕を十字に広げて、まるで舞台の幕が上がるのを待ち構える悪魔のように――エリザシュアたちを待ち受けていた。
エリザシュアたちは皆、攻撃の体制へと体を構え、目線を一ミリたりとも、ザルギエスから離さない。
一挙手一投足を見逃さないようにして。
蒼白い大地が、ふいに呼吸を呑んだように静まりかえる。
その沈黙を破ったのは――ザルギエスの、あまりにも間の抜けた悲鳴だった。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいっすよ!! まだ、この――【第三冥府】の解説が済んでないんっすから!!」
四本の腕を必死に前へ突き出し、まるで迫り来る刃を止めようとでもするかのよう。
だが、エリザシュアも、イグフェリエルも、グラウスも、そしてシャーリアでさえ、誰一人として警戒を緩めてはいない。
ひとたび動けば血が噴く。
そんな空気が、肌へ重くへばりつく。
その中で──ただ一人、イグフェリエルだけが声を震わせず言う。
「……ならば、申せ。
この【第三冥府】の在り方を、今ここで話してみせよ。断罪の四骸ザルギエス=ネメリア」
イグフェリエルの声音は刃。
その刃を受け止めるというのに、ザルギエスは軽く肩をすくめ、明らかに楽しげに笑う。
「いいでしょう。
この冥府の支配者として、語らせていただきます。
って言っても、語るほど難しくはないんっすけど」
四本の腕のうち、一つが誇らしげに空を示す。
「まず大事なこととして――この冥府での通貨は、『勝利』っす。
ここでは、つまり倒すこと殺すことが、稼ぐことと同義なんっす」
虚ろな風がざらりと彼女らの脛を舐める。
ザルギエスは愉快げに続けた。
「倒した相手が強ければ強いほど、自分にポイントが加算される……
ね、シンプルっしょ?」
その説明の途中、エリザシュアがひそやかな眉を潜めた。
「……ならば、この冥府の地には、何人たりとも生命の気配が感じられないのは、如何なる理由なのでしょうか?」
エリザシュアの問いは、最もだった。
この広大な大地に、生命体がどこを見渡してもいない、感じられないのだ。
そしてザルギエスは、待ってましたと言わんばかりに笑顔を花開かせた。
「おぉ! いいところに気がつきましたね、エリザシュアちゃん!
もとは、この冥府にも生活してた奴らがいたんすよ。
でも――」
そして、快晴のような声で。
「ボクちゃんが全員殺しちゃいました!」
瞬間、空気がひび割れるように緊張が跳ねた。
エリザシュアは無意識に一歩引きそうになり、イグフェリエルは指先から神光をにじませ、グラウスの握る柄がわずかに軋む。
だがザルギエスは、そんな殺気すらご褒美のように受け止めていた。
「いやいや、ボクちゃんを責めないでくださいよ?
この冥府って、通貨からもわかる通り……“殺し合いが大好きな血気盛んな連中”のために創った場所なんっすよ。
つまりつまり、殺し合いも――同意、ってわけっす」
シャーリアがぽかんと口を開く。
「じゃ、じゃあ、おらたちは……どうやって魔王城へ行けばいいゆら!?
倒して、『勝利』できる相手なんて、今、目の前に居る、あのいやらしい目つきの人しか――……あっ」
視線を向けられたザルギエスは、四本の腕で頭をぼりぼりかきながら照れたように笑う。
「もぉう、“いやらしい”はやめてほしいっすよぉ。
……でも、いいこと言いましたね」
その声色が、急激に冷たく、鋭く変わった。
「そう。皆さんが地獄の扉を開けて、魔王城へ行くには――」
くちびるが、歪んだ笑みを描く。
「――ボクちゃんを倒すしかないことっすよ」
ぶわり、と。
大地全体が総毛立つような“殺気”が吹き荒れた。
ザルギエスから溢れ出たそれは、血の匂いすら伴って、周囲の霧を赤黒く染めるほど。
エリザシュアは喉を震わせかけたが、すぐに顎を引き、視線を真っ直ぐに標的へと定める。
逃げぬ。揺れぬ。怯まぬ。
その気迫を、周囲の仲間は感じ、同調する。
グラウスは嘲るように鼻で笑った。
「ふっ……やはり結局、こうなるのではないか」
ザルギエスが軽く肩を回し、悪戯を仕掛ける子どものように笑った瞬間――
パチン。
乾いた指パッチンが響いた。
次の瞬間、エリザシュア、イグフェリエル、そして仲間たちの首元で光が弾け、
行動を制限されていた首輪が、一斉に外れた。
「さあっ! どこからでも来てくださいっす!
必ず――殺してあげますからッ!!」
第三冥府の空が、裂ける。
地が呻き、風が尖る。
カラン――。
首輪が地面へ触れた、わずかな金属音。
その冷たく澄んだ音こそが、戦いの始まりを告げる。
エリザシュアの唇が、静謐な刃のような弧を描いた。
「……その言葉、後悔しないでくださいよ――」
そして彼女の指先が弾けるように宙をなぞり、呪詛めいた詠唱が落ちる。
「|時空凍結症候《クロノ・フリーズ=シンドローム》」
瞬間。
世界が、凍りついた。
一切の出し惜しみなどない。
始まりから、究極を放つ。
風の流れが途中で止まり、砂粒は宙に吊られ、ザルギエスの殺気の雫すら、軌道を失う。
そして。
その止まった世界で、エリザシュアだけでなく、イグフェリエルたちも行動を可能としていた。
イグフェリエルの瞳が大きく見開かれる。
「……! これが、凍結された時の内側か……!?」
彼女は手を握り開き、感覚を確かめる。
グラウスは自らの影が揺れぬことに眉を寄せ、シャーリアは猫の尾を、ぶんぶん振って驚愕していた。
エリザシュアは胸元を押さえ、少し身をよじらせるようにして説明する。
「……えぇ、わてちしだけでなく、皆さんがこの時の中で行動できるようにしました。
そのせいで……かなり精密な魔力操作を、要求されておりますが……っ」
わずかに息を荒げながらも、視線はひたすら敵へ。
ザルギエスの四腕は、空中で見事に固まったまま。
「世界の終焉は、近い……。
一刻も早くザルギエスを倒し、修一くんと合流して魔王のもとへ向かいましょう。
……彼に手加減は不要です。
むしろ手加減し、仕留め損ねれば――彼の能力が発動し、形勢逆転も容易いでしょう」
そこで微笑むのではなく、闘気を灯して叫ぶ。
「だから――やっちゃってくださいッ!」
言葉は刃の合図。
イグフェリエルは静かに、だが確かな頷きを返し、
「簡易天界――起動ッ!」
とそう叫ぶ。
頭上に雲が巻き、天を裂くがごとく聖光が漏れ、千万の聖槍が彼らの敵へと照準を合わせた。
グラウスは背中の剣を引き抜いた瞬間、武器が金属音と共に巨大化し、大剣へと変形する。
シャーリアは全身が膨れ、骨がきしみ、竜へと変態する。
炎が舌を打つように吐き出される。
イグフェリエルが天へと掌を翳す。
そして、一斉に――。
「――蒼裂嶽ッ!!」
「がおぉぉぉおおおッ!!」
「――《光奏天譜》!!」
蒼の斬撃。竜の獄炎。天の讃歌。
それらすべてが合わさり、凍った世界をぶち抜くようにしてザルギエスへ殺到する。
直撃の瞬間。
エリザシュアの魔術が、悲鳴のように軋んだ。
「くっ……維持が……っ!」
パキン――!
世界の氷が砕け、凍結が解除される。
自身だけではなく、周囲の仲間も行動を可能としたことで、いともたやすく崩れる。
轟音が現実に追いつき、爆風が大地を啼かせた。
イグフェリエルたちは“確かな手ごたえ”を感じ、勝利を確信しかける。
だが。
焼き爛れた顔をゆっくりと上げ、ザルギエスは笑っていた。
血と焼け焦げが混じり、骨の白さすら見えているのに。
「あらら~……せっかくボクちゃんを殺せるチャンス、あげたっていうのに。
ダメじゃないっすか。ボクちゃんを『死』に近づけちゃあ。」
エリザシュアの背筋を焦燥が走る。
(……攻撃は、悪くなかった。
でも結果として彼を――“強化”してしまった。
――『死』に近づくほど身体能力が跳ね上がる、ザルギエスを!)
ザルギエスは目元だけで笑い、
「……さ、ちゃんとついてきてくださいっすよ?」
瞬間、消えた。
次に現れたのは――グラウスの背後。
「……ッ!?」
肩を、トン、トン──と。
場違いなほど軽い、まるで冗談のようなノックだった。
グラウスがわずかに眉を寄せ、振り返る。
その瞬間、視界いっぱいに広がったのは、四本の腕。
空気を裂きながら同時に振り下ろされる、その速度はもはや“速い”という概念の領域を超えていた。
強化された動きに、老練の武人ですら追いつけない。
「……ッ!」
ゴボキッ──!
嫌な音が、世界の芯まで届いた。
頭蓋の砕ける濁った破砕音。
拳の衝撃が首を通り、背骨へと響き抜け、グラウスの巨躯が宙に浮く。
地面に叩きつけられた瞬間、遅れて大地が震え、細かい砂が弾け飛ぶ。
しかしザルギエスの四本腕は、まだ止まらない。
むしろ、これからが本番だと言わんばかりに躍動を増す。
まず、エリザシュアへ。
彼女が振り向く間すら与えず、腹部へ鋭い貫手が突き刺さる。
「っ──!」
柔らかな腹筋を貫く手刀。
布が裂け、白磁の肌が陥没する。
息が詰まり、喉奥からひゅ、と乾いた声が漏れた。
衝撃でその身体がたわみ、端然とした優雅さが一瞬で崩れ落ちる。
同時に、別の腕がイグフェリエルの顎を正確にとらえる。
下から跳ね上げるような一撃。
ガンッ!
神性すら歪むほどの衝撃が走り、イグフェリエルの頭が後方へ弾かれる。
視界が白く飛び、唇から光の粒が零れる。
首筋がひしゃげるような痛みに、彼女の膝がわずかに沈む。
だが、ザルギエスはそこにも留まらない。
竜化したシャーリアへ向かうと、まるで獲物の骨格を熟知しているかのような精密さで、一本の腕を振り抜いた。
バチィッ!
人間でいえばみぞおちの部分──。
そこを正確に打ち抜かれた衝撃に、シャーリアの巨体がたわみ、力が緩んでいく。
「にゃ──っ!?」
竜の喉から悲鳴とも咆哮ともつかぬ声が漏れ、羽ばたきが乱れ、翼膜が震える。
ザルギエスの動きは滑らかで、無駄がひとつもない。
まるで命を解体する工程を知り尽くした職人のように──。
ひとり、またひとりと確実に、急所だけを狙い撃ち、倒してゆく。
血が舞い、苦鳴が散り、第三冥府の空が嗤う。
こうして戦況は、完全にひっくり返った。




