第61話 死者の女王の屋敷
死者の女王の館――その重々しい扉を押し開けた瞬間、空気が沈んだ。
ひやりとした冷気が、まるで氷の舌で頬を舐めまわすように這い上がってくる。
洋風の大広間。
高い天井、巨大な階段、壁を飾る十数枚の肖像画。
ぼんやりと揺れる蝋燭の光だけが、黒い闇に薄膜のような明度を貼りつけている。
それ以外のすべては、沈黙と朽ちた木材の匂い。
そんな中を、エリザシュアたちはおぼつかない足取りで進んでいく。
階段脇に掛けられた一枚の肖像画。
ふくよかな婦人が微笑む、平凡な古画――のはずだった。
エリザシュアが一瞬視線を逸らした、その刹那。
――ぎょろり。
婦人の目が、生きているかのように大きく動いた。
「見ましたか、皆さん!? ……今、確かに動きました……!」
エリザシュアが声を荒げて言う。
しかし視線を戻すと、肖像画は何事もなかった顔で微笑んでいた。
だが。
――次の瞬間、婦人の白目が消えていた。
眼が、濁り切った黒一色に染まる。
微笑は変わらないのに、その目だけが底なしの闇としてこちらを見つめてくる。
「……っ!」
濃密な悪寒が背を走る。
さらに、婦人の口元がゆっくりと歪み、
鼻孔から、口内から、赤黒い液体が――ぽたり、と額縁を汚した。
その音がやけに大きく響いた。
シャーリアが思わずエリザシュアの背に飛びつく。
ルシモディアにも冷や汗、グラウスでさえ眉を寄せるほどに空気が変わっていた。
そして、イグフェリエルは恐怖を我慢し冷静を保つようにして、目を逸らし耳を閉じる。
それ以上は特に何もなく、一行は長い廊下の方へと、慎重に歩き出す。
――みし……みし……。
床板の軋みが、歩幅に対応して、音を立てる。
いつもなら気にも留めない、ただの足音。
何気ない足音なのに、今はただ、エリザシュアたちの恐怖を煽る。
そして、恐怖はそれに応える。
――みし……みみしし……みしみし。
彼女らの歩の進みに、明らかに合わない足音が、遮るように聞こえてくる。
エリザシュアたちが振り向く。
そこにいた。
骨も肉も区別できない、全身が墨で塗りつぶされたような影の塊。
顔だけが異様に長く、歪んだ横顔でこちらを向いている。
関節の位置もおかしく、肩が逆にねじれ、脚は蜘蛛のように折れていた。
その影が――ゆっくり、首だけを九十度こちらへ回す。
「ひッ……ひゃあああああ……ッ!!」
一行の悲鳴が重なった。
影が滑るように距離を詰めてくる。
五人は一斉に駆けだした。
背後で、影の足音が狂ったように重なる。
混乱と恐怖の渦の中、古びた廊下を引き裂くように、彼女らはただ必死に逃げだした。
全力で駆け抜け、角をひとつ、またひとつと曲がった先――
ようやく影の足音が遠のいた。
壁にもたれかかり、五人は一斉に肩で息をした。
胸が上下し、喉が焼けるほど乾いている。
シャーリアは震える指先で耳を押さえながら言う。
「……っ、今のな、なんなのゆら…………心臓、飛び出るかと思ったみゃあ……」
ルシモディアは笑おうとして、うまく笑えず、引きつった表情のまま額の汗を払った。
「いやぁ……流石に、あれはあーみゅでもビビるわ……反則だネ~……首ってあんな曲がるもんでしたかナ……?」
グラウスは大剣の柄を握りしめたまま、深く息を吐く。
武人の彼でさえ、手がわずかに震えていた。
「……この屋敷全体の雰囲気に呑まれたせいか、愚拙とて……背筋が粟立ったわ」
エリザシュアは胸に手を当て、震える呼吸を整えようとしていた。
一行は、口ではそうは言うものの、恐怖を押し殺していた。
だが、その中で一人だけ、あまりに怯え切った者がいた。
「いやだぁ……お化け、怖い……!
こんなの聞いてないよぉ、助けて、父様ぁ……!」
イグフェリエル――救星神の名を冠する彼女は、丸くうずくまって声を震わせていたのだ。
恐怖が、堰を切ったようにして溢れる。
カメラはその姿を逃さず捉え、視聴者は息を飲む。
コメント欄はたちまち埋まり、『かわいい……!』の嵐。
イグフェリエルの『人気』ゲージは瞬く間にうなぎ登りだった。
「さすがは、救星神様にゃろす!!
怯える姿を見せて人気を急上昇させるなんて、策士すぎるみゃあ!!」
シャーリアが、明るい口調で言う。
イグフェリエルはびくっと体を震わせ、涙で濡れた目を潤ませたまま、仲間たちを必死に手招きした。
そして耳元で、囁く。
「……ち、ちが……ちがいますよぉ……!」
呼吸はひくひく詰まり、声はかすれ、指先は震えている。
「……まじで、無理なんです……お、お化けだけは……ほんとに……!!!」
最後の言葉は、泣き声と一緒に掠れて消えた。
肩は小刻みに震え、薙刀の柄をぎゅっと抱きしめるようにしがみつく姿は、普段の傲慢で気高き、救星神とは似ても似つかない。
その仕草ひとつひとつが、守ってやりたくなるほど可憐であり、あまりに滑稽。
そして、エリザシュアたちの心には、もはや恐怖など消え失せた。
それどころか、少しばかり笑いさえ漏れ出てくる。
「……ふふ、大丈夫ですよ、イグフェリエル様。わてちしと一緒に行きましょうね」
エリザシュアはそっと手を取り、震える彼女を、幼児のような扱いで支えながら、廊下を進む。
やがて、屋敷の内部は迷路のように分岐していた。
それゆえ、シャーリアとグラウスは、分担して別のルートを探索することを決める。
だが、この判断は誤りだった。
ふたりは、長い廊下を進む中、足元への警戒を怠ったせいで、罠のひもに引っかかる。
そしてその紐が足を引っ張り上げ、どこか闇の向こうへと誘ってしまう。
「ぎゃあああ!」という叫び声が廊下に響いた。
男性と女性、二つの声が重なり共鳴する。
別の道を進んでいたエリザシュアは、それがシャーリアとグラウスだと直感する。
しかし戻ろうとした瞬間、ルシモディアが手を伸ばす。
「恐らくだけど、もう彼らは無事ではないだろうネ。
今、あーみゅたちにできることは、この道を進むことだけだヨ」
エリザシュアは頷き、震える手を握りしめながら先へ進む。
イグフェリエルは依然として泣きじゃくりながら、しかし一歩ずつ足を運ぶ。
やがて現れた階段に差し掛かり、登る。
慎重に一歩ずつ登る二人。
そしてその後ろを、ルシモディアが歩く。
そして、エリザシュアが先に頂上へと辿り着いた瞬間、床が急に斜めに傾き、足を滑らせる。
――落とし穴が、イグフェリエルとルシモディアを、待っていた。
「イグフェリエル様!」
ルシモディアは瞬時に反応し、泣きじゃくる彼女の足を力強く押し上げ、頂上へと投げ出す。
頂上に着地したイグフェリエルは安堵の息を漏らし、ルシモディアは敬礼のようなポーズで指をクイッと鳴らし、笑みを浮かべる。
「Till we burn again!(地獄で、また会おうゼ!)」
落ちていくルシモディアの姿を見送り、覚悟を決めたふたりは、再び廊下を進む。
◇
部屋に足を踏み入れると、そこには家具らしい家具は一切置かれていなかった。
床も壁も天井も、空虚さだけが支配している空間。
かすかに「助けて……」という、子どものような声がどこからともなく響いた。
「いやぁ……怖い……!」
イグフェリエルは体を小さく丸め、声を震わせる。
しかしエリザシュアはその手を握り、優しく引き寄せながら声のする方へと歩を進めた。
視線の先には、ゆりかごがひとつ置かれ、オルゴールの音色がかすかに鳴っている。
その中には、泣きじゃくる赤ん坊が揺れていた。エリザシュアは母のようにそっと抱き上げ、あやすように声をかける。
「大丈夫、もう泣かなくていいんですよ……」
すると赤ん坊の泣き声は次第に収まり、やがて笑い声に変わった。
しかし、その無邪気な笑い声は次第に狂気じみたおじさんの声へと変化し、オルゴールの音色は壊れたかのように歪んでいく。
「アヒdャgヒャk0geヒャe^ビャvmrァ,@kwj540gmv!!」
天井から赤い血のような液体が降り注ぎ、床に触れるや否やそれが形を成し、死霊が立ち上がる。
「……!」
エリザシュアとイグフェリエルは、震える手つきで武器を握り、戦闘態勢に入った。
そうして一霊一霊を、着実に祓っていく。
赤黒い滴がぬらりと床を滑り、立ち上がった死霊は、まるで粘土をこねるように形を歪ませながら、こちらの攻撃を受け流す。
エリザシュアが月光を纏わせた神楽鈴を鳴らすと、銀の衝撃が死霊の胸を貫いた――はずだった。
崩れ落ちかけた死霊の影が、ぐにゃり、と逆再生のように立ち直る。
瘴気がむくむくと盛り上がり、裂けた傷跡を縫うように覆っていく。
イグフェリエルの薙刀が浄化光を放ち、真っ直ぐに振り抜かれる。
刃は確かに死霊の胴を二つに断ち切った。だが、身体はばしゃりと血泥に戻り、そのまま再び形を結び直した。
圧が違う。
質量も、瘴気も、意志すら――先ほどまでの雑兵とはまるで別物だった。
彼女らは、致命傷こそ負わないものの、苦戦を強いられていた。
◇
その様子をスタジオで見守るディレクターは、眉をひそめて呟く。
「う〜ん、現実味を出すためにヴァルティーアちゃんに死霊を作ってもらったけど、如何せん強くてダレてきて、コメントの反応も悪いなぁ」
さらに、思いついたかのように声を張り上げる。
「そうだ! 別で用意していたヴァルティーアちゃんの関係者のインタビュー、流しちゃってチョウダイ!」
生放送中、画面は急遽切り替わり、タイトルが映る。
『トップアイドル・ヴァルティーア=シャリンハイムに迫る!』
副題として「今回はヴァルティーアちゃんの関係者に色々と質問しちゃいました!」と表示される。
画面には、骨が所々見える足元だけが映され、質問が次々に飛ぶ。
「今日は、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いいたします」
「まずお聞きしたいこととして、ヴァルティーアちゃんとのご関係を教えてもらってよいでしょうか?」
骨の主は静かに答える。
「ちちお……いや、彼女の親族に当たる者です」
続けてスタッフの質問。
「ヴァルティーアちゃんをアイドルに推薦したのは貴方だと聞きましたが、どのような理由でその決断に?」
骨の人物は少し間を置き、口を開く。
「そりゃ、ヴァルティーアはかわいー……いや、彼女の美貌や天性のスター性を加味したとき、アイドルが最も輝ける場所だと判断し、推薦しました」
スタッフは回りくどいと判断したか、カメラを上に向け、顔を映す。
そこに現れたのは――死神、断罪の四骸ネクロフィリア=シャリンハイムだった。
「……あぁ、結局映すのだな」
と突っ込むネクロフィリア。
「では、ヴァルティーアちゃんのお父様でもあるネクロフィリアさんは、どういう想いで第二冥府、つまりこの地獄をお創りになられたのですか?」
ネクロフィリアは神妙な面持ちで答える。
「ご存じの方もいるだろうが、魔族というのは、人間が深い後悔を残したまま、朽ちていった成れの果ての姿だ。
無論、吾輩もその例外ではない」
息を整えるようにして一拍置いたのち、
「碌な死に方をしなかったせいか、吾輩には、前世の記憶というのはほとんどない。
だが、二つだけ、確かなことを覚えておる――」
彼は、前世の記憶を振り返るように指を二本立て、静かに語った。
ネクロフィリアの声がセットの外まで響き渡る。
「ひとつ、吾輩には、娘がいた。
ふたつ、娘を愛していた……だが、早くに死んでしまったせいで、娘を愛しきれなかった。
もっと愛してやりたかったというのに……それが吾輩の後悔だ」
その声は重く、だがどこか柔らかさを帯びていた。
「そして魔族となった吾輩は、魔界を彷徨い続け、いつの間にか魔王と君臨した。
その頃は、自らの後悔など認識しておらず、心のモヤモヤだけが渦巻いていた。
そしてそれを解消するために、愚かにも邪知暴虐を為した――」
言葉を噛みしめるように一呼吸置き、さらに続ける。
「そしてとある日、とある戦火の中、今まさに息絶えようとしている人間の少女を発見した。
最初は安らかにとどめを刺そうとした。
だが、諦めずに生きようとする少女の姿を見て、その姿が娘と重なり、そのときようやく彼女を思い出した。
目の前の少女を、無性に抱きしめてやりたくなった」
そして決意のように声を強める。
「以後、その少女を『ヴァルティーア』と名付け、魔界で育てた。そして彼女が輝ける、この第二冥府をつくった。
――生前の後悔を洗い流し、今度こそは愛し尽くしてやるためにな」
◇
死者の女王の屋敷内。
エリザシュアとイグフェリエルは屋敷のセットの外から、僅かに聞こえてくるネクロフィリアの声に耳を傾けていた。
「……へぇ、かの元魔王に、そのような過去があっただなんて」
エリザシュアは小さく呟く。
イグフェリエルはどこか上の空で、視線はぼんやりと宙を泳いでいた。
その隙に死霊が襲いかかろうとする。
「っ……!」
しかしエリザシュアが咄嗟にダイブし、イグフェリエルを庇った。
後ずさったイグフェリエルが壁にぶつかると、壁はからくり屋敷の一部で、隠された通路が現れた。
だがその瞬間、エリザシュアは大量の死霊に捕まり、身動きが取れない。
「先に行ってください、イグフェリエル様!」
エリザシュアの叫びが、背中を押す。
イグフェリエルは唇を噛み、恐怖で膝が笑いながらも――
それでも、一歩。
また一歩と、幽気の満ちる闇の先へ進み出た。
◇
通路は、異様なほど長かった。
まるでどこか別の世界へと続いているかのように、灯りの届かない闇がずっと先まで伸びている。
――ぞわり。
突如、壁が生き物のように脈動し、そこから手が生えた。
白い指、黒い指、細いもの、膨れたもの。
形も色も統一されていない、何かが次々と伸びてくる。
「きゃあああああっ!!」
一歩進むたび、手の群れがざらりと動き、肩や髪、衣を掴もうとする。
イグフェリエルは涙で視界を滲ませながら、必死に払いのけた。
薙刀を振るう余裕もなく、ただ拒絶するように身体を振り回す。
「やっ……やめっ……触らないでくださいぃぃ……っ!」
恐怖で心臓が早鐘を打つ。
喉が引きつれ、頭が真っ白になる。
そんな極限の中――
脳裏に、不意にあの日の光景が、朧気ながら蘇る。
=======
まだ幼かった頃。
夜中に目が覚め、どうしても一人で歩くのが怖くて、父の寝室まで泣きながら走った日。
「……どうした、イグフェリエル?」
眠そうな顔で起き上がってくれた父の手は、温かくて、大きかった。
「こわ……こわいの……トイレ……」
震える小さな手を握ってもらいながら、二人で暗い廊下を歩く。
そのとき、父はふと口ずさんだ。
低く、優しく、まるで夜を払うような声で。
「ルーメン リリィア サリエル――」
イグフェリエルが不思議そうに見上げると、父は優しく笑って答えた。
「怖いときはこの歌を歌うんだ。
ほら、不思議と胸の痛みが軽くなるだろう?」
その言葉が、胸の奥に灯をともした。
=======
今、闇に包まれたこの廊下で、
イグフェリエルは震える唇をかみしめながら、息を吸う。
「ル……ルーメン……リリィア……サリエル……」
声は震え、涙混じりで不安定だった。
それでも、歌うごとに胸の奥が少しずつ温かくなる。
周囲の“手”がざわりと揺れる。
まるで歌声を嫌がるように、身を引くように。
「……大丈夫、大丈夫……。怖くない、怖くない……!
此方は、救星神なんだから、もっと堂々と……」
父の声を思い出すたびに、足が前へ進む。
震えながらも、彼女は確かに――闇に呑まれない光になっていた。
やがて先に光が差し込み、到達した先には闇を纏った巨体――死者の女王、ヴァルティーア=シャリンハイムが立ちはだかっていた。
「遅かったな、神代の巫女よ」
低く響く声。
「へぇ、辿り着いたのはお前だけか、イグフェリエル=テラ=オルディア?」




