第56話 スラムにて研鑽を積む創造主
スラム街の最奥――。
そのさらに下層、息をするのも億劫になるほどの瘴気が漂う、第一冥府の暗渠を、修一はひとり歩いていた。
足元の泥がぐしゃりと音を立てるたび、地表に溜まった瘴気が泡のように弾ける。
歩きながら修一は、掌に魔力を流した。
黒炎、氷山、疾風、迅雷、猛毒、大地、深海、月光、闇夜、すべての魔術の属性を灯す。
エリザシュアから受け取った知識や魔術の感覚を、ひとつひとつ確かめるように。
修一は淡々と、しかし確実にその魔力の質を己に馴染ませていった。
そして――目的の場所に辿り着いた。
そこは、巨大な生物の頭蓋骨が門に突き立てられた、魔界の暗殺者集団たちの巣窟。
「立ち入る者は死を以て迎えられる」――無言の警告が骨の形で語っていた。
スラムから調達した、崩れた建材の上に高台を組み、そこかしこに見張りの影。
魔界でも屈指の猛者どもが集う場所だ。
修一は足を止めず、ただ静かに歩を進める。
そこかしこから殺意が注がれるが、彼の表情に動揺はない。
「警告だ」
高台の上から、低く響く声。
「これ以上、手前らの巣に、足を踏み入れるなら――実力をもって排除する」
見上げると、翼を広げたリザードマンの戦士が鎧をきしませ立っていた。
その眼は獣のそれ。
光の筋一つ逃さぬ狩人の眼だ。
そして恐らく、この集団の長。
修一は口角を吊り上げ、挑発するように言った。
「それで結構だ。俺はここに、修行をつけてもらいに来たんでな」
一歩、地面を踏み鳴らす。
その瞬間、闇の中から一斉に襲いかかる気配。
人の形をとったスライム女、無数の脚を蠢かせる蜘蛛人間、筋骨隆々とした魚人――
あらゆる魔族が四方八方から飛びかかった。
だが修一は目を閉じたまま、滑るように避けていく。
倒すのが目的ではない。殺すのが目的ではないのだ。
――ただ、経験を積む。感覚を研ぎ澄ます。それだけのために。
「えっ!? どうしてぽにゅたちの攻撃が当たらないぽにゅ!?」
スライム女の悲鳴がこだまする。
そのとき、高台から影が跳んだ。
リザードマンだ。
鎖のついた鉄球を振り回し、殺気を纏って地面を砕く。
修一はその殺意を肌で感じ、刹那に瞼を開いた。
鉄球が鼻先を掠め、風が髪を裂く。
「……お前さん、隻腕のくせして、ただもんじゃねえな」
リザードマンは鉄球を肩に担ぎ、口角を歪める。
「よいだろう。
手前が直々に修行をつけてやる! 殺されても文句は言うなよ!」
修一は薄く笑った。
「助かる。望むところだ」
「親分、危ないぽにゅ! 下がるんだぽにゅ!」
スライム女が叫ぶが、リザードマンの血は既に滾っている。
そうして――暗殺者たちの巣に、轟音が響いた。
修一とリザードマンの戦いが、静かに始まったのだ。
鉄球が唸りを上げて空を裂いた。
目にも留まらぬ速さ――音が追いつく前に、修一の身体が吹き飛ぶ。
『白夜』の刃でどうにか防いだが、衝撃は骨の芯まで突き抜け、背後の建物に叩きつけられた。
壁が砕け、砂煙が舞う。
こめかみを伝う血を指で拭い、修一は静かに立ち上がる。
その瞳には、怯えも怒りもない。
あるのはただ、研ぎ澄まされた決意のみ。
「――月の光よ」
修一の呟きと同時に、淡い光が辺りを満たす。
威力はない。眩しさも一瞬だけ。
だが、その一瞬の目くらましが命の刹那。
修一は月光の閃きを利用し、影のように滑り込む。
リザードマンの鱗肌に手が触れた瞬間。
「――雷の導き」
その詠唱とともに、リザードマンの身体に、微細な電流が流れ込む。
雷は決して強くはない。
だが、その魔術操作は精密だった。
神経を的確にかすめた電流が、リザードマンの巨体を一瞬だけ麻痺させる。
その隙を見逃さず、修一は跳躍し、白夜を振り下ろした。
血しぶきが飛んでしまうのかと、周囲の者は覚悟したが、――驚くべきことに金属の音だけが響いた。
彼が断ち切ったものは、鉄球が繋がった鎖だった。
修一は軽く息を吐き、剣を鞘に納める。
代わりに、拳を握った。
これは殺し合いではない。あくまで修行なのだ。
あくまで修一は、強くなりたいだけ。
「後悔すんじゃねぇぞ、お前さんよぉッ!!」
その挑発じみた意図に、気が付いたリザードマンが咆哮し、巨腕を振り下ろす。
修一は一歩、二歩、三歩と滑るように躱す。
拳が風を裂くたびに地面が陥没し、土埃が吹き上がる。
それでも彼は冷静だった。
――呼吸を整え、間合いを読む。
数発の拳が直撃し、腹に、頬に痛みが走る。
だが修一は痛みに溺れず、むしろその痛みで自らを覚醒させた。
踏み込み、拳を返す。
顎、脇腹、膝――一点一点が的確に急所を突く。
「ぐっ……! なんなんだ、この人間……!」
リザードマンの瞳に、初めて戦慄が走る。
修一は止まらない。
幾度も、幾度も拳を重ね、全身を戦いの軌跡で刻む。
本来なら、体格差で勝負にならぬ相手。
だが修一の精神には、テフ=カ=ディレムの遺跡で味わった、あの悪魔……いや天使との死闘の記憶が刻まれていた。
死線を幾度も越えた者だけが持つ、狂気じみた勘と研ぎ澄まされた反応。
やがて、リザードマンは息を荒げ、膝をつく。
その瞬間、修一の拳が顔面へと走る――が、ぴたりと止まった。
間合い一寸。寸止め。
風圧だけが頬を撫でた。
リザードマンは、敗北を悟り、息を吐く。
「……お前さんは、いったい……何者なんだ」
修一は少し迷った。
偽るべきか、真を明かすべきか。
だが――この場所では真実のほうが通りがいい。
彼は静かに口を開いた。
「俺は――田島修一。お前たちの創造主だ」
その言葉が落ちた瞬間、闇の奥でざわめく気配が止まり、空気が、張りつめるように凍りついた。
◇
アジトの建物の中は、香ばしい匂いで満ちていた。
何の肉かは分からないが、豪勢な料理がずらりと並び、湯気が立ちのぼっている。
丸太の長机の上には、焼き立ての肉、光沢を帯びた酒瓶、謎の赤いスープ。
ざわめきと笑い声が溶け合い、場の熱気が肌にまとわりつく。
先程拳を交えたリザードマンが、角付きのジョッキを一気にあおり、豪快に笑った。
「もぉぉっ! 創造主様だったんなら、最初から言っておいてくださいよぉっ!
危うくお体に傷をつけちゃうところだったじゃないですかーっ!」
口から酒をこぼしながら、彼は尻尾で床を叩いて笑う。
そして、酔いの勢いそのままに背筋を伸ばす。
「……はっ! 申し遅れました!
手前はこの暗殺集団を束ねる、スヴェイルドロスと申しますっ! 以後、御見知りおきを!!」
その横から、青く透き通る身体を揺らしながらスライム女が飛び出してくる。
「ぽにゅは、ぽにゅだよぉ! よろしくね、創造主様ぁ~♡」
ぷにぷにした腕が修一の肩にまとわりつき、冷たい感触が首筋を滑る。
修一は思わず顔をしかめた。
「わりぃな、こんな催しをさせちまって」
修一がそう言うと、スヴェイルドロスは肉をかじる手を止め、ぎらりと目を光らせた。
「……いやっ! いいんですよ、創造主様! 手前らはずっと、貴方に感謝がしたかったんですから! だって……」
彼は声を落とし、杯を握りしめた。
「魔族ってのは、『後悔を残したまま死んだ、人間の成れの果て』なんですからっ!
手前たち魔族は、みーんな、貴方に感謝してるんですよ!
――第二の人生を与えてくれたことにッ!」
焚き火の明かりが、修一の瞳を照らす。
(そうだ……魔族は後悔の具現。死に切れなかった魂の残滓だ)
修一は箸を置き、ぽつりと呟く。
「へぇ……確か、魔族の中でもそれに気づけるのは、極少数だったはずだが、スヴェイルドロスたちは理解しているんだな」
そして、わずかにニヒルな笑みを歪めた。
「……でもいいのか? 第一の人生で、後悔を残させたまま死なせたのは、他ならぬ俺自身だというのに」
一瞬、場の空気が凍りつく。
しかし――
「ヴァッハハハハ!! 創造主様ったら、場の雰囲気を気まずくしないでくださいよぉーっ!」
スヴェイルドロスの笑いが響き、空気が解ける。
「ぽにゅたちはぁ、それでも創造主様のことがだーい好きだから安心してよぉ~♡」
ぷにゅ、と柔らかい音がした。
修一は、持て囃されるのが嫌だったので、いっそのこと殴られたいと思っていたのだが、その希望は打ち砕かれ、逆に気まずくなる。
そして、スヴェイルドロスが真顔に戻る。
「……それで、創造主様はどうやら、強くおなりになりたいようですね。
手前どもでよければ、お力になりますよ!」
ぽにゅも横で、うんうんと首を揺らす。
「……気持ちはありがたいが、俺の目指す強さは“最強”だ。
魔王ディアーナに、勝利できるほどの」
修一の声は低く、研ぎ澄まされた。
「正直言って、お前たちじゃ、その頂きには辿り着けないだろう。
……どんなに過酷な手段でも構わない。俺が強くなれる手段を、知らないかッ!?」
その言葉に、スヴェイルドロスとぽにゅが顔を見合わせる。
そして無言のまま立ち上がり、真剣な眼差しで言った。
「――ついてきてください、創造主様」
◇
――第一冥府の果て。
そこには、ありえぬ光景が広がっていた。
果てしない海底の“海”が、冥府の地を呑み込むかのように押し寄せている。
だが、その怒涛はある一点で止められていた。
半透明の巨大な膜――光の薄膜が波間にゆらめき、轟音を立てる潮を、見えない手で押し返しているのだ。
スヴェイルドロスが一歩進み出て、低く呟く。
「魔王様の魔術で編まれたこの膜によって、この冥府は海から守られているのですが……実はこの膜、海を遮るだけで、手前らは通過できるんです」
修一が無言で膜に手を伸ばすと、光がゆらりと波打つ。
スヴェイルドロスは続けた。
「そして、この膜の先には――荒れた海の中で、突然変異した生物が蔓延っておりまして。
以前、上位の魔族どもが面白半分で侵入したんですが……一瞬で、奴らの餌になりました」
修一は頷き、目を細める。
「なるほどな。つまり――この過酷な海で、研鑽を積めってわけか」
静かに歩み寄ると、膜に指先を押しつけてみた。
ぬるりとした抵抗ののち、指が通過する。
次の瞬間――
「ぐ……っ!」
指先から稲妻のような激痛が走った。
反射的に引き抜くと、皮膚が削げ、鮮血がぽたりと滴り落ちる。
海面の向こうでは、無数の潮流が渦を描き、螺旋状に捻じれていた。
「ねぇ……親分……」
ぽにゅが涙目で修一の袖を掴む。
「海は……危険だよぉ……創造主様に、死んでほしくないから……別の場所を探そうよぉ」
「……あぁ、そうだな、ぽにゅ」
スヴェイルドロスも頷こうとした、その刹那。
修一はマントを脱ぎ捨て、無言で海へと足を踏み入れた。
「「創造主様ぁッ!!?」」
二人の声が重なった時には、もう遅かった。
水面が爆ぜ、修一の姿は濁流に飲み込まれていく。
圧が全身を締めつけ、身体のあちこちが渦の刃で裂かれる。
それでも修一は目を開いた。
暗闇の奥、ふたつの微かな光が見えた。
光はゆらりと揺れ、近づくにつれて形を持つ。
――それは魚だった。
いや、もはや魚の成れの果て。
突き出た牙、硬質化した鱗、膨れ上がった眼球。
深海の狂気が、肉体という檻を突き破っていた。
生物は一瞬で距離を詰め、顎を開く。
修一はかろうじて身体をひねり、噛みつきをかわす。
そのまま左腕で白夜を抜き、刃を振る――が、海水の抵抗が鋼を鈍らせ、空を切る。
反撃の隙を突かれ、鋭利な牙が胸を抉った。血が水中に散る。
だが、修一の脳裏には浮かんでいた。
――あの日、勇者ルナテミスが見せた、あの凛とした背中が。
修一は呼吸を忘れ、刃を構え直した。
深海魚の動きが見える。
潮の流れも、牙の軌道も、すべてが読める。
「――そこだッ!」
白夜が光を放ち、海を裂いた。
切断面から泡が立ち、深海魚の眼が暗く沈む。
だが修一は止まらない。
何度も、何度も。
深淵の静寂を切り裂くように、刃を振るい続けた。
やがて、深海魚は静まり返る。
漂う血潮の中、修一の瞳だけが、なおも燃えていた。
修一の身体が震えていた。
寒さではない。
肉体の芯から突き上げてくる、恐怖にも似た昂ぶりが、彼をわずかに揺らしていた。
――そのときだった。
突然、視界が闇に塗りつぶされる。
光が消えた。
思考が、遠のく。
修一は反射的に足を動かそうとするが、四肢が鉛のように重い。
そこでようやく理解した。
――ここは、海の中だ。
長らく呼吸を、忘れてしまっていたのだ。
肺が焼ける。
視界が暗転する。
そして、意識はゆっくりと途、絶え――た。
◇
「……創造主様ッ! 無茶はしないでくださいよ! 死んでしまったら、どうするんですかぁッ!」
がなり立てるような声が、遠くから響いてきた。
まぶたを開けると、視界がゆらぎ、光が揺れる。
スヴェイルドロスが真っ青な顔で修一を覗き込み、胸を何度も叩いている。
「……そうだぽにゅ! ぽにゅたち、海に入ったと思ったら一瞬で悶え始めたから、心配したんだぽにゅっ!」
隣では、ぽにゅが涙と泡を混ぜながら泣きじゃくっていた。
柔らかな体が修一の腕にまとわりつき、ぷるぷると震えている。
修一はか細い声で息を整え、呟く。
「……一瞬……? 数分は、海の中にいたはずだが……」
そのとき、背後から静かな声が響いた。
「海の中と地上とでは、時間の感覚が異なるのですぞよ」
低く、深く、どこか懐かしい響き。
その声に修一は眉をひそめる。
聞き覚えがあった。
スヴェイルドロスが立ち上がり、声を張った。
「このお爺ちゃんが、助けに向かわなければ、どうなっていたことかっ……!」
修一はゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、白銀の髪を揺らすひとりの老人だった。
かつて剣を戴き、千の兵を率いた王の風格が、その姿の奥に確かにあった。
「……久しぶりですな、創造主殿」
穏やかな笑みとともに、老人は深く頭を垂れる。
「以前お会いしたのは――グレイス・ヴァルム王国の“終焉の穴”を塞いでいただいたとき、でありましょうか」
すべてが、蘇る。
そして、目の前の老人が誰なのかを悟った。
グレイス・ヴァルム王国、第九十二代国王――
アルヴァレイン・セリューヌ。
そして――勇者ルナテミスの、父であった。




