第42話 修道女リシャシェーラ
本話には、物語の都合上凌辱を含む描写が登場いたします。
ただし、過度に直接的な表現は避けておりますので、その点はご安心ください。
苦手な方は無理をなさらず、体調に合わせてお読みいただければ幸いです。
リシャシェーラは、懐かしむようにまぶたを伏せた。
まるで祈りの言葉を思い出すように、静かに息を整え――そして語り出した。
「……イグフェリエル様は、黎明の光を掲げられた方です。
絶望の灰が世界を覆い、人々が互いを憎み、飢えと寒さに膝を折っていたあの時代――
唯一、彼女だけが“希望”という言葉を忘れなかった。
神々すら沈黙した時代に、彼女は天を仰ぎ、己の翼を裂いて光を降ろしたのです」
その声は、まるで賛美歌のように透き通っていた。
修道女としての調子というより、信仰そのものが喋っているような、
魂の奥底から湧き上がる確信が、ひとつひとつの語を支えていた。
「彼女が降ろした光は人々の間に灯となり、
その温もりがやがて“信頼”を生んだ。
誰かを信じること――それが生きるという行いの最初の形だと、イグフェリエル様は教えてくださいました。」
淡く、微笑む。
瞳の奥には、光とも涙ともつかぬ輝きが浮かんでいた。
その光景に、俺は無意識に息を止めていた。
俺は腕を組み、軽く笑って言った。
「そんなにイグフェリエルのことを熟知してるってことは……かなり崇敬してるんだな。
まぁ、修道女なら当たり前か」
リシャシェーラは静かに首を振った。
否定でもなく、同意でもなく――ただ柔らかく、穏やかに。
「いえ、崇めるというのは、少し違います。拙は彼女を愛しているのです。
あの方は、天の光でありながら、人の痛みに寄り添うことを選ばれた。
拙たちの罪も弱さも、見下ろすことなく、共に背負おうとされた。
そんな御方に、どうして心を奪われずにいられるでしょう」
まるで聖女のような口調。
けれどその目は、信仰というより――恋にも似た、熱のある光を宿していた。
リシャシェーラは、ふと口元に笑みを浮かべた。
その微笑は優しげだったが、何か、どこかがおかしい。視線は俺を見ているようで見ていない。遠く、何か別のものを――見ている。
「……昔のことを、お話ししましょうか。ええ、ほんの少しだけ。」
声は囁くように始まった。だがその響きは、波紋のように聖堂全体に広がっていく。
「……拙はね、かつてはただの娘でした。
でも、崩れていく世界の中で、父も母も、……あぁ、ええ、いなくなりました。
街は燃え、海は濁り、空は灰のように重くて……あの日から、拙は独りでした。
――それでも歩いたんです。
寒さも、飢えも、痛みも、もう何も怖くなかった。
だって、どこに行っても、皆さんが優しかったから」
彼女の声は震えていたが、その震えは悲しみのものではない。
まるで美しい夢を語るような、陶酔の響きを帯びていた。
「それはもう……優しい、優しい方々でした。
パンをくださった方、祈りを教えてくださった方、死にかけの拙を抱きしめてくれた方。
――そして、まだ清い少女である拙の身体を、ぺたぺた触ってきた方。
あの方々に、拙は手ほどきを受けたのです。
この世の理を、魂の救いを、そして――“真実”を。」
彼女は小さく笑った。
その笑みは、微笑とも、発狂ともつかないものだった。
言葉の端々に陶酔が混じる。リシャシェーラの目はうるみ、頬は紅潮している。
「そしてそのとき、ようやく気づいたのです。
『死』こそが――我ら原初から存在している罪人たちにとっての、最後の救済なのだと!」
その一言で広間の空気が凍った。
リシャシェーラの瞳に、かつての慈愛はなかった。かわりに、確信と命令めいた熱が渦巻いている。
――何を言っているんだ……。
思わず俺は、心の中でそう呟く。
彼女は身を乗り出し、まるで群衆に説教するかのように声を張った。
「生きることは痛み。食べ、眠り、願っても裏切られる。
でも死は裏切らない。皆、平等に、優しく包んでくれる。
それを知らずに生きるなんて――なんて残酷なこと!」
声が震え、笑いが漏れる。
聖堂の水面が揺れ、彼女の反射が歪んで見えた。
「拙は、歩きながらいろんな方に教えを説きました。
そしてね、彼らは皆、最後には理解してくださったの。
“ああ、貴女の言うとおりだ”って、“死こそ救済だ”って!
あのときの顔――あぁ、あぁ、なんて美しかったことでしょう!」
両手を胸に当て、恍惚の笑み。
聖女のようでいて、狂人のよう。
そしてどこか、寂しそうであった。
言葉のひとつひとつが祈りと呪詛の境界を這いずっていた。
「拙には見えるんです。新世界に至ったものだけが、存在を確認できるとされる神様を!」
常人には到底理解できない言葉を彼女は、紡いでいく。
「神様はいつも、脳の奥で叫んでいる。
――ナイフでもいい、薬剤でもいい、縄でもいいから、疾くと自害するべき――
だってねっ!」
水が、ぽたりと滴る音。
俺は息をのんだ。
彼女の声には、悲鳴と笑いが入り混じっていた。
理性は完全に壊れている。
だが、その壊れ方があまりにも整然としていて、逆に恐ろしかった。
「だから拙は、救星神認定選抜試験に参加致しました。
救星神になった暁には、全人類を自殺させてあげるのですっ☆彡!
さすれば、全ての愚者に――ようやく安らぎが訪れる」
その瞬間、リシャシェーラの顔が変わった。笑顔のまま、涙を流していた。
頬を伝う雫は、水か、涙か、それとも血か。
分からなかった。分かりたくもなかった。
「拙、やっとわかったのですよ。救済とは、滅びの別の名なのだと。」
その言葉に、聖堂の空気が軋んだ。
祭壇の天使像が、微かに泣いているように見えた。
俺は拳を握りしめるしかできなかった。
リシャシェーラはじっと俺を見つめたまま、目の奥の光が細く尖った。
「創造主様なら、わかってくださいますよね?」
と、まるで確認するように囁いた。
その声には、祈りとも命令ともつかない何かが混じっていた。
俺は動揺したが、どう応えればいいのか言葉が出なかった。
次の瞬間、彼女は近づいてきた――そして、唇を重ねる。
口移しによって何かの液体を口内に注入され、反射的に飲んでしまう。
――甘くて、すぐに舌の奥に広がる薬の苦味。
喉を通ると同時に、世界がふわりと揺れた。
身体の自由が、刃物で一枚ずつ剥がされていくようだった。
四肢が鉛のように重くなり、声帯が糸で絞められたみたいに呂律が回らない。
俺は口を動かし、助けを求めようとしたが、言葉は濁音の塊となって喉に詰まった。
目だけが必死に動いて、修道女リシャシェーラの顔を追った。
彼女は冷ややかに笑っていた。笑顔の端に、歓喜と残酷が同居している。
「では、皆さん。彼女を運んできてください」
リシャシェーラは軽く拍手をしながら、低く命じた。
信徒たちが、裏の部屋から出てくる。湿った布の匂い、引きずる革の音。
彼らはイグフェリエルを連れてきた。
彼女は抵抗していないように見えたが、その瞳には恐怖と決意が同居していた。
俺は薄れゆく認識の中で、何とか声を上げようとした。
だが薬が支配した舌は言葉を成さない。胸がもどかしく煩い。
リシャシェーラはイグフェリエルの前に立ち、まるで過去の恋慕を確かめるようにゆっくりと顔を寄せた。
彼女の声が、ゆっくり、甘く滑った。
「イグフェリエル様は……希望だの、光だの、愛だのと……まぁ、よくもまぁ、あれだけ美辞麗句を並べられたものですわね。
汝の口から出るものは、すべて――欺瞞。偽善。
腐り落ちた果実のように、見た目だけ綺麗で中は蛆だらけ。
あぁ……拙は、そんな汝が、何よりも大嫌いだったのです。」
目を伏せ、両手を胸の前で組みながら、陶酔したように言葉を紡ぐ。
「民を救う? 希望を信じる? 笑わせないでください。そんなものは生の言い訳。
死の恐怖から逃げるために人が作った虚構にすぎません。
ねぇ、創造主様……死こそが真なる救済なのです。
息を止め、苦痛から解き放たれ、全てが静寂に融けゆく――その瞬間こそ、唯一の“希望”なのですわ」
その瞳は焦点を失い、神を見上げる信徒のようでありながら、どこまでも壊れていた。
「だからこそ、イグフェリエル様の掲げる“希望”を……拙は心底、心底、憎んでいたのです。
あの欺瞞の象徴を、どうすれば粉々にできるか。
どうすれば、その綺麗な顔を苦痛と絶望で歪められるか……そればかりを、ずっと、ずっと考えておりましたの」
唇の端を舐め、微笑が歪み、狂気の光が宿る。
「ふふ……やっと叶うのですわ。拙の祈りが、いま、神に届くのです――」
そう言って目の前にいた修道女はゆっくりと振り返り、痺れに抗おうとする俺を見つめる。
その瞳は、狂信者の輝きで燃えていた。
リシャシェーラの声が、さらに高まる。
「創造主様、汝ならきっと新世界に至れるはずです。拙が今から、そのお手伝いをしてあげます――」
彼女は信徒たちに向かって、低く、執拗に命じた。
「さあ、彼女を――かつての拙のように、はしたなく、無様な姿にしておやりなさい」
その合図とともに、広間は低い爪音と衣擦れで満たされた。
俺は最後の力で目を見開き、イグフェリエルの顔を探した。
彼女は静かに、しかし確固たる口元で小さく俺を見たような気がした――それは励ましか、別れの合図か、識別できない。
俺は、透明な膜が張る視界からただ見ているしかなかった。
四肢は鉛、舌は鉛筆の芯のように固まり、怒号も、制止も、遠い波紋でしかなかった。
思考だけが薄く光り、断片を拾う。なぜこんなことが許されるのか。なぜ俺は動けないのか。
――そうしてイグフェリエルは、慰み者になっていく。
◇
イグフェリエルの周囲に、重力の歪みが生じる。
彼女という惑星の大気圏を、ひとつ、またひとつと、灼けつく隕石が通過していった。
黒い羽根が剥がれ、散り、光の粒子となって床へと降り注ぐ。
――光が、落ちる。
ひとつ。
またひとつ。
イグフェリエルの周囲に浮かぶ聖環が、砕けた鏡のように粉々に割れ、
光の粒が大気の中で血のように滲んでゆく。
彼女の瞳が、痛みに揺れた。
だが泣き声は出ない。
代わりに、静かに、聖歌のような吐息が漏れる。
「ルーメン……リリィア……」
それは祈りか、絶望か。
俺にはもう、それを聞き分けることができなかった。
リシャシェーラは、聖女のような微笑を浮かべながら、まるで祝福を与えるように手を掲げていた。
その姿は慈愛に満ちているようでいて――その光は狂気の色をしていた。
イグフェリエルの口から、短い息が漏れる。
燃え落ちる星々の中、彼女の輪郭が揺らぎ、崩れ、淡く溶けてゆく。
音にならない悲鳴が、空気を震わせ、祈りの鐘を割った。
俺は椅子に縫いつけられたまま、その光景を見ているしかなかった。
叫びたいのに、声が出ない。
涙が、勝手に頬を伝い落ちていく。
「やめろ……やめろよ……」
俺の喉が裂けんばかりに震える。
だがその声は空気に吸い込まれ、無慈悲な静寂にかき消された。
膝は力を失い、椅子に沈み込む。全身を巡るのは冷たい毒の感覚。
手も、声も、すべてが凍りつく。
光がひときわ強く瞬いたのち――すべてが、静止した。
散った羽根も、血に似た光の雫も、時間の粒となって止まった。
そして夜空には、天の川-Milky Way-が描かれる。
どうやら今日は、七夕だったらしい。
イグフェリエルの羽根が一枚、また一枚と剥がれ落ちる。
辺りが紅に染まり、床を濡らす。
彼女の唇が微かに動いた気がした。
――修一様、と。
それだけが、確かに届いた。
それだけが、彼女の最後の祈りだった。
俺の涙が止まらない。
目の前の光景が歪む。
心臓が、何度も何度も、悲鳴をあげて脈打つ。
そして――
崩壊する音が、世界を貫いた。
天蓋が落ちる音。
光がはじける音。
ひとりの天使が砕ける音。
それらすべてが混ざり合い、
まるで“天が泣いた”かのように、
この世界は沈黙した。
イグフェリエルの身体が静かに倒れた。
黑い羽根が渦を巻き、俺の足元に散る。
世界は終わりを告げ、希望は血のように冷え、
ただ一人、壊れた祈りだけが残った――。




