第47話 理論に背いた天罰が、今、下る
天頂から垂れる光が、聖堂の空気を分断していた。
石の床は冷たく、祈りの声すら焼き付くほどの静謐。
俺率いる魔王軍断罪の四骸は、神殿の中の大聖堂に辿り着いた。
勇者ルナテミスが、真っ先に声をあげる。
「遅いではないか、修一!」
その声に重なるように、大魔女エリザシュアが冷静な調子で続けた。
「そろそろ、今何が起こっているのか、諸々の説明をしていただけますか。――修一くん?」
俺は一歩前に出て、言葉を探した。
喉が乾いていた。何から話せばいいのか、どの罪から解けばいいのか、迷いが絡み合ってほどけない。
「えっとだな……何から言えばいいだろうか……」
そのとき、大天使シェラフィアスが前に出ようとしたが――
漆黒の羽をひと振りして、それを静止させた者がいた。
イグフェリエル=テラ=オルディア。
彼女はゆるやかに進み出て、聖堂の中央で光を背に受けた。
「――この救星神認定選抜試験は」
その声は鐘の音のように澄み、聖堂の隅々まで響いた。
「皆様を抹消するために設けられた、偽りの儀でした」
その瞬間、空気が裂けた。
ルナテミスも、エリも、修道女リシャシェーラも、獣人バルググも、誰ひとり息を呑むことすら忘れたように沈黙する。
イグフェリエルは続ける。
「本来であれば、天界が一丸となり、皆様を遺跡に閉じ込め――抹消する計画でございました。
幸いにも今回は、その犠牲が生まれることはございませんでしたが……。
“苦しむように殺害せよ”と此方が命じたのは、確かでした」
彼女の瞳が、静かに揺れた。
「シェラフィアス=エル=ヴァルハイルをはじめ、他の天使たちに一切の非はありません。
もし裁きが必要とされるのなら――」
光の翼が大きく広がり、聖堂全体が黄金に染まる。
「この身を、焼きなさい。
裁くなら、このイグフェリエル=テラ=オルディアを!」
その声音に、怒りも悲嘆もなかった。
ただ静かな覚悟だけがあった。
だが、俺はそれを止めた。
「違ぇよ、イグフェリエルにも罪なんかねぇ」
勇者ルナテミスが問う。
「……どういうことなのだ、修一?」
俺は唇を噛み、続けた。
「イグフェリエルは……騙されてたんだ。俺たちを殺すように命じられたんだよ。
“俺じゃない創造主”の理論構築によって、な」
その言葉が落ちた瞬間、場がざわめいた。
「べ、別の創造主、さま……?」
「へぇ~、創造主様って複数人いるんすね!」
だがその一方、ルナテミスとエリたちは違った反応を見せる。
「理論構築……!?」
自らに刻まれた理論を感じながら。
「有り体に言えば、そいつが全部の黒幕だ」
俺は拳を握りしめ、天を仰いだ。
「だから天使たちのことは許してやってくれ! 頼むッ!」
沈黙。
冷えた風がステンドグラスを抜けて、誰の胸にも行き場をなくしていた。
――その時。
軽やかな声が、沈黙を断ち切った。
「ボクちゃんたちを殺そうとしてたのが事実でも、今こうして生きてるんすから、どうでもよくないっすか?」
断罪の四骸ザルギエスだった。
肩をすくめながら、いつもの軽薄な笑みを浮かべている。
「……確かに、今、俺様たちは生きている」
続いたのは、獣人バルググの低い声。
「生こそ救済ですからね」
リシャシェーラが静かに両手を胸に当て、微笑む。
その瞬間、天使たちの表情が崩れた。
光の羽根が揺れ、涙が頬を伝う。
赦されたわけではない――けれど、赦しが生まれようとしていた。
涙が落ちる音、安堵の息、心臓が脈打つ微かな響き。
それらすべてが、赦しの鐘に聞こえた。
神殿の大聖堂——。
その荘厳なる空気は、まるで時間の流れすら聖域に留めるかのようであった。
天蓋を照らす光は白く、重苦しい沈黙を金色に縫いとめる。
ルナテミスが一歩、前へ。
「……色々、ひとりで思い悩んできたのだろう。ならば我が、いくらでも慰めてやる」
その声音は戦場で剣を掲げるときのように強く、だが優しかった。
続けてエリが歩み寄り、静かにその肩へ手を置く。
「イグフェリエル様。もう……大丈夫ですよ」
その言葉は、氷の封印を溶かす春風のように柔らかく。
後ろをシャーリアとグラウスも優しさで包み込む。
イグフェリエル=テラ=オルディアは、一瞬きょとんと目を瞬かせた。
そして——。
瞳の奥から零れた一粒の涙が、頬をなぞり、聖衣の金糸を濡らした。
「……ありがとう、ございます……」
心の中ではまだ、複雑なものを抱えながらも、ただ今は感謝を伝える。
だが、その安堵を断ち切るように。
俺が前へ進み、声を張った。
「皆、安心しきるのはまだ早い!」
聖堂に響くその声は、雷鳴のごとく。
「このままでは、天使たちが理論に背いたことで、天罰が下るだろう」
俺は祭壇へと歩き、そこに佇む像へと手を伸ばす。
「だから、協力してほしい。お前たちの力が必要なんだ!」
重苦しい沈黙。聖堂に満ちる光の粒が、わずかに揺らめいた。
そして、場の空気を裂くように、シャーリアが声を上げる。
「て、天罰って……何が、起こっちゃうんみゃおかー!?」
その声には、幼い不安と焦燥が滲んでいた。
大天使シェラフィアス=エル=ヴァルハイルが、ゆるやかに目を伏せる。
白銀の翼を広げながら、静かに――けれどどこか怨嗟のこもった響きで口を開いた。
「……悪魔が、昇ります」
その声音は氷よりも冷たく、深淵の底から響くようだった。
「闇の底より形を帯び、かつて妾たちが堕とした魂たちが、呼応するようにして、現れるのです」
空気が軋む。誰もが息を止めた。
シェラフィアスは沈黙の後、さらに続ける。
「かつて昇天した際にも――彼らは軍勢を成し、世界を食い荒らしました。
神をも嘲笑うように、街を、魂を、祈りを――全てを、糧としたのです。」
その語りは、まるで記録をなぞるようでありながら、確かな実感があった。
シェラフィアスの瞳が、ほんのわずかに震える。
「……けれど、幸いにも――その時、一人の存在が命を捧げ、理論に再び従う姿勢を見せたことで、消滅していきました」
言葉の終わりとともに、大天使は俯いた。
沈黙が聖堂を支配する。
その翡翠のような瞳が、わずかに横へ――
祭壇のそばに立つ俺を、一瞬だけ、横目で見た。
その視線は告発でも非難でもない。
ただ、痛みと記憶を宿した懺悔のようだった。
バルググが腕を組み、獣の瞳を細めた。
「では、協力……というのは、どうすればよいのでしょう?」
俺は振り向かず、静かに答える。
「まずは、最終試験に集った四陣営、それぞれの代表が一人ずつ。この像に手を重ねてくれ」
祭壇の中央——。
女神のような造形を持つ像が、淡い光を宿していた。
それはまるでイグフェリエル自身を模しているかのようだった。
「それをすれば……何が起こるのですか?」
リシャシェーラが恐る恐る問う。
俺は短く息を吸い、答える。
「——“救星神の指輪”が現れる」
その瞬間、空気が裂けた。
大聖堂の誰もが身体を震わせ、視線を交わす。
「その指輪を使って、“救星神の間”に行きたい。
――そうすれば、きっとすべての謎が解け、すべてを解決できるはずだから」
俺の声が、石壁に反響して微かに揺れる。
外では――遠くから、低く唸るような音が聞こえていた。
地の底から這い上がってくる何かの鳴動。
天罰の前兆。
世界が軋み始めている。
俺は拳を握り、続けた。
「だが、天罰によって大量の悪魔が出現し、行く手を阻むだろう。
お前たちには、俺とイグフェリエルがそこに辿り着き、天罰を止めるまで、奴らの足止めをしてほしい。
それに協力してくれるなら……誰が神の座につこうと構わない!」
俺の叫びに、真っ先に動いたのはバルググだった。
彼は大きな手を像に重ねる。
「……いいでしょう、創造主様。協力いたしますぜ」
バルググは牙を見せて笑った。だがその瞳は、どこか遠くを見ていた。
「けどな……俺様はもう、そんなもの——“神の座”なんざ欲しくねぇ」
拳をゆっくりと握りしめ、胸に当てる。
「俺様がなりてぇのは、“神”じゃねぇ。“英雄”だ。
命を懸けてでも、誰かを救える、そんな男に——それで十分だろ?」
白衣の修道女リシャシェーラがそっと手を伸ばした。
「……先程、天使を庇い、己を顧みず矢面に立たれたあのお姿——」
彼女はまぶたを伏せ、かすかに息を震わせた。
「まさしく、拙がかつて信じ、愛した“救星神”の御姿でございました。
あの御方こそが、真に光を導くお方……」
その瞳がゆるやかに開かれ、聖堂の光を受けて淡く煌めく。
「故に、拙は今回……その座を辞退いたします。
既に、この身よりも救星神に相応しき御方が、ここにおられますゆえ」
言い終えると、リシャシェーラは静かに微笑んだ。
その視線の先には、イグフェリエル。
まるで、永遠の信仰と慈しみを重ねるように、柔らかく、穏やかに。
最後にヴァルティーアが無造作に前へ出て、面倒くさそうに手を添える。
「名無しちゃんはもとより、指輪なんてどうでもいい。
ここに来たのは、そういう“筋書き”だったからだ」
背後ではネクロフィリアが悔しげに呻く。
「うぅ……我が愛娘を神様にしたかったのだが……」
「どんまい、どんまいっすっ!」
それをザルギエスが肩を叩き、笑って慰めた。
俺、バルググ、リシャシェーラ、ヴァルティーア。
そうして——四つの陣営の手が、ひとつの像に重なった。
静寂。
そして、光。
像が白金に輝き、風が巻き上がる。
次の瞬間——天井を貫く光の柱の中から、ふわりと一つの指輪が降りてきた。
それは、まるで天の赦しそのもののように。
静かに、聖堂の空へ舞い降りた。
——光が、降る。
眩い輝きは、音もなく大聖堂を満たし、全ての影を押し流した。
俺の掌の中には、あの指輪があった。
冷たく、それでいて脈打つような温度を宿す、神造の光輪。
俺は一歩、また一歩と、ゆっくりとイグフェリエルのもとへと歩み寄る。
その姿はまだ震えていた。己の罪を、赦されぬまま抱えている少女のように。
だから俺は、静かに膝をついた。
「……イグフェリエル」
その名を呼び、彼女の左手を取る。
細く透き通るような指先。
左手の薬指。
そこに、俺は指輪を嵌めた。
瞬間、世界が反転する。
白光。轟音。
天蓋を貫く光柱が立ち昇り、イグフェリエルの身体を包み込む。
裂けたはずの黒き羽根はひとつひとつ再構成され、闇から生まれた白金が花のように咲いていく。
衣は救星神の装束へと変じ、胸元には神紋が浮かぶ。
幾何学的な光輪が背から幾重にも広がり、黄金と青の律動を描いて回転した。
そして彼女は——地を離れ、空へ浮かぶ。
聖なる浮遊のまま、目を閉じ、薄く微笑む。
まるでこの世そのものが、彼女を中心に回り始めたようだった。
――救星神《イグフェリエル=テラ=オルディア》は、此処に再臨する。
ルナテミスは思わず手で口を押さえ、驚嘆を隠せない。
「おぉ……見事だ。これこそ、我が尊敬した救星神の姿だ!」
エリも笑う。
「ふふ、少し前まで引きこもり生活していた方とは、到底思えませんね」
皆が褒め称える中で、俺は口の端を上げた。
「おぉ……あのデブちんが、よくぞここまで……」
——バチィィィン!!!
雷が、落ちた。
正確には、俺の頭の上に。
「ぎゃああッ!? ちょっ、おま、痛っ……!」
煙を上げる俺を見下ろしながら、イグフェリエルは静かに、しかし威厳に満ちて告げた。
「——此方を愚弄した天罰なりや、修一様」
その声音は、かつての気弱な引きこもりのものではなかった。
威光と審判を司る上位存在の声。
一言で世界を焼き払えるとすら錯覚する、そんな力があった。
「い、いや、その……褒め言葉のつもりで……!」
「詭弁。……だが良い。貴殿の不遜もまた、此方の希望で照らそうぞ」
そうして、軽口を交わしたその瞬間だった。
空間が、歪んだ。
神殿の壁が波打ち、聖堂の床が砂のように崩れ落ちていく。
次に瞬きをしたとき——そこはもう、遺跡の入口だった。
眩しい陽光、風の匂い、鳥の声。
気づけば皆、先程いた空間とは別の場所にいた。
エリが解説する。
「おそらく……“救星神”が誕生すれば、自動的に遺跡の前へと転移させる……そういう術式が編まれていたのでしょうね」
風が吹く。
熱と冷気が交錯し、風は唸り声をあげて砂丘を駆け抜ける。
空には渦が生まれ、赤く染まる陽光が散乱し、彼らの影を長く引き延ばした。
——世界が、鳴った。
天そのものが軋むような轟音。
風ではない。地鳴りでもない。
まるでこの遺跡そのものが、悲鳴を上げているかのようだった。
遺跡の奥、崩壊した大聖堂の裂け目から、
それは、這い出てきた。
――ずるり、ずるり、と。
壁面を削りながら、漆黒の腕が伸びる。
指の代わりにねじれた角、背には腐蝕した翼など姿は多種多様十人十色千差万別。
数千、数万の影が重なり合い、怨嗟の声をひとつの咆哮へと変えて世界に叩きつけた。
――そうそれは、地獄の悪魔のように。
イグフェリエルは宙に浮かび、両の手を組む。
その眼が、微光を帯びる。
「……これが、悪魔——!
此方たちが……かつて葬り去ってきた者らの、悔恨の結晶……!」
声が震えながらも、続けて言い放つ。
「そして、理論に背いた此方たちへの、”天罰”――ッ!!」
――最終試験の受験者を殺さずに、救星神認定選抜試験を終えたことによる鉄槌が、今、下る。
次の瞬間、黒い奔流が押し寄せる。
悪魔たちが一斉に地を蹴り、爪を振るい、翼を羽ばたかせ、
光の側へ牙を剥いた。
「来るぞォッ!!!」
ルナテミスが叫び、聖剣が閃く。
空気を裂く蒼光の軌跡が、悪魔の頭蓋を真っ二つにした。
「修一! イグフェリエル!」
ルナテミスが振り返り、怒号のように叫ぶ。
「そちらには——やるべきことがあるのであろうッ!!
ここは我らに任せたまえッ!!」
その言葉に、エリが静かに頷く。
「行ってください、修一くん。
遺跡の中では魔術が使えませんでしたが、ここでならいくらでも暴れられるッ!」
そういって何重にも重なった魔術陣を展開する。
シャーリアは俺に満面の笑みを見せ、巨大な竜に変身して悪魔を薙ぎ払う。
グラウスは無言で剣を構えたまま、ただ目で託す。
俺は、唇を噛んだ。
「……すまねぇ。ありがとう!」
そしてその瞬間、イグフェリエルが俺の腕を掴んだ。
その手は冷たくもあり、どこか熱かった。
「修一様、此方に捕まれ」
声は澄んでいて、どこか神々しい。
「救星神であれば、如何なる場所であろうと——天界に迎えるのだ」
「了解ッ!」
俺はその手を強く握りしめた。
眩い光。
次の瞬間、地上が遠ざかる。
重力の感覚が消え、身体が引き裂かれるような浮遊感に包まれ、
気づけば——そこは、天界だった。
白い雲の層を貫き、城が立ち並ぶ。
空気は甘く、光そのものが形を持って流れている。
俺たちは城の中を駆ける。
長い回廊を抜け、青い光が滲む扉の前で立ち止まった。
扉には古代神文が刻まれ、指輪に共鳴して微かに輝く。
「此処が……救星神の間だ」
イグフェリエルが呟く。
彼女が左手をかざした。
指輪が淡く脈動し、——開く。
扉の向こうには、雲のように白く柔らかな空間が広がっていた。
壁も天井も曖昧で、どこまでも淡く、温かい。
中央には大きな机と椅子、古書が幾重にも積まれ、風にページがめくれる音だけが響いている。
だが——その空間の奥。
それはあった。
虚空に穿たれた時空の裂け目。
渦巻く闇がゆっくりと回転し、
まるでこの世界の“理”そのものを飲み込もうとしている。
「……終焉の穴」
イグフェリエルが小さく呟く。
俺はその光景を見つめながら、眉を寄せた。
「どうしてだろうな、門番の気配がないぞ」
沈黙。
風の音も、呼吸の音も、すべて吸い込まれるような空虚。
「やっぱりか」
俺は小さく呟き、背後の扉をゆっくりと閉めた。
「修一様、なぜ扉を閉じる?」
イグフェリエルの声は静かだが、どこか警戒を孕んでいる。
俺は振り返らずに答えた。
「こうすれば——俺とお前のふたりきりだ」
そして振り向き、彼女を見据える。
「もう、茶番は終わりだ」
空気が震える。
イグフェリエルの微笑が、凍りついた。
俺は静かに告げた。
「すべての種明かしといこう。
——救星神、いや、“終焉の穴の門番”……イグフェリエル=テラ=オルディア」
その瞬間、白い空がざらりと揺らぎ、終焉の穴が動揺したように蠢く気配がした。




