第44話 俺は、誰だ
魂が抜け落ちたような感覚――身体の奥から何かが消え失せ、思考も感情もすべてが空洞に吸い込まれる。
俺はただ茫然自失のまま、その場に倒れこんだ。
冷たい砂の感触が肌に伝わるが、それすらも現実味を帯びない。
目の前の光景も、音も、すべてが遠く霞んで見える。
そのとき、力強い腕が俺の背を支え、ゆっくりと立たせる感触が伝わった。
「……修一?」
ルナテミスの声。
俺の視界に映るのは、間違いなく知っている姿の彼女だった。
さらにエリ、シャーリア、グラウスも駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか、修一くん……?」
「創ちゃん、しっかりしてにゃろす!」
「どうなされたのだ! 創造主様っ!」
それぞれが心配そうに声をかけてくる。
けれど、その言葉は、遠くで鳴っている音のようにしか耳に届かず、意味はほとんど頭に入らなかった。
その瞬間、遅れてイグフェリエルの声が割り込む。
「修一様……!」
――あ、あぁ……。
俺は、先程目にした、無惨なイグフェリエルの姿を思い出してしまう。
血まみれで、無力に打ち据えられ、神聖さすら感じさせるその亡骸のイメージが脳内に焼き付く。
「ぎゃあああああ嗚呼ァァぁああアアア!」
俺はその瞬間、大声を上げて発狂した。
叫び声は自分のものかもわからず、空気を震わせ、壁や天井を叩き割るような錯覚に陥る。
大魔女エリザシュアが慌てて駆け寄り、俺の身体に手をかざす。
「外傷は見られません! ですが……精神が完全に壊れてしまっています!」
彼女は俺の身体を解析した結果を、報告し始める。
「感情を整理する心の器が、粉々に砕かれ……思考と意識がねじれ、現実と幻想の境界が溶け、魂の軸が完全に崩れているんです……!」
長々とした説明のひとつひとつが、俺の脳裏にぐるぐると渦巻き、理解できる言葉すら幻想の中で踊るだけだった。
シャーリアが震える声で問いかける。
「え……どうして急にこうなっちゃったんですみゃおか、創ちゃんは!」
グラウスは己を責めるように唸る。
「外敵から、幻覚の術でも浴びせられたのか!?
くそっ! 愚拙がいながら、何という不覚ッ!!」
そんな混乱の中で、勇者ルナテミスは静かに言った。
「我が、修一の傍にいて面倒を見る。
そちらは、最終試験に挑んで来い」
エリが口を挟む。
「いえ、修一くんの傍にいるのは、わてちしが適任だと思います!!」
しかしルナテミスは、落ち着いた声で告げた。
「いや、よいのだ、エリザシュア。
恐らく修一をこうさせてしまったのは我の責任でもある。なればこそ、我が修一とともにおらねばならぬのだ」
彼女はその言葉に納得したように頷き、静かに言う。
「……それでは、よろしくお願いいたします、ルナテミス様」
シャーリアは力強く言った。
「創ちゃん! 絶対イグフェリエル様を救星神にしてくるから、待っててね!」
グラウスも声を上げる。
「創造主様を、どうか頼む。ルナテミス」
そしてエリたちは、遺跡の中へと駆け入っていく。
その間、イグフェリエルは俯きながら、俺の方をじっと見つめる。
「……修一様……」
その声は小さく、か細く、しかし心に刺さる。
そして彼女もまた、遺跡の中へと歩みを進めていった。
遺跡の中に魔女エリザシュアたちが進んでいくのを確認すると、ルナテミスは満面の笑みを浮かべ、背筋をピンと伸ばして言った。
「よし、我らも行くか、修一!」
その言葉と同時に、彼女は背中で俺を支えながら歩き出す。重さは思ったより軽く、しかし心地よく、俺の身体を預ける感覚が奇妙に安心させる。
地割れの壁に沿って造られた階段を上り続ける間も、ルナテミスは明るく話しかけてくる。
「修一! お前……男のくせに、この身体、まるで紙細工じゃないか!」
ルナテミスが俺の肩を掴み、ぐいっと引き寄せた。
真剣な顔。
けれどその瞳の奥には、呆れと心配がないまぜになっている。
「見ろ、その腕! 風が吹いたら飛んでいくぞ!」
言いながら俺の腕を掴み、軽く持ち上げる。まるで羽のように。
ルナテミスは大袈裟に嘆息し、ぐっと拳を握った。
「いいか、修一。肉だ! 肉を喰え! 肉を喰って、血を熱く滾らせろ!」
軽快な声と笑いの混ざった調子が、まるで重力すら忘れさせるかのように俺の心を揺さぶる。
やがて地上に出ると、荒涼とした広大な荒野が広がった。
ルナテミスも疲れたようで、少し息を整えながら辺りを見渡す。
その瞳には、疲れと共に、いつもの希望に満ちた光が残っている。
偶然、無人の魔術汽車を見つけ、俺たちはそれに乗り込む。
車輪がレールを刻むたび、たんごとん、と揺れる衝撃が全身に伝わる。
俺の身体は重く、魂がまだ完全に戻ってこないような感覚に包まれていた。
休憩の間、ルナテミスは無言の空気に耐えかねたのか、俺の前でとびっきりの変顔を披露した。
だが、魂が抜けたような俺の視線は一点に止まり、微動だにしない。
悔しそうに眉をひそめるルナテミス。
負けず嫌いの炎がその瞳に揺れ、次々と至高の変顔を繰り出す。
しかし、俺はただ茫然として背中に身を任せるだけ。
「なにー! あの無口なグラウスを、三日三晩腹を抱えて笑わせたことのあるこの変顔が効かないとは、修一、やるなー!」
彼女の悔しさ混じりの声が揺れる汽車の中に響く。
俺は無表情のまま、しかしどこか奇妙に温かいその声に包まれていた。
やがて、以前訪れたことのあるサバル=ハルドの街が視界に入る。
夕陽が街の建物を赤く染め、雑然とした景色を黄金色に照らしている。
ルナテミスは疲れた息を整えながら、俺を抱えつつ街中を進む。
その歩調はゆっくりで、しかし確実に進んでいく。
日がとっくに沈んだ頃、イグフェリエルの住むアパートに辿り着くと、彼女は高らかに声を上げた。
「ただいまー!」
そして室内に入り、そっと俺を椅子に座らせる。
「はぁー、疲れた、疲れた……」
静寂が部屋を支配する。
ルナテミスは俺の身体にそっと手を置き、やわらかな温もりを伝える。
彼女は今までの軽快な口調を緩め、言葉を紡ぎ始める。
「我のせいなんだろう……」
ルナテミスは拳を握りしめ、視線を落とした。
その横顔は、いつもの威風を失って、ただ静かに、痛みを堪える戦士の顔をしていた。
「我が、修一の気持ちを全く考えずに、気安くこの世界を救ってほしいなどと懇願したから……それに応えるため、頑張りすぎたんだろ……?
修一は、我らのような存在を、すべて救おうとするほど、優しいからな……」
声の震え、息遣い、背中の力の入り具合、全てが俺の胸に深く突き刺さる。
胸の奥でずっと閉じていた感情の扉が、少しだけ開かれるような気がした。
「違う……違うんだよ、ルナテミス」
俺は久しぶりに、絞り出すように声を上げる。
震える声が部屋の中にかすかに木霊する。
胸の奥の混乱、恐怖、悲しみ、そして微かな安心……その全てが、言葉となって声に現れた。
俺の視線はルナテミスの瞳に吸い込まれ、そして少しずつ現実の感触が戻ってくる。
「……修一」
ルナテミスの声は、俺の耳の奥にゆっくりと溶け込んでいった。
どこか震え、どこか優しくて、声がそこに在るだけで世界の輪郭がほんの少し戻る気がした。
だが、言葉は止まらなかった。
息を吐くように、断片を繋げるように、俺は勝手に喋り続ける。
「ルナテミスのせいじゃない……誰のせいでもない。
ただ、俺だけのせいなんだ」
俺はかぶりを振った。喉の奥が焼けるように熱い。
けれど、言葉は溢れてくる。
「お前に懇願されたのは確かだ。
だけど、その願いに応えたかったのは、俺自身だ……。
創造主として、お前たちを救いたかったのは、俺自身の欲望なんだ」
言葉が床にこぼれる。ルナテミスの指が俺の袖をぎゅっと握る。
その彼女の行動が、俺を安心させると思いきや、胸の中の何かがぐずぐずと音を立てて崩れていく。
「目の前でお前らを、何度も何度も失って……失い続けて、俺は、俺の無力さを嫌というほど思い知ったんた。
狂気の渦に呑まれたせいか、本当に俺が、田島修一なのかさえも、もう分かんねぇ……」
喉を震わせながら、俺は続ける。
度重なる惨劇の連続、仲間の顔が一瞬にして他人になる不条理――それらが絡み合い、重くのしかかる。
「もう疲れたんだよ……」
声が小さく、しかし確かな切実さを帯びる。
そこに、渦のような声が混ざってきた――自分でもない何かが、頭の中で囁く。
「だから死にたい……死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいぃ!
俺の中の希死念慮が、そう頭に訴えかけてくるっッ!!」
言葉の続きが口から飛び出した。叫びのかたちで。
「だから俺を殺せ、ルナテミス! 殺して、殺して、殺し続けてくれ――っ!」
その叫びは、部屋の空気を震わせる。
彼女は俯き、唇を噛む。返事はない。
沈黙が重く堆積し、俺の中の怒りが鬱積した圧力となって爆発した。
制御の糸が切れた。
俺は彼女を押し倒し、両手で彼女の肩を掴み、上から抑えつける。肺の奥から絞り出すように喋る。
「お前が俺を殺さねぇなら、俺がお前を殺してやる!
なぁ、どんな死に方がいい? 首を切るのか? 水に沈めるのか? それとも――!」
ルナテミスは、顔を逸らしたまま、ゆっくりと目を閉じる。
頬を伝う一筋の涙が静かに落ちる。
そこで出た言葉は、俺が予想したどの答えとも違った。柔らかく、痛みに満ちている。
「……あぁ、そうしたいなら、そうしろ」
その声音は、諦めでも同意でもなく、ただ――極度の悲しみだった。
「我は、修一の願いであれば、如何なるものでも、至福として受け入れよう」
目線を逸らし、唇を噛みしめながら、彼女はそう言った。涙が止め処なく零れる。
言葉が身体の奥に突き刺さる。
俺の拳がふるえる。
押し倒した手に力が入る。
言葉とは裏腹に、ルナテミスの呼吸が震えているのがわかる。
胸の奥で何かがひび割れて、冷たい静寂が広がった。
ルナテミスの頬を伝っていた涙が、指先から落ちていく。
それを見た瞬間、俺の視界も滲んだ。何の前触れもなく、ただ自然に、涙がこぼれた。
その雫はルナテミスの胸元へと落ち、静かに弾けた。
——温かい。
その感触でようやく我に返った。
胸の奥で、何かがぐしゃりと潰れるような音がした。
「……っ、なんてことを……俺は口にして……」
言葉が喉の奥でひび割れる。両の拳が震え、頬を伝う涙が止まらない。
「この……イカレ野郎が……!」
自分で自分を罵りながら、嗚咽が込み上げる。
心臓を握り潰されるような痛み。
あれほど守りたいと思っていた相手に、俺は……。
ルナテミスはゆっくりと上体を起こす。髪が光を掬い、涙の筋に沿って流れ落ちていく。
その姿は、戦場を知り尽くした勇者でありながら——今はひとりの少女のように見えた。
「修一……」
静かに、しかし確かな意志のこもった声だった。
「もし、そちがすべてを投げ出して、楽になりたいと望むのなら……我が、その引導をくれてやろう」
その言葉に俺の呼吸が止まる。
彼女は、涙に濡れた瞳で俺をまっすぐ見つめながら続けた。
「だが——最期に、我の気持ちも話そうと思う」
勇者の肩が微かに震える。
唇がかすかに噛み締められ、声が溢れる。
「……我は、修一に……死んでほしくなどない! 生きていてほしい……っ!」
声が、堰を切ったようにあふれた。
「我は、そちが産んだ世界で、笑って、楽しんで、生きてきた……! そちは、我の幸福そのものなのだ!」
涙が床に落ちるたび、言葉が刃のように胸を裂いた。
「だから……そんなそちが消えてしまうなんて、そんなのは嫌だ……」
ルナテミスは腰の剣を抜いた。
刃が月光を掬い、白銀の閃光を放つ。
その光の中で、彼女は涙を拭うこともせず、俺に剣を突きつけた。
「——さぁ、選べ! 修一!」
その声には震えも迷いもなかった。
「死を選ぶか、生を選ぶか。……我は、どのような選択だろうと受け止めよう!」
世界が静まり返る。
鼓動の音だけが、遠くで鳴っていた。
ルナテミスの瞳は涙で濡れて、それでも決して逸らされることはない。
俺は口を開く。声が掠れ、喉が痛む。
「俺は……」
――脳裏を、ある情景が奔流のように駆け抜けた。
崩れ落ちる街。血に染まった手。届かなかった声。
すべては、俺がこの世界を放棄したことで起こった惨劇。
それは過去であり、変えることはできないだろう。
でもこの世界には、まだ生きている人々がいる。
ならば、彼らだけでも救わなければ。
――俺は、誰だ。
「俺は——」
そのとき、胸の奥で何かが燃え上がるのを感じた。
焼け焦げるような痛みの中で、確かな言葉が生まれる。
——そうだ。
「俺は……創造主、田島修一だっ!」
その声は、空気を震わせた。
崩れかけていた部屋の壁がわずかに軋む。
その宣言に、ルナテミスの唇が、震えるように微笑んだ。
「——あぁ、そうだ……それでこそ、我が創造主だ」
勇者ルナテミスの瞳に宿る光が、かつての戦場で見せた輝きと重なった。
涙の跡が光を反射し、まるで誇りの印のようにきらめいていた。
割れた窓から差す月光が、埃を金色の霧に変え、机の上の紙束を鈍く照らしている。
風はない。
ただ、壊れた時計がひとつ、カチリと遅れた秒を刻む音だけが、部屋の呼吸を保っていた。
手の甲に食い込むほど拳を握りしめ、俯いたまま唇を噛んでいる。
その頬には、まだ乾かぬ涙の跡が一本。
思い出す。
遺跡の中——あの狂ったループの地獄。
仲間が何度も死に、何度も崩壊した。
誰かを救おうとするたびに、それが仇になった。
そして最後には、救おうとした自分自身が壊れかけた。
膝が震える。
喉の奥が痛い。
でも——それでも。
俺は、拳をぎゅっと握り締めた。
唇を噛みしめ、震える声を、無理やり絞り出す。
「……あぁ、たしかに辛かったよ。
死にたくなるようなことが、何度もあった。
皆を失って、希望も見失って……。俺自身が狂気に染まる瞬間も、たくさんあった」
声は震えていた。
けれど、その瞳の奥には熱が灯っていた。
「けど」
頭を上げる。
目の奥に、確かな“生”の光が宿っていた。
「でも、もういい。
あれは、全部過去のことだ。……終わったことだ。
ここでいじけてちゃ、結局過去と、何も変わらない。辛い時こそ、顔を上げて進まなきゃいけないんだ」
拳を握る音が、やけに大きく響いた。
「俺は今、生きている。息をしてる。心臓の鼓動が鳴りやまないでいる。
だったら、まだ終わってねぇ。終わらせるわけにはいかねぇ!」
静まり返った部屋に、熱が生まれた。
俺の声はもう独白ではなかった。自分自身への誓い。焼けつくような決意の火。
「泥を啜ったって、どれほど惨め姿になろうと構わない。
俺が生きてる限り――希望を、この手で掴み取ってやるッ!!」
叫びはアパートの壁を震わせ、積もった埃が舞い上がる。
その瞬間、俺は過去だと割り切り乗り越える。
その熱に、ルナテミスが息をのんだ。
窓辺に寄りかかっていた彼女は、いつの間にか立ち上がり、瞳を細める。
その表情には、呆れでもなく、憐れみでもなく――尊敬があった。
そして彼女は、ゆっくりと歩み寄る。
焦げた床を踏みしめ、彼の前に立つ。
彼の肩よりも少し低い位置。
見上げるようにして、その唇をわずかに持ち上げ――
そっと、俺の頬に触れた。
柔らかな温もり。
それは戦場でも涙でもない、確かな“生”の証だった。
「……っ!」
俺の身体が跳ねる。
心臓の鼓動が一瞬、現実よりも速く刻んだ。
「な、なにすんだよ……!」
頬が赤い。恥ずかしさか、熱か、区別もつかない。
ルナテミスは俺の表情をからかうように、不敵に微笑む。
「男というものは、こうすればやる気が出ると、聞いたことがあってだな」
「……まぁ、そこそこ出たんじゃねぇか。ありがとな」
照れ隠しの声が震えていた。だが、どこか嬉しそうでもあった。
ルナテミスは胸を張り、いたずらっぽく笑う。
「ふふっ、シャーリアに“接吻の技術”を磨かれた甲斐があったのぅ」
「いや待て、その話詳しく聞かせ……まぁいい! とにかく——行くぞ!」
俺は振り返り、乱れたマントを払う。
迷いのない背中。その一歩が、決意の音を立てて床を踏み鳴らした。
「遺跡に戻って、皆を助ける! それが今の俺がやるべきことだ!」
「御意!」
ルナテミスが笑い、彼のあとを追う。
だが、部屋の出口で彼女は立ち止まる。
わずかに顎を上げ、彼の背中に向かって言う。
「それより——先程、我を押し倒し、不埒な真似をしようとした件について。
まだ謝罪をもらっておらぬのだが?」
俺は振り返りざま、土下座に近い勢いで叫んだ。
「すんませんっっっ!!!」
「——よろしい」
笑い声が響いた。
黄昏の光の中で、ほんの一瞬だけ、世界が生き返ったように見えた。
そして二人は、扉を開ける。
閉ざされた部屋をあとにして、歩き出す。
そのとき心の中でひとつ引っかかっていたことを思い出す。
――イグフェリエルはどうして、俺のことを最初に出逢ったときから、「修一様」と。
そう呼んでいたのだろうか。




