第62話 ただひとりの少女として
闇がざわめいた。
黒煙のような影が渦を巻き、ゆっくりと、その中心からそれが姿を現す。
闇を纏い、巨体を為す――死者の女王、ヴァルティーア=シャリンハイム。
その双眸は血のように赤く、床を踏むたびに闇が波打った。
「遅かったな、神代の巫女よ」
その声音は低く湿っており、底に無数の死霊の囁きが潜むようだった。
「……へぇ、辿り着いたのはお前だけか、イグフェリエル=テラ=オルディア?」
対する霊掃隊の巫女――イグフェリエル=テラ=オルディアは、震える指で柄を握り締める。
恐怖を押し殺し、唇を結び、声を張り上げた。
「……か、観念しろ、死者の女王ヴァルティーアよ! ここで今、貴様の怨念すべてを祓う!」
その宣言を聞いた途端、ヴァルティーアの口が裂けるように開いた。
――異様な、笑み。
狂気そのもの。
「やってみろよぉぉおおおッ!! イグフェリエル=テラ=オルディアぁぁぁッ!!!」
次の瞬間、画面の向こうの視聴者の、グラスを割るような勢いの咆哮。
イグフェリエルは光を纏った薙刀を構え、飛び込む。
閃光が闇を切り裂き、聖なる残光が空間を照らす。
だがヴァルティーアはそのすべてを、笑いながら受け止めていた。
「うりゃァッ! どうした、巫女様ぁぁァッ! その程度かよぉッ!?!?」
「ぐぅっ――!」
女王の闇を纏った拳が、イグフェリエルの腹を貫き、床に叩きつける。
薙刀が転がり、光が弾ける。
その光景を視聴していた、コメント欄が爆発した。
『今日のヴァルちゃん……口悪すぎて草』
『お、おしとやかキャラどこいった!?』
数発目の打撃のあと、ヴァルティーアがふと我に返った。
ゆっくりと、カメラへ向き直る。
「あ、リスナーの皆さんに言っておきますがっ♡
今の麿は、あくまで“死者の女王”を演じているだけで、この口調は元来のものなどでは――断じてございませんので!」
満面の笑顔。
口元は引き攣っている。
『あ〜やっぱ演技かぁ!』
『よかった、ヴァルちゃんはやっぱ天使なんだね♡』
「あとこの勝負の結末は、皆さんの応援によって変わります!
応援は、お手元のリモコンのFボタンで出来ますのでっ、麿を応援してくださいねぇ♡」
一方、映像が切り替わり、ボロボロのイグフェリエルが映る。
彼女の衣は破れ、顔には煤がこびりついていた。
『かっこわる……』
『イグなんとかさん弱すぎw』
『人気』のゲージが、目に見えて下降していく。
数値の冷たさが、現実のように突き刺さる。
ヴァルティーアの闇より濃い巨大な手が、イグフェリエルを掴み上げる。
「なぁ、イグフェリエル。
お前は――どうしてそこまでして世界を救いたいんだ?」
イグフェリエルは息を荒げながら答える。
「……貴様を祓い、死霊がこれ以上溢れない世界に――」
しかしその言葉は、ヴァルティーアの低い唸りで遮られた。
「ちげぇ、そっちじゃねぇ」
闇の奥に宿る双眸が、鋭く光る。
「名無しちゃんが聞いてんのは、“救星神”イグフェリエル=テラ=オルディアだ」
その一言に、コメントが一斉に爆発した。
『は!?!? やっぱイグフェリエルって救星神なの!?』
『ガチかよ』
ヴァルティーアは静かに続けた。
「お前らは今、何とかして魔王様を倒して、終焉の穴を塞ぎ世界を救おうとしている。そうだな?
名無しちゃんが聞きたいのはさ――お前は何のために世界を救おうとしているのか、だ」
闇の圧がさらに増す。
「なぁ、イグフェリエル。お前は世界を救って……何がしたいんだ?」
唸るような声。
イグフェリエルは息を荒げながらも答えを絞り出した。
「こ、此方は……救星神として……今まで虐げられてきた者たちの、希望になりたい!」
だがその瞬間、ヴァルティーアの瞳が細くなり、獣のように光った。
「――欺瞞だな」
そう言い放つと同時に、イグフェリエルの体を壁へと叩きつけた。
轟音。粉塵。飛び散る血。
イグフェリエルの体はずたずたに裂け、壁のひび割れと共にずるりと崩れ落ちた。
瓦礫と闇の中、ヴァルティーアは獣のような眼光で、血を吐くように問いかけた。
「救星神。お前にもう一度だけ、チャンスをくれてやる。
なぁ、イグフェリエル=テラ=オルディア。
――お前は“世界を救って”、本当は何がしたいんだ?」
その声は蔑みと憐れみが混じり、凍てつく夜風のように冷たかった。
イグフェリエルは血を吐きながらも、震える足を地に踏みしめる。
崩れた衣の裾を握りしめ、必死に立ち上がった。
(……欺瞞? 此方のこの願いが、欺瞞だというのか?)
胸の奥で、古びた記憶がゆっくりと甦る。
◇
此方がまだ、成人にも満たぬ頃――天への祈りが届き、天が開き、白翼の天使が舞い降りた。
『汝、救星神認定選抜試験への参加資格を得たり』
あの言葉を聞いたとき、父様と抱き合い、夜が明けるまで喜び合った。
そして研鑽を積み、やがて救星神となり、世界の希望として在り続けた。
――だが。
“創造主”を名乗るあの存在が現れ、あの遺跡での忌まわしき惨劇を、幾万年に渡り繰り返させられた。
信仰は歪み、心は朽ちた。
希望は塵となり、絶望だけが残った。
それでも修一様に救われた。
再び光を信じ、笑うことを覚えた。
だから此方は、皆の希望になりたい――そう思っていた。
◇
けれど、今、ヴァルティーアの言葉が胸に刺さる。
(……おかしい。確かに、おかしい。
頑張って、頑張って、苦しんだくせして。その果てにまた希望を説くなど――欺瞞以外の何ものでもない)
イグフェリエルはゆっくりと顔を上げる。
唇は血に濡れていたが、その目はまっすぐだった。
「……確かに、あんなものは欺瞞に過ぎない。
だって此方の“本当の気持ち”は、救星神としてではなく――」
一拍の沈黙。
そして、彼女は静かに、自らの本当の気持ちを言った。
「――ただひとりの少女として、普通に生きてみたいのですから……」
その告白に、ヴァルティーアは息を呑み、視聴者のコメント欄が一瞬止まる。
カメラの向こうでは、スタッフも、ネクロフィリアでさえも固唾を呑んでいた。
けれど、イグフェリエルはもう止まらなかった。
救星神としての高潔さなんて投げ捨て、ありのままを語る。
「あぁ、もう全部言ってやる……。
此方は正直――キャバクラやアイドルで働くのが、楽しかったんですよ!
世界が終焉間近だというのに、最低だと分かっています!
だけど、あの時間は……失われた“少女”としての瞬間を、もう一度生きられたようで、幸せでした……!」
彼女の声は泣き笑いのように震えていた。
「だからもし、世界を救えたのなら、此方は――普通の少女としての時間を、大切にしたい。
……それに、恋だってしてみたい!
だって、2万歳を優に超えているのにも関わらず、恋愛経験がないんですよっ、此方は!」
その瞬間、闇で張りつめていた空気が、一気に張り裂ける。ヴァルティーアが腹を押さえて吹き出す。
「……っぷ! キャシャシャシャッ!
アイドルのくせして、熱愛宣言かよ! そんなんで『人気』なんてもんは――」
だが言葉は途中で途切れた。
視線の先、イグフェリエルの『人気』ゲージが――爆発的に上昇していたのだ。
コメントが奔流のように流れる。
『今まで苦しんできたんだね』
『アイドルが、そこまで赤裸々に自身の本音を言えるなんて初めて見たわ!』
『応援します』
光のようなエフェクトが画面を覆い、Fボタンの応援アイコンが連打され続ける。
――イグフェリエルの、心の底から溢れてきた想いに、視聴者は共感されたのだ。
ヴァルティーアは呆然と立ち尽くす。
イグフェリエルは薙刀を拾い上げ、血に濡れた手で強く握りしめた。
そして、思い出したかのように、巫女と死霊が戦う世界に、意識を戻す。
「――だから、此方は貴様を祓って、世界を救わせてもらうぞ!
死者の女王、ヴァルティーア=シャリンハイム!」
彼女の声が響いた瞬間、薙刀が眩い光を放ち、闇を裂いた。
その一喝が空気を震わせた瞬間、イグフェリエルの薙刀は、夜明けそのものの光を噴き上げた。
屋敷の闇という闇を、ひと息で押し返すほどの強烈な輝き。
闇が悲鳴を上げる。
ヴァルティーアの影の腕――太く、細く、いびつに捻れた無数の“死の触手”が、
床を這い、壁を侵し、天井から垂れ下がり、
一斉にイグフェリエルへ襲いかかった。
その光景は、まるで屋敷全体が彼女ひとりを呑み込もうと蠢いているかのようだった。
「っ……!」
しかし、イグフェリエルは怯まない。
白い息をひとつ吐くと、
舞うように後ろへ、前へ、横へ――正確無比な軌跡で避け切る。
影の爪が頬をかすめ、風の刃となって肌を切り裂く。
スカートが裂け、袖が飛び、髪がふわりと散らされる。
それでも彼女の眼光は、揺るがない。
「――祈りは、此方と共にある!」
踏み込んだ瞬間、薙刀の刃先に聖音が宿った。
キィン、と空気を震わせる透明な音色。
次いで、光が爆ぜた。
閃光――!
薙刀が振られるたび、
光の弧が天を裂き、床を照らし、影を焼き切る。
闇腕が千切れ、黒煙となって消えていく。
屋敷に遺っていた死の匂いさえ、聖光に焦がされて霧散していく。
だがヴァルティーアは怯まない。
屋敷をひしゃげさせるほどの衝撃波を吐き、
さらに巨大な闇の腕を呼び出した。
床がめくれあがり、木片が宙へ散る。
イグフェリエルは微笑んだ。
どこか、傷つき、怯えていた少女の面影を残しつつ――
それでも神としての威を宿す、静かな笑み。
「――では、これにて終幕だ」
薙刀を逆手に構え、
彼女はゆっくりと大きく弧を描くように跳び込んだ。
その動きは
祈り、願い、そして覚悟のすべてをひとつに束ねた舞踏。
最後の一閃。
純白の光が、屋敷の闇を丸ごと飲み込むほどの奔流となり、
ヴァルティーアの影を粉砕し、
壁を浄化し、床を清め、天井にまで光紋を刻んだ。
逃げ場などない。
死者の女王は光に呑まれてゆく。
屋敷を包んだのは、
ただ、穏やかな白光だけ。
砂塵が夜空を裂き、瓦礫が散り、風がすべてを攫っていった。
その嵐の中で、ヴァルティーアの小さな身体は灰のように崩れ、散り、風の中に溶けて消えていく。
「見事だ……霊掃隊の巫女、イグフェリエル=テラ=オルディア……」
かすれた声で、彼女は最後の賛辞を残す。
空が、泣き止んでいた。
先ほどまで怨嗟と黒煙で覆われていた天が、徐々に光を取り戻す。
雲の切れ間から零れた一筋の陽が、崩れ落ちた屋根の隙間から差し込み、その中に立つイグフェリエルを照らしていた。
「イグフェリエル様ッ!」
遠くから、懐かしい声がいくつも重なる。
振り向けば、エリザシュア、グラウス、シャーリア、ルシモディアの四人が、
それぞれ満身創痍の姿で、瓦礫を踏みしめながらこちらへと歩いてくる。
五人は並び、同じ空を仰いだ。
「……空が、綺麗だな」
イグフェリエルの言葉は、静かな風に溶ける。
◇
その瞬間――
「――はい、カットォ!!」
無線マイク越しの声が響く。
次の瞬間、空気が一気に緩む。
スタッフたちが駆け寄り、ライトが落とされ、風の音すら止んだ。
「お疲れさまでしたー! いやぁ、すごかったですよ、皆さん!
リスナーのコメントも、大絶賛でした!」
声をかけるスタッフに、皆が軽く笑みを返す。
シャーリアは、ちょっと唇を尖らせて言った。
「なんかさぁ……おらたち、あんまり活躍できなかったみゃあ……」
「……あぁ、そうだな」
グラウスが苦笑いを浮かべる。
その隣ではルシモディアが腰を押さえてうめいていた。
「いったぁぁぁ……あーみゅ、マジで腰やった…………」
「大丈夫ですか、ルシモディア?」
エリザシュアが心配そうに、彼女の腰をさすりながら、屈んで聞く。
「いや、あのね、階段から落下したときの、マットがずれてたせいでね――」
各々が会話を交わす中、イグフェリエルの前に――
ふたつの影が現れた。
ネクロフィリアとヴァルティーア。
「……それほどまでの『人気』があれば、【第三冥府】への通行料は、容易く払えるであろう」
ネクロフィリアは視線を逸らしながら、低く呟く。
そう言われたので、イグフェリエルが自身の『人気』ゲージを確認してみると、以前よりも爆発的に上昇していた。
「貴様らが行きたいのならば、吾輩たちは止めはせん」
それだけの言葉を残し、背を向けて歩き去る。
ヴァルティーアは軽く一礼して言った。
「皆さん、本日はお疲れさまでした。皆さまのご健闘を心よりお祈り申し上げます」
そう言って一度背を向け――小さく、イグフェリエルだけに聞こえるような声で続けた。
「イグフェリエル。
本音を言える、今のお前の方が……名無しちゃんは好きだぞ」
そうして、彼女も去っていく。
◇
第三冥府への、地獄の扉。
その前に、エリザシュアたちは立っていた。
黒曜石の門にイグフェリエルが手を添えると、『人気』を消費することで、重い音とともに、扉が開く。
そして皆、顔を合わせるようにして、足を動かしてゆく。
だが、ルシモディアだけが動かない。
「……ルシモディア?」
エリザシュアが振り返る。
彼女は、ゆるく笑って答えた。
「あ~いや、あーみゅはもう十分、楽しい思い出を作れたからイイかな~って。
それに……」
そして背を向け、小さく息を吸い、
「――どうせすぐに、会えるし」
と、肩越しに呟く。
誰も何も言えないまま、彼女の姿は霧の向こうへと消えていった。
エリザシュアはその背中をしばらく見つめ――静かに前を向いた。
「――行きましょう。第三冥府へ」
歩き出す四人。
エリザシュア、イグフェリエル、グラウス、シャーリア。
◇
少しの間、歩を進めると、ようやく光が見え、第三冥府の世界へと辿り着く。
その先に広がるのは、青霧に包まれた荒野。
緑がかすかに生え、古びた遺跡がぽつぽつと立ち並び、遠くには崖と滝、そして巨大な世界樹が見える。
そして――エリザシュアたちの前には、見知った姿があり、その者は、聞きなれた軽薄な声を発する。
「いやぁ、遅かったっすねぇ?
世界の危機だっていうのに、キャバクラで働いたり、アイドルになったり、随分とまぁ、悠長に過ごしてましたねぇ」
そこに立っていたのは――断罪の四骸のひとり、ザルギエス。
にやりと唇を裂き、四本の腕を十字に広げて、まるで舞台の幕が上がるのを待ち構える悪魔のように――エリザシュアたちを待ち受けていた。




