第43話 救済の彼方
祭壇の上、遺体となったイグフェリエルを、リシャシェーラは像に叩きつけた。
――その体はもう生きてはいないはずなのに、光を宿したように神々しく、まるで聖なる気配が空気を揺らす。
その行いは、彼女にとってせめてもの慈悲らしい。俺はただ茫然と立ち尽くすばかり。
視界がぐらつき、薄闇の向こうに、意味不明の存在が現れる。
その姿は、想像の常識を軽々と超えていた。
奇怪な体躯はねじれ、細長い手足を鼻毛のような毛で支え、鼻水で物を掴み歩き回る。
目はあちこちに散り、口は常に笑っているのか叫んでいるのか判別できない。
だが、俺は確信した。
これが――神だ。神に違いない。
「神……」
思わず声を上げると、リシャシェーラは泣きながら喜ぶ。
「はぁ! よく頑張りましたねぇ……創造主様なら、至れると信じておりましたとも……!」
その言葉に、彼女は俺を強く抱きしめる。
「それでは信徒の皆様、例のものを出してください」
その言葉に反応し信徒たちが出したものは、切断された手だった。
「あぁ、そういえば創造主様はまだご存じではありませんでしたね。
拙たちがこの神殿を探索したところ数々の古代文字が記されているのを見つけ、それを順番通りに並べると、
『――集え、四界の契り手よ。神を司る像にて、魂を重ねよ。
四対の掌が交わるとき、天輪は哭き、救星の指環は降臨す。』
という内容になったんです」
彼女は、ついにそのときが来ようとしている喜びを隠せないのか、意気揚々と喋る。
「つまりは、この邪神の像に四組それぞれ誰かが手を重ねれば、救星神の指輪が手に入るということ。
信徒の皆様が手にしているのは、先程剝ぎ取ってきた他の陣営の手です。
――さぁ、創造主様もこの像に手を重ねてください」
そう命令し、俺はただ言われたままのようにする。
剥ぎ取った手。剥ぎ取った手。リシャシェーラの手。俺の手。
四つの陣営の手が、像に重なり。その瞬間。
――光る。
弾けるように、照らすように、像を中心に光る。
そしてその光が収まりゆく中、上空からふわりふわりと何かが降ってくる。
俺の視界の片隅、リシャシェーラの手がそれを拾い上げる。
「これが、救星神の指輪……!」
彼女の声は涙で震えていた。
涙をこぼしながらリシャシェーラは続ける。
「それでは、皆さん。
拙は救星神となり、全人類を死へと導きます……寂しくなりますが、皆さんは先に、救済の彼方に向かっていてください……」
信徒たちは自前の縄を取り出し、壁にくくりつけていく。
その異様な儀式に、俺も恐る恐る倣い、自分のベルトを壁に括り付けた。
暗闇の中で、狂気と秩序が入り混じった時間が、ゆっくりと流れていく。
――ズドッ。
――ズゴォ。
――ズギィ。
信徒たちは一様に首に縄をかけ、静かに彼方へと消えていく。
その動きはまるで祈りのようであり、同時に恐怖の影も伴っていた。
俺も皆と同じように彼方へ向かおうとする。
壁に打ち付けられ、光を残したままのイグフェリエルを見上げる。
神聖さと儚さが交錯するその姿に、俺はかすかに胸を刺されるような感覚を覚えた。
「ごめんなさい……」
俺は最期に目を潤ませ、そう呟いた。
そして俺は、作り上げた輪っかに首をかける。
ベルトの冷たさが喉に伝わる感触は、生と死の境界をはっきりと意識させる。
ゆっくりと身体が宙に浮き、重力に引かれ、彼方へと旅立っていく。
――意識が霧のように消え、すべてが静寂に溶け込むその瞬間まで、俺の目には最後のイグフェリエルの神々しい光だけが映っていた。
◇
……それで、すべてが終わったはずだった。
――轟音。
耳を劈くほどの金属音が、脳の奥を叩き割る。
息ができる。
いや、呼吸している。
俺は――まだ、生きている。
視界が、ぐらつく。
辛うじて、ここが遺跡の外の、あの荒野だと理解できる。
揺れる視野の中で、誰かが俺を背負っていた。
斧の悪魔――あの着ぐるみの中にいた少女、シェラフィアス=エル=ヴァルハイルだった。
死んだ魚のような瞳。
けれど、その足取りだけは、命を削るように必死だった。
「……なんで、俺は、生きてんだ」
かすれた声で呟き、首元に手を伸ばす。
指先に、縄の痕がざらつく。
救済の彼方には、どうやら届かなかったらしい。
轟音が、まだ鳴っている。
後ろで何かが、崩壊しているような音。
振り返る――。
そこにいたのは、黒を纏った亡骸の群れ。
腐敗も痛みも超越した、悪魔どもが、這いずりながら俺たちを追ってくる。
その黒の中には僅かに白が混ざっている。
恐らく、あれに呑まれてしまった天使だろう。
「……あれは、なんだ」
声にも温度がない。
氷のように冷淡に、ただ問う。
シェラフィアスの肩が、びくりと震えた。
「――創造主様……意識が……戻られたんですか」
その声もまた、冷たく。
けれど、震えていた。
「……あれは理論に背き、生存者を出したまま、救星神選抜試験を終わらせてしまったことによる……妾たちへの天罰です」
天罰。
ああ、なるほど。
この状況は、俺ではない、創造主と名乗る人物の理論に、背いたことによるものなのか。
俺は小さく笑い、吐息のように呟いた。
「へぇ、そうなんだ。
……じゃあ、俺を殺せばいいじゃないか。俺が生きてるから、あいつらが追ってくるんだろ」
その言葉に、少女の身体が硬直した。
そして――次の瞬間。
「――嫌ですッ!!!」
叫びが、空気を裂いた。
その目に、初めて色が宿っていた。涙に濡れた光。
「創造主様……あなたは……妾たちを助けるって、言ってくださったじゃないですか!
だから……だから、助けてくれるまでは……死なせませんッ!!」
彼女は叫び、足を速める。
瓦礫を蹴り、崩壊した街路を駆け抜け、血と灰の中を走る。
「……そこまでして、どうして生きたいんだよ」
俺は問う。
その声には、もう何も込められていない。
「生きてたって、なんにもありゃしない。あるのは絶望だけだ。
なぁ、一緒に救済の彼方に行こうぜ」
沈黙。
だが、シェラフィアスは、震える声でそれでも答えた。
「……妾は……いつの日か立派な大天使になりたいんです。
かつての――救星神イグフェリエル様のように。
世界の、希望でありたいんです……!」
その言葉が、夜を裂いた。
崩壊の音の中で、少女の背に宿った意志だけが、確かに輝いていた。
「――あっ」
その一瞬の油断だった。
シェラフィアスの細い脚が、瓦礫に隠れた岩片に引っかかった。
軽い身体が宙に投げ出され、重装の着ぐるみが重力に引きずられて前のめりに倒れる。
背負われていた俺も、その勢いで吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられる衝撃が背骨を軋ませ、肺の奥から鈍い音を立てて空気が漏れた。
土と血の味。鉄の匂い。耳鳴りの奥で、あの轟音がまだ響いている。
視界の端で、黒の群れが迫っていた。
――悪魔。死してなお這いより続ける亡骸の軍勢。
その腐臭と圧力が、地を蠢かせる。
「創造主様ッ!」
シェラフィアスが悲鳴に似た声を上げ、よろめきながら俺のもとへ駆け寄る。
その腕を伸ばし、俺を抱き起こそうとする。
このままでは、ふたりとも黒に呑まれる。
俺は血を吐きながら、咄嗟にその手を振り払った。
「行けッ!!」
声が裂けた。
咽喉の奥が焼けるように痛い。
だが、言わなきゃならなかった。
「お前には……希望があるんだろ!! シェラフィアスッ!!」
少女の動きが止まる。
その白い頬に、音もなく涙が伝った。
胸の奥を締め付けるような嗚咽を噛み殺し、彼女は首を横に振る。
「でも……! でもっ……!」
「行けぇええッ!!!」
怒号と共に、俺は彼女の背を押した。
その力は、決して強くはなかった。
けれど――それで充分だった。
少女は、涙を撒き散らしながら背を向けた。
その銀の翼が破れ、泥にまみれながらも、走り出す。
瓦礫を蹴り、闇を切り裂くように。
残された俺の前に、屍の群れが迫る。
腐った手が伸び、骨の指が音を立てる。
地面が黒く波打つ。
立ち上がる。
膝が砕けそうでも、構わない。
黒の奔流が、唸りを上げて押し寄せた。
無数の腕、牙、声なき呻き。
それらを正面から受け止め、俺はただ、踏みとどまった。
――そして。
光も、音も、理も、すべてが呑み込まれた。
◇ ◇ ◇
目を開けた瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、あり得ない光景だった。
無数の死体――首、両手、両足、胴体が無秩序に散らばり、まるでひとつの巨大な、血と腐敗のモザイクのようになっている。
上半身と下半身が分かれた死体が、蠢きながら互いに絡み合う。
水死体の冷たく膨れ上がった腹が、辺りの死体とぶつかるたびに鈍い音を立てる。
ミンチにされた三つの死体の肉片が、微かに震えながら床に絡まり、あの忌まわしい慰みものにされ、死に果てた者たちの姿もその渦中に沈んでいる。
目を凝らしても終わりが見えず、視界の端に死体の断片が増えていく。
それでも痛みも恐怖も、身体に届くことはない。
ただ意識だけが漂い、死の景色をぼーっと眺め続ける。
世界の時間が止まり、俺と死体の山だけが、永遠に漂っているような感覚――それは理屈を超えた恐怖で、心の奥をじわじわと侵食していく。
そのとき、かすかに、どこか遠くから小さな声が届いた。か細く、かすれ、まるで空気の中に溶けてしまいそうな声――
「ぅゆ…ぃち……」
耳の奥で何度も反響し、最初は意味をつかめず、ただ音の揺らめきだけが残る。
だが、声は次第に近づき、輪郭を持ち始めた。
空気が震え、周囲の死体がわずかに身じろぎする。
声の主の存在が、ぼんやりとだが、確かに形を帯びて浮かび上がる。
俺の意識は恐怖と混乱の渦に引きずられながらも、その声の中心に吸い寄せられる。
声はさらに大きく、より切実に、世界を割くように響き渡る。耳だけでなく、身体の奥底まで振動が届き、心臓の奥をかき乱す。
そして最後の瞬間――
「修一――ッ!」
◇ ◇ ◇
その声が最大の大きさで空間を震わせた瞬間、俺の視界が、世界が、一瞬にして塗り替えられた。
そこに映ったのは、あの遺跡の前。
だが以前とは明確に異なる。
呼んでいる声の主――勇者ルナテミス――その姿は、俺の記憶にあるままの完全なルナテミスだった。
顔つき、体格、仕草、目の光まで――すべてが、俺の知るルナテミスそのものだった。
死体の山の狂気の残像がまだ視界にちらつく中で、俺は初めて、現実と幻想の狭間に立っている感覚を覚えた。
身体はまだ震え、心臓は速く脈打つ。
しかし、あの声の確かさが、どこか奇妙な安心を与えていた。
「るな、てみす……」
俺は、低く、震える声で呟いた。
その声に応えるように、世界の片隅で死の残像が揺れ、しかし確実に、俺を現実へと引き戻していく感覚があった。




