第52話 終焉は近い。故に、急がねば
『我は月影白夜騎士団が筆頭……勇者、ルナテミスッっ!!
初めましてと行こうか、創造主様。そして、穢土にようこそ、くそったれ。』
『たしかに、憎んだこともあった。そちのせいで苦しんだこともあった。
でも……それでも……これだけは、言わせて欲しい。』
――こんなにも素晴らしい世界に、我を産んでくれて、ありがとう……ッ!』
『ふ、ふふん! や、やはり我にも――その、可愛げというものがあったのだな……! がははははっ!』
『だが——最期に、我の気持ちも話そうと思う。』
『……我は、修一に……死んでほしくなどない! 生きていてほしい……っ!
我は、そちが産んだ世界で、笑って、楽しんで、生きてきた……! そちは、我の幸福そのものなのだ!』
『だから……そんなそちが消えてしまうなんて、そんなのは嫌だ……。』
――ルナテミス。
彼女の声が、匂いが、肌触りが、今でも胸の中で蠢いている。
ルナテミスとの想い出が、俺の世界の縁を彩るように、何度も何度も、打ち寄せては引いていった。
思い出すだけで胸が温かくなった。
まるで、心臓の奥で彼女がまだ笑っているようで――
「――理論は、構築された。」
だが、魔王ディアーナがそう言葉を発した瞬間、世界が崩れた。
音もなく、記憶がただ溶け落ち、焼き爛れていく。
目の前に焼き付いたのは、左半身を失ったルナテミスの姿。
血と光が混じり、彼女の笑顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「……やめろ……やめろぉッ!!」
俺の喉を裂く声が出た。理性が吹き飛ぶ。
指が震え、視界が滲む。
崩壊する音が、脳の内側から響いて――
◇ ◇ ◇
俺――田島修一は気づけば、白い光の中で目を覚ましていた。
息が荒い。
頭を押さえる。
心臓の鼓動が、まだ狂ったリズムで暴れている。
冷たいシーツの感触。
周囲は静かで、眩しいほど白く、柔らかな光に包まれていた。
天蓋のような天井、心を浄化する空気。
ここは……おそらく、天界にある、医務室のような場所だ。
テフ=カ=ディレムに溢れた、悪魔たちを浄化したあと。
ルナテミスの惨事を前にして、意識を失った俺を、誰かしらが運び、安静にさせていたのだろう。
「……ようやく目覚めたか。おはよう、修一様」
その声は、あまりに静かで、壊れそうに細かった。
目を向けると、白光の縁に立つイグフェリエル=テラ=オルディアがいた。
かつては天衣無縫な輝きを纏っていた彼女の顔が、今はどこかやつれて見える。
その神の微笑みさえも、疲労と痛みに濡れていた。
「おはよう、イグフェリエル」
声を出した瞬間、自分の喉が異様に乾いていることに気づいた。
そして、息を整える間もなく、俺は単刀直入に問うた。
「……ルナテミスは、死んだのか?」
イグフェリエルの体が、びくりと震えた。
彼女は何も言わず、ただ俺の手を取る。
その手は温かいのに、震えていた。
やがて彼女は小さく頷き、俺を立たせて歩き出す。
長い廊下を抜け、純白の扉の前で立ち止まる。
彼女が扉に手をかけると、きぃ……という音が、永遠のように長く響いた。
そして――そこにあった。
氷の棺。
透き通る蒼の中に、左半身を失ったルナテミスが氷漬けにされていた。
意外にも、穏やかな表情をしていた。
まるで、夢の続きを見ているように。
俺はその光景を見た瞬間、過去の記憶を呼び起こした。
――氷結の月影林。
かつて大魔女エリザシュア・ルミナが、想い人・兵士オサムを氷漬けにしたあの場所。
しかし、彼と彼女には、決定的に違う点がある。
――それは彼女がすでに死んでいることである。
兵士オサムのときは、死の直前で凍らされていたため、氷を氷解させ、その刹那に治癒を施すことで、実質的に蘇生を可能にした。
けれど、ルナテミスにはそれができない。
もうすでに、死んでいるのだから。
彼女の身体には、生命の揺らぎすら残っていない。
膝が、勝手に折れた。
声にならない呻きが喉の奥から漏れ、視界が滲む。
その瞬間、イグフェリエルが俺を抱きとめた。
「……大丈夫だ。
傷む心も、震える想いも、すべて此方が受け取ろう。だから……どうか、ひと息つき給え。
修一様には、此方がついている……」
救星神であるはずの彼女の声が、かすかに震えていた。
その白金の睫毛から、涙が零れて俺の頬に落ちる。
それでも、彼女は泣きながら頭を撫でてくれた。
その優しさに、俺はようやく呼吸を取り戻す。
「……一体、何があったんだ……?」
その問いに、背後から柔らかな声が返った。
「……わてちしや、グラウス様たちが辿り着いたときには、既に……あのようなお姿になっておりました」
振り返ると、紅色の髪を纏う魔女エリザシュア・ルミナが立っていた。
深い氷の瞳が、痛みを滲ませながらも真っすぐ俺を見つめていた。
「どのような戦闘があったのかは、分かりません。
ただ――事実として、魔王ディアーナが勇者ルナテミスを殺したのです」
沈黙が落ちる。
何の音も聞こえない。
そして、魔女はゆっくりと続けた。
「……『――理論は、構築された。』
その言葉から察するに、奴こそがイグフェリエル様を欺き、よからぬことを企てた……
“修一くんではない”創造主を名乗る存在なのでは、ないのでしょうか」
その瞬間、イグフェリエルの指先が、俺の手を強く握った。
――あいつが、すべての首謀者? ディアーナが……? なんで?
エリザシュアの言葉が頭の中で何度も反響する。
魔王が勇者を殺した。
“理論は構築された”――その響きが、耳の奥でなお燻っている。
信じられない。信じたくない。
でも、魔王ディアーナは創造の筆を握り、“あの言葉”を呟いた。
それがもう、あいつが黒幕だと物語っているようなものじゃないか。
俺はゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、エリザシュアの視線が、俺の右腕のない肩をちらりと掠める。
ああ、そうだ。思い出した。
彼女に言われた、あの時の言葉を。
――『当たり前の話ですけれど、もう金輪際、神の御業を使わないでくださいね。』
理論構築を封じられたはずの俺は、それを破った。
その代償に、右腕を喪った。
わかっていたのに、止められなかった。
「……ごめん、エリ。お前を、また裏切ってしまった」
謝罪の言葉を吐いた瞬間、彼女が小さく目を見開いた。
叱責が来ると思った。だが――
「……い、いえ。こちらこそ……そこまでの覚悟を、見抜けずに。
あのような言葉を言ってしまったこと……申し訳ございません」
彼女の声は震えていた。
そして、ゆっくりと俺の前に膝をつき、顔を上げる。
「ただ、これだけは……理解していてください。
――わてちしは、修一くんがこれ以上、傷つくのを見るのが……嫌だったのです……」
彼女から涙が零れた。
その言葉が、胸の奥を刺す。
俺は何も言えず、ただ唇を噛み締めた。
そのとき――
ドゴォぉぉぉォオオンッ!!
天界全体が揺れた。
白光の柱が軋み、天蓋がひび割れるような轟音が鳴る。
下界が、再び地割れを始めていたのだ。
「なっ……! どういうことだ!?
テフ=カ=ディレムの門番はいなくなった……終焉の穴は塞がったはずだ!
なら、もう崩壊は止まるはずじゃないのかッ!?」
焦燥で声が裏返る。
だが、イグフェリエルが静かに首を振った。
「修一様……。
たしかに、テフ=カ=ディレムの終焉の穴は封じられた。
しかし――この世に存在する“終焉の穴”は、四つ。
そのうちの最後の一つが、まだ……残っているのではないか」
イグフェリエルの神々しい声が、震えていた。
そして隣で、エリザシュアが苦悶の表情を浮かべながら言葉を続けた。
「……【東の海】――《魔界》にある最後の終焉の穴が、肥大化しすぎてしまったのです。
あまりにも成長しすぎた結果、今や世界全土にも、影響を与え始めています。
――このままでは……世界は、一週間足らずで終焉を迎えるでしょう」
沈黙が落ちた。
氷の棺の中で、ルナテミスが眠り続けている。
その横で、世界が確実に、終焉へと傾いていた。
◇
――天界。
白金の会議室。
曇天の下、世界が呻いている。
終焉の胎動が遠くで響く。
俺が扉を開けた瞬間、室内の空気がピンと張り詰めた。
赤く充血した目を伏せる猫耳褐色少女、シャーリア。
両拳を膝の上で握り締めたまま、唇を噛んでいた。
その隣には、戦騎士長グラウス。
顔に刻まれた皺がさらに深く沈み、表情は岩のように固い。
「……創造主様」
シャーリアの声は、震えていた。
「ごめんなさい……おらのせいで、ルナテミス様がっ!」
その言葉を遮るように、グラウスが立ち上がった。
「いや、シャーリアに罪はありません、天主よ。
すべては、愚拙の不徳の致すところでございますッ……!」
彼の拳を叩きつける音が、木の卓を震わせる。
「ルナテミス……。
彼女とは衝突も多かったが、あれほど誇り高き魂を持つ者は、他におりませんでした。
……それなのに、愚拙は、愚拙はッ!」
俺は二人の言葉を聞き、静かに首を振る。
「お前らに、何の罪もねぇよ」
低く、しかし確かな声だった。
「そんなもんがあるとしたら、創造主である俺ぐらいだ」
一瞬、重たい沈黙が落ちた。
誰もが俯き、何かを噛み殺すように黙っていた。
その空気を裂くように、俺はパンッと机を叩いた。
「――さて」
乾いた音が反響し、皆の視線が一斉に彼へ向く。
「お前らももう、分かってるだろうが、最後の終焉の穴が成長してやがるせいで、世界は終焉間近だ」
彼の片腕のない右肩が、淡く光を放っていた。
「だが――終わらせてたまるもんか。俺たちで、必ず世界を救うぞ!」
俺の言葉に、シャーリアは涙を拭い、グラウスは無言で頷いた。
その背後で、イグフェリエルが一歩前に出て、俺たちに告げる。
「事前に、千里眼を行使し、【東の海】全域を見渡したところ、終焉の穴らしきものは見つからなかった。
魔王ディアーナ・セリューヌのことだ。何らかの方法を用い、此方の目を欺いたのだろう。
――だが、最後の終焉の穴は、【東の海】……海底に広がる《魔界》『ヘルヴァナ=アスタロディア』の奥底に、必ず存在していると推察される」
イグフェリエルの言葉に追随するようにして、エリザシュアが言う。
「そして――魔王ディアーナがすべての首謀者であると発覚した以上、妨害は必至でしょう。
されども……必ずや、門番を討ち、終焉の穴を塞ぎましょう」
その場にいる誰もが、無言で決意を固めていった。
だが、俺の胸の奥ではひとつの影が蠢いていた。
(……本当に、ディアーナが首謀者なのか?)
瞼の裏に、あの男の微笑が過ぎる。
(仮にそうだとして、なぜ……? 何のためにこんなことを?)
疑念が胸を占める。
だが俺は、首を振って思考を断ち切った。
「理由なんて知ったこっちゃねぇ。
――何か、しでかそうっていうんなら、ぶちのめすだけだ」
◇
天界の大広間――エントランスホール。
雲を思わせる純白の大理石の床に、数多の天使たちが整列していた。
彼らの羽は一斉に輝きを放ち、光の回廊ができる。
イグフェリエルは、その中心に立つ大天使へと歩み寄る。
「シェラフィアス=エル=ヴァルハイル」
その声は、鐘の音のように響いた。
「此方が不在の間、貴殿が代理の救星神として、世界を希望で包みなさい。
必ず――此方は戻ってまいります」
銀翼の大天使シェラフィアスは跪き、深く頭を垂れた。
「仰せのままに、イグフェリエル様。妾にこの世界を、お任せくださいませ」
そして顔を上げ、俺を見据える。
「……創造主様。イグフェリエル様を、どうかよろしくお願い申し上げます」
俺は微笑んだ。
「あぁ、分かってるよ、シェラフィアス」
その瞬間、エリザシュアが転移の呪を紡ぎ始める。
魔術陣が花開き、光が空間を満たした。
眩い光が身体を包み、羽音が遠ざかっていく。
天使たちが一斉に翼を掲げ、祈りの声を重ねる。
俺たちは、天界を後にした。
――最後の終焉の穴へと向かう、決戦の旅路が始まる。
◇
転移の光が収まった瞬間――全身を叩きつけるような風と、暴れ狂う潮の轟音が襲った。
背後は切り立った崖。
前方には、空と海の境すら曖昧になるほど荒れ果てた嵐の海。
稲妻が空を裂き、波濤が牙をむく。
「ひゃあああっ!? 吹き飛ばされるッ!!」
シャーリアの悲鳴。
小柄な身体が風に煽られ、宙を舞いかけた――が、グラウスが咄嗟に腕を伸ばし、がっちりと掴み取る。
「ありがとー! グラウスちゃんぅ!!」
「……構わん」
涙目のまま叫ぶシャーリアに、戦騎士長グラウスはわずかに眉を緩めた。
「エリ! この嵐、なんとかしてくれ!」
「はいっ、ただいまっ!」
エリザシュアが杖を掲げ、空気を震わせるように呪文を紡ぐ。
「――エイジェン=ガードレッド=サークリア」
その瞬間、光の粒子が舞い上がり、俺たちを包み込む。
風が柔らぎ、波が遠ざかるように穏やかになった。
息を整えながら、俺は海を見下ろす。
「……はぁ、はぁ……。
そういえば聞いてなかったんだが、魔界がある海底には……どうやって行くんだ?」
イグフェリエルが静かに手を掲げる。
黒雲の裂け目から、一条の神光が差し込んだ。
海面が螺旋を描いて沈み、そこには、光の階段が――深淵の底へと続いていく。
「これより先、敵地ゆえ、緊急脱出の準備を怠るでないぞ、エリザシュア」
「えぇ、承知しております、イグフェリエル様」
俺たちは階段を降りようとした――そのとき。
海が爆ぜるように割れ、巨大な二匹の、深海魚のような怪物が姿を現した。
ぬめり、咆哮し、牙を剥く。
「何かが、来るぞッ!」
俺たちが各々、武器を構えるその瞬間――空に魔術陣が展開し、閃光が海を焼いた。
怪物たちは悲鳴を上げる間もなく、粒子となって消滅する。
そして目の前に、視点を動かすと、地面に何やら怪しげな魔術陣が、光を帯びて描かれている。
「……皆さんは、離れていてください。この魔術陣を、解析いたします。」
魔女エリザシュアが指先で印を結び、陣を透視する。
「……この魔術陣、どうやら深海へと繋がっております。
つまり――魔界へ。十中八九、魔王の罠でしょう。」
イグフェリエルが目を閉じ、千里眼を展開した。
=====
彼女の瞳に映るのは、玉座に座る魔王ディアーナ。
そしてあろうことか彼は、ゆっくりと神の視点を見据え――口角を吊り上げた。
『どうされましたかな、救星神イグフェリエル=テラ=オルディア。
罠など何処にもございませんよ。さぁ――疾くと、こちらへお越しください』
=====
イグフェリエルの顔が歪み、額を押さえる。
「――うぅッ!」
まるで頭に電流でも走ったかのように、苦痛の声を上げた。
「イグフェリエルっ!? どうしたんだっ、何かあったのか!?」
俺は慌てて彼女の体を支える。
神々しいその瞳が揺れ、歯を食いしばりながら彼女は言葉を絞り出した。
「……千里眼で、魔王の様子を確認したところ、此方に気づき、あろうことか話しかけてきたのだ……!
罠などないのだから、早くこちらへ来いとっ!」
息を呑む。
俺は思わず判断を仰ぐようにして、傍らにいたエリザシュアを見る。
彼女は静かに頷いた。
「……修一くん。貴方にお任せいたします。
わてちしたちは常に警戒を怠らないよう、準備しておりますので」
グラウスとシャーリアもまた、言葉はなくとも“任せろ”と瞳で告げてきた。
――行くべきか。罠の可能性もある。
けれど、今一度、あいつの真意を確かめたい。
もし、ほんのわずかでも話し合える余地や、誤解があるのなら――。
「……よし、行こう。」
俺はそんな希望を抱き、魔王が用意した転移陣の中心へと足を踏み入れた。
光が全身を包み、世界が白く反転する。
◇
光が収束し、視界がゆっくりと形を取り戻していく。
――そこは、まるで闇そのものが威厳を纏ったかのような空間だった。
黒曜石の床は鏡のように光を返し、無数の燭台が血のように紅い炎を灯している。
天井は遥か高く、漆黒の柱が空間を貫くように並び立ち、
その中央には、まるで世界の心臓を象徴するかのごとく――魔王の玉座があった。
息をすることすら許されぬ静寂。
無数の魔族の兵士が列をなし、玉座の左右には断罪の四骸。
そして、その中央。
冷たくも静謐な笑みを浮かべながら、玉座に腰掛ける魔王ディアーナが――俺たちを待っていた。
「――おや……これはこれは。創造様、そしてその随伴者たちよ。
よくぞ、此の終焉の座へお越しくださった――」




