第45話 今度は俺が役に立つ番
大魔女エリザシュア、シャーリア、グラウス、そしてイグフェリエルは、かれこれ数時間もこの薄暗い遺跡を彷徨っていた。
石壁は汗を吸い込み、遠くの水滴の音が時折、静寂の底を叩く。
「ふぅー、お腹ぺこぺこになってきましたみゃおー! ねぇ、イグフェリエル様!」
シャーリアの声がこだまする。
「は、はい……わ、此方も……こっそりスナック菓子のひとつでも持ってくればよかったです……」
どこか現実感のない、能天気な会話。
しかしその軽さが、緊張で張り詰めた空気の中で唯一の救いでもあった。
一方で、グラウスの目だけはずっと鋭かった。
「……大魔女様。この道、以前にも通ったことがある気がします」
そう言って彼は壁の一点を指さした。
「ほら、これを。愚拙がつけた傷だ」
エリザシュアははっとして振り向き、壁を撫でた。
「……申し訳ありません、グラウス様。
流石に疲労が激しいせいか、わてちしは……失態を働いてしまったようです……」
その瞬間、ふらついている彼女の足元で、“カチリ”と乾いた音が響いた。
空気が凍る。
「エリザシュア様ッ! 危ないッ!!」
イグフェリエルが叫ぶ。
次の瞬間、石床が裂け、黒い奈落がその口を開けた。
風が逆巻き、エリザシュアの身体が吸い込まれていく。
彼女は死を覚悟して、そっと目を閉じた——が。
「エリッ!!」
その声が、確かに世界を掴み戻した。
重力を嘲笑うように、誰かの手が彼女の腕を掴む。
強い、懐かしい、熱のある掌。
エリは目を開けた。
そこにいたのは——
「……修一くん……!」
汗と土にまみれた顔。
それでもどこか、光を宿していた。
田島修一――俺は静かに笑い、言った。
「言っただろ。今度は俺が役に立つ番だってさ」
力強く引き上げられた瞬間、床は再び元の形に閉じた。
彼女は震える手で胸を押さえ、息を整えながら問う。
「修一くん……もう大丈夫なのですか? その……心の方は……?」
俺はしばし黙り、少し離れた場所に立つ勇者ルナテミスを指差した。
「おかげさまでな。
あいつのおかげで、今なら何だってできる気がする」
彼女は何も言わず、ただ少し誇らしげに微笑んだ。
俺はエリを立たせ、埃を払いながら、そっとイグフェリエルを見た。
イグフェリエルは、その視線に気づいた途端、びくりと肩を震わせる。
「お前は後でな」
「……は、はい」
少女のように小さな声で、イグフェリエルは頷いた。
俺は深く息を吸い、皆の顔を見渡した。
その瞳には、かつての迷いも、絶望もなかった。
ただ一つ、決意だけが宿っている。
「——これからこの遺跡を完全攻略する! 遅れるなよ!」
その叫びは、暗闇の中で火種のように弾けた。
俺は駆け出す。
仲間たちが続く。
死の迷宮を、光を取り戻すために。
迷宮の風が、ふたたび生きていた。
――足音が重なる。
俺はもう迷わない。
過去の俺が、何度も死んで、学んだ“最短”のルートを、今度は確信とともに駆け抜けていく。
ルナテミスが、走りながら俺の隣で問いかけてきた。
「修一、走りに無駄がないように見えるが……まさかこの遺跡に覚えがあるのか?」
エリも驚いたように息を切らせながら言う。
「そうですよ! わてちしたちがあれだけ彷徨った迷宮を、こんなにも堂々と……!」
俺は口角を上げた。
「まぁ、それに関しては企業秘密だが、俺は創造主だからな。
それくらい当然とでも思っといてくれ」
そのとき、後方から豪快な声が響く。
「さっすがおらたちの創ちゃん! 天才で万能でイケてるメンズの男ってのは――あぁ、彼のことよぅっ!!」
シャーリアが歌舞伎口調で持て囃し、グラウスは腕を振り上げて口にする。
「創造主様万歳三唱音頭、唄います!」
「いや唄うな!」
思わず突っ込みながらも、心のどこかがじんわりと温かくなっているのを感じた。
あぁ、やっぱり――仲間がいると力が湧いてくる。
……その瞬間だった。
「ウギャアアアアアアァァァアアアアアアアアア――ッ!!」
獣の咆哮が、迷宮の深奥に木霊する。
俺たちは一斉に顔を上げた。
流れ出る水音。
階層を越える滝のような斜面に、巨大な獣人の影が見えた。
激流が三人を飲み込もうとしていた。
「お前らっ、俺様のことは見捨てろっ! 巻き添えになっちまう!」
バルググの叫びが、水音にちぎれながら響く。
鳥人の女が涙声で叫び返した。
「嫌よっ! あなた仲間だものっ!」
虫人も歯を食いしばりながら続ける。
「そうだノニ! バルググは、こんなところで死ぬ男じゃないノニ!」
俺はマントを脱ぎ捨てた。
「お前たちはここにいろ!」
そう叫んで、躊躇なく川へと飛び込む。
冷たい水が肺に突き刺さる。
流れが速い。
視界は泡に包まれ、上も下もわからない。
それでも、ただ一筋の腕を探して手を伸ばした。
「――バルググっ! 俺の手を取れッ!」
獣人が、驚愕に目を見開いた。
「なんで……エセ創造主のお前が俺様を……! お前は“創造主”なんだろ!?
俺様みたいな、何の役にも立たない奴なんか放っといて、もっと……世界のためになるやつらを救えよッ!!」
激流の中で、俺はその言葉にかすかに笑う。
「――英雄になりたいんじゃないのか?」
その一言が、彼の心臓に届いたのがわかった。
バルググの目が大きく開かれ、鳥人と虫人も同時に息を呑む。
「どうして、それを……」
轟々と唸る水音の中、俺は歯を食いしばった。
腕の中で、バルググの筋肉が悲鳴を上げる。
濁流が全身を押し流そうとする。だが――俺は離さなかった。
「――英雄になりてぇ奴が、こんなところでくたばってんじゃねぇぇぇぇッ!!!」
怒鳴り声とともに、全身の力を解き放つ。
渦巻く水を裂くように、バルググの巨体を岸へと引き上げた。
獣人が地を掴んだ瞬間、俺の足場が崩れる。
視界が揺らぐ――次の瞬間、奈落が俺を呑み込もうとしていた。
「修一くんっ!!!」
その声とともに、いくつもの手が伸びた。
グラウスが岸で支え、
その次をシャーリアが、
さらにイグフェリエルが、
ルナテミスが――そして最後に、エリザシュアが俺の手を掴んだ。
連鎖的に繋がれた絆が、俺を引き戻す。
エリは汗を光らせながら、それでも口の端を上げて言った。
「――誰が、誰の役に立つ番ですって?」
その瞳には、俺へのからかいが含まれていた。
俺は苦笑しながら言い返す。
「すまねぇな」
六人の影が、一斉に地上へと引き上げられる。
息が切れて、視界が明るくなる。
ようやく――全員が無事だった。
その場に膝をついたバルググは、荒い息の合間に言葉を絞り出した。
「俺の命を助けてくださり……ありがとうございます、創造主様……!」
その隣で、鳥人と虫人も深々と頭を下げる。
「お救いくださり、感謝いたします!」
「創造主様のおかげで助かったノニ!」
そしてバルググは拳を握り、地に額をつけた。
「今まであなたに対して行った、あらゆる無礼――この場をもってお詫び申し上げます!」
俺は頭を掻きながら笑った。
「気にすんなよ、バルググ。誰だって間違いの一つや二つ、あるさ」
だが、その直後にエリザシュアが横からじろりと睨んできた。
「本当に……これでよろしかったのでしょうかね、修一くん?」
横でグラウスが「うんうん」と真面目に頷いている。
俺は肩をすくめ、少しだけ意地悪く笑う。
「おいエリ、お前――北の森で、俺を殺そうとしたくせによくそんなこと言えるな?」
「ぎ、ぎくっ!」
エリは顔を引きつらせ、くるりとバルググへ向き直る。
「バ、バルググ様、人は変われるのです! だから、互いに頑張りましょう! そう、わてちしのようにねっ!」
バルググはぽかんとしながらも、静かにうなずいた。
「は、はい……」
少しの沈黙ののち、バルググが思い出したように俺に尋ねた。
「……そういえば、創造主様。
どうして俺が英雄になりたいことを……ご存じだったのですか?」
俺は一瞬だけ視線を落とし、そして遠くを見た。
「さぁな。――昔、俺が知り合いの“英雄”に、少し似てたからかもな」
バルググはその言葉を噛みしめるようにうつむき、やがて顔を上げた。
「……では、その英雄殿になれるよう、恥じぬよう日々邁進してまいります」
俺は軽く拳を突き出した。
「いい返事だ、バルググ!」
瓦礫の隙間から、差し込む光が彼の背を照らしていた。
「お前たちも、ついてこい。」
俺が言うと、バルググは一瞬戸惑った顔をした。
「俺たちはこれでも、救星神認定選抜試験の――敵どうしのはずですが、よろしいのですか?」
俺は振り返りもせず、声を張った。
「試験だなんだのは、俺が全部終わらせる! だから、ついて来い!」
言い終えると同時に走り出した。バルググも、鳥人も虫人も、その後に続く。
石板を蹴る足音が迷宮にこだまする。
だが数歩行くと、どこかから女の叫び声が裂けるように響いた。
「きゃあああああ!!」
足音を急がせ、その声の方へ向かうと、信徒たちが取り囲む炎の塊の中に、赤い衣を翻すリシャシェーラの姿があった。
炎は彼女を取り巻き、まるで祈りの灯台のように揺らめいている。
信徒たちは口々に「リシャシェーラさまぁ……!」と繰り返しながらも、近づいては上体を震わせて手を伸ばす。
だが彼らの手はどこか遠慮がちで、炎の熱の前で尻込みしている。
リシャシェーラは、天を仰ぎ、両手を胸の前で組んで祈りのポーズを崩さなかった。顔は静かに、しかし狂おしいほど確信に満ちている。
「来てはなりませんっ! お忘れになったのですか、死こそが救済なのです!
拙は天の導きに従い、先に救済の彼方へ参ります!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中の何かが煮えたぎった。
言葉だけの“理想”を掲げて、人を焼き尽くすなんて真っ平だ。
足が止まる間もなく、俺は炎の中へ飛び込み、リシャシェーラを抱き上げた。
火花が飛び散り、俺の服の裾が赤く焦げた。
だが燃焼の痛みなど気にならない。素早く手のひらで火を払うと、リシャシェーラの肩を抱えて引き離す。
あとは、気迫で脱け出す。息が荒くなり、熱が肌を刺す。
そうして、炎から逃れた俺は、大きく息を吐いた。
「はぁ……死ぬかとオモッタぜ!」
とつい本音が漏れる。
リシャシェーラは目を見開き、震える声で俺を睨んだ。
「創造主様、な、なぜ拙をお助けになられたのですかっ!
死こそが救済だというのにっ!!」
俺はふっと笑って、突如リシャシェーラの額を弾いた。
軽いデコピンだ。
驚きに目を見開く彼女に、俺は真剣な顔で言った。
「お前、本当は生きたいんじゃないのか?」
彼女が「そんなわけありま――」と反論しかけたその瞬間、俺は指先を伸ばして彼女の頬に流れる涙を指で弾いた。
ぺっと、俺はそれを指で示す。
「涙、出てんぞ」
リシャシェーラは、震える指先で涙を拭った。
泣いてなどいない――そう言い訳するように、掌で頬をなぞる。
けれど拭っても拭っても、次の滴が溢れてくる。まるで胸の奥に積もっていた氷が、ようやく春を知ったかのように。
俺はゆっくりと歩み寄り、静かに言葉を紡いだ。
「……お前は、今まで本当によく頑張ったな。いろんなことがあって、何度も死にたいと思ったはずだ。
もういい。もう苦しまなくていいんだ。
お前が、もう二度と、あんな目に遭わないような世界を……俺が作ってやるから」
その声は、炎のようでいて優しく、どこか懺悔にも似た祈りの響きを帯びていた。
リシャシェーラの肩が、小さく震える。瞳が揺れ、頬が紅潮していく。
彼女は唇を噛みしめ、そして――まるで恋を知った少女のように、涙の中で微笑んだ。
「……はい……」
その返事は、ひとひらの花弁のように脆く、それでいて世界のすべてを肯定するような、静かな光を孕んでいた。
俺は肩越しに信徒たちの顔を見渡し、声を張った。
「これは、お前たちにも言ってることだが……
次に“死こそが救済”とか抜かしやがったら、そのときは――ぶっ殺すんで、よろしく!」
一瞬、場が凍ったように静まる。
信徒たちの目が丸くなり、口元に戸惑いの色が浮かぶ。
だが、そこに微かな安心と敬意が混ざる温度も現れた。
そのとき、横でエリザシュアが小首をかしげて、指を一本立てるようにして言った。
「それ、少々矛盾しておりませんか、修一くん?」
「別にそんなこと、いいじゃねぇか。――そんなことより、行くぞ!」
俺の背後で、リシャシェーラが裾をたくし上げながら駆け、その更に後ろを信徒らがついてくる。
紅く染まる地平を抜けると、そこには――あの“赤の森”が広がっていた。
木々が天井に逆さまに根を張り、枝葉が地面を撫でる。風は止み、赤い靄が静かに揺れていた。
それはまるで、天地が裏返った楽園の墓標。
ルナテミスが息を呑む。
「……何なのだ、この赤い森は」
エリザシュアが低く呟いた。
「分かりません。
ただ堪らなく不吉な予感はします」
しかし俺は、そんな二人の感想を聞き流し、鋭く前を睨む。
「感想言ってる場合じゃねぇ! 行くぞ、塔の中だ!」
俺の声が響いた瞬間、空気が震える。
一同は駆け出し、森の奥、逆さ樹海の中央にそびえる黒鉄の塔へと走る。
塔の中は闇に沈み、階段は崩れ、天井からは錆びた鎖が垂れ下がっていた。
足音だけがこだまする。
――その時、金属を擦るような音が暗闇の奥から聞こえた。
「……来たな!」
闇を割って現れたのは、巨大な斧を携えた悪魔。
煤けた鉄の皮膚、仮面のような獣の頭。
足を踏み出すたび、塔全体が呻いた。
ルナテミスとグラウスが同時に前へ出ようとするが、俺は片手で制した。
「待て」
その一言に、場が凍る。
そして俺は一歩、悪魔の方へと進み出た。
「……シェラフィアス=エル=ヴァルハイル。俺だ。お前の創造主だ。」
その名を聞いた瞬間、場の空気が変わった。
シャーリアが目を見開き、グラウスの腕を引く。
「シェラフィアス=エル=ヴァルハイル……って、大天使のシェラフィアス様のこと!?
創ちゃん、何言ってるのかな、グラウスちゃん!?」
グラウスは眉を寄せたまま、低く呟く。
「……創造主様のことだ。
おそらく、裏の事情を知っておられるのだろう。」
悪魔は、無言のまま立ち尽くしていた。
そして――その手が、ゆっくりと“頭”を掴む。
ぐしゃり。
着ぐるみのような仮面が外される。中から現れたのは、光を帯びた白い髪と透き通る肌。
さらにその下――鉄の鎧が裂け、闇を照らす一対の羽が広がった。
幾何学的な文様を描く光輪が背後に浮かび、塔の闇を押し退ける。
「な……まさか……」
ルナテミスも、エリも、皆が息を呑む。
自然と膝をつくほどの威光。
そこに立っていたのは、かつて天界で出会った大天使――
シェラフィアス=エル=ヴァルハイル。
彼女の白衣は光を孕み、背中の羽が微かに震えるたび、聖歌のような音が空気を満たす。
その姿は、まるで神話の頁から抜け出した生きた奇跡だった。
「……どうして妾が、大天使シェラフィアスだと、お分かりになられたのですか。創造主様」
シェラフィアスの声は澄み、どこか懐かしさを帯びていた。
俺は、口の端を上げて答えた。
「何言ってんだ。――“過去”で会ったじゃないか」
軽く肩をすくめながらも、その目だけは真剣だった。
「……もっとも、あの時の俺は、今の姿じゃなかったかもしれないがな」
“過去”――その言葉に、イグフェリエルの瞳がわずかに細まる。
そうだ。
俺は彼女を知っている。
俺が、かつて遺跡のループの中で出会った“斧の悪魔の中に潜む少女”の存在を。
そして今、目の前に立つこの大天使こそ――その少女が“成長した姿”なのだ。
シェラフィアスの瞳に、光が戻る。
震える唇が、言葉を紡ごうとする。
「で、では……御身は……あのときの!」
俺は、柔らかく笑った。
「――こんなに大きくなるまで待たせちまったな。
……助けに来たぞ、シェラフィアス。」
その瞬間、塔の天井に光が走った。
赤黒い闇を切り裂き、世界が再び息を吹き返す。
沈黙の中、シェラフィアスの頬を、一筋の涙が伝った。




