第40話 人為的なもの
――闇の底で、笑い声が弾けた。
「――ハ、ハハ……ハハハハハハハハハハハァァッ!!!」
狂気と覚悟の区別がもうつかなくなった笑いだった。
黒い虚空に無数の瞳が光る。
そのすべてが、俺という存在を測っていた。
怯えではなく、試すように。
――いいだろう。
なら、試せばいい。
俺がどれだけ壊れても、俺でいられるのかを。
腰の鞘から、二筋の光が走る。
一本は闇を喰らう漆黒の刃――極夜。
もう一本は光を裂く白銀の刃――白夜。
その二振りが、俺の両手に収まった瞬間、空間が軋んだ。
「――来いよ。全部まとめて、地獄の彼方に葬り去ってやるッ!!」
次の瞬間、地鳴りのような咆哮。
悪魔たちの群れが、波のように押し寄せてきた。
ひとり。
ひとりで、軍勢を斬る。
極夜が軌跡を描く。空気が裂け、血と炎が弾けた。
白夜が返す。光の刃が、闇の肉を穿つ。
――ひと太刀、二太刀。
悪魔の首が宙を舞う。
黒い霧を吐きながら崩れ落ちる。
けれど、その隙間を縫うように別の影が突っ込んできた。
爪。牙。尾。翼。
悪意の塊が、容赦なく俺を切り裂く。
右腕に焼けるような痛み。
視界の端で、自分の腕が宙を舞うのが見えた。
「――あぁ……うるせぇな……!」
歯を食いしばり、左腕一本で双剣の片割れを握り直す。
黒の光が再び交差し、血を霧に変える。
悪魔の胴が弾ける。
喉を裂かれ、内臓を引きずり出されても、俺は止まらない。
背中を裂かれる。
脚を砕かれる。
骨が軋み、肺が焼け、呼吸ができない。
それでも、戦いは続いた。
刃を振るたびに血飛沫が空間を染める。
極夜が泣き、白夜が唸る。
音が、風が、世界が俺の斬撃と共鳴する。
悪魔の腕を断ち、翼を裂き、眼球を貫き、心臓を抉る。
――どれだけ斬っても、終わりが見えない。
何百、何千、いや何万という悪魔たちが押し寄せては潰え、押し寄せては潰えた。
気づけば足元が血の海だった。
自分の血か、敵の血かも分からない。
ただひとつ分かるのは――俺は、まだ立っているということ。
「――ハァ、ハァ……まだ、だ……まだ終わっちゃいねぇ……」
両膝が笑い、腕が千切れそうになる。
呼吸のたびに、喉が焼ける。
胸は裂け、内側の臓器が覗いている。
けれど、笑みは消えなかった。
「いいぜ……来いよ……全員……俺が全部、斬ってやるッ!!!」
血を吐きながら、絶叫。
その声が合図のように、最後の群れが雪崩れ込んでくる。
極夜と白夜が、まるで意思を持つように輝いた。
黒と白――対をなす夜が交錯し、爆ぜるように世界を裂いた。
光と闇が混じり合い、音が消えた。
――そして、静寂。
すべての悪魔が斬り伏せられ、崩れ落ちた。
その場に残ったのは、血に濡れた俺ひとり。
右腕はなく、足は砕け、胸は潰れ、それでも――立っていた。
「……ざまぁ……みやがれってんだ……」
唇から血が零れる。
足元には、無数の屍。
それが、確かに俺が生きた証だった。
極夜が静かに音を立て、
白夜が淡く光を失う。
——視界が、血で赤黒く滲んでいた。
すでに立っているのが奇跡だった。
体中が削がれ、骨の軋む音が自分の呼吸と一緒に鳴っている。
極夜を杖代わりに、俺はふらつく足を引きずりながら部屋を探索していた。
床には焼け焦げた悪魔の残骸。
壁に叩きつけられた死肉。
金属の焦げた匂いと、腐臭が入り混じって息をするたび肺が焼ける。
……そのときだ。
壁の一部が、不自然に光を返した。
まるで——マジックミラー。
「……誰か、いるのか?」
声をかけても返答はなかった。
だが、向こう側には確かに人影があった。
そのうちの一人は、先程見た、ヴァルティーアと名乗る薄汚いおっさんだった。
つまりあの三人は、魔王軍断罪の四骸ということなのか?
こちらに気づいていない。
あるいはこちらの存在が見えていない。
壁の前には、赤黒いボタンのような装置。
まるで押されるのを待っているかのように、じっと沈黙している。
俺はしばらく立ち尽くした。
だが、何かに導かれるようにその指が動いた。
カチリ、と音が鳴る。
次の瞬間——向こう側の壁が、ギギギ、と重い音を立てて動き出した。
逃げ惑う人々。
だが出口など存在しない。
「やめろ……やめ……っ——!」
俺の声は届かない。
両側から迫る壁が人々を挟み、骨が砕け、血飛沫がマジックミラーを真紅に染めた。
そして——潰れる。
音を立てて、肉が。命が。
だが、それで終わりではなかった。
壁はピストンのように、何度も、何度も往復した。
血と脂と砕けた骨が、壁の隙間から噴き出す。
殺すためではない。消すための動きだった。
俺は口を押さえた。
胃が裏返るような悪臭。
だが、それでも吐くことはできなかった。
——俺が殺した。
そう理解はしていた。
けれど、不思議なことに涙は出なかった。
なぜなら。
今まで俺たちを苦しめた罠。
すべては——悪魔たちによる人為的なものだと、今、完全に理解したからだ。
「……どういう、ことだ」
俺は更なる疑問を胸に宿す。
あれほど知性がないかと思われた悪魔が、この罠を適切な場所で作動させることなど不可能だと思ったからである。
俺は倒れ伏した悪魔の死体に近づく。
その腹を裂くと、中から臓物ではなく——空洞が現れた。
まるで悪魔の形を模した着ぐるみ。闇の仮面を被った操り人形。
いや、それだけではない。
その着ぐるみの奥から、まだ何かが少し動いている音がする。
俺はその中を、そぅっと覗こうとした。
——ガン。
金属音とともに、視界が白く弾けた。
頭が割れるような衝撃。
意識がぐにゃりと溶ける。
倒れ込む瞬間、血に染まった床の向こうで、誰かの足が見えた。
白い光。神性すら帯びた輝き。
——まさか。
薄れゆく視界の中で、俺は見た。
白銀の翼を失い、かつての威光を捨てた女神。
イグフェリエル=テラ=オルディア——その冷ややかな瞳が、俺を見下ろしていた。
その唇が、かすかに動く。
言葉は、音ではなく、呪いとして耳に響いた。
「——あぁ、ごめんなさい。貴殿の希望になれなくて」
その声を最後に、俺の意識は闇へと墜ちていった。
◇ ◇ ◇
——視界が再び光を取り戻したとき、俺は、遺跡の前に立っていた。
血の匂いも、鉄の味も、崩壊した悪魔の骸もない。
目の前には整然とした石畳、そして透き通るような青空。
まるでさっきまでの地獄が夢だったかのように——世界が静寂に包まれていた。
「……戻ってきた、のか」
唇が、かすかにそう呟いた。
だが、それは安堵ではなかった。喉の奥が冷たく乾いていた。
辺りを見渡すと、奇妙な違和感に気づく。
そこにいる“人々”の顔は、誰ひとり知らない。
なのに彼らは、まるで旧友のように——俺の仲間たちの名前を呼び合っている。
ザルギエス。ヴァルティーア。ルナテミス……。
だが、その声の主は、俺の知る彼らではなかった。
——名前だけが一致している、別の存在。
まるで魔法が解けたかのように、この異常を俺だけが感じている。
息が詰まる。
俺の腕を見下ろすと、筋肉のつき方が違う。手の皮膚の質感さえも。
“俺”の身体が、誰か別人のように作り替えられている。
「創造主様っ、お待たせしました!」
背後から、聞き慣れた——しかしあまりに懐かしい声が響いた。
振り返る。
そこに立っていたのは、前の世界で俺にとどめを刺した女——
イグフェリエル=テラ=オルディア。
輝く銀髪と、淡金色の瞳。微笑む口元。
彼女だけが、俺の記憶の中と寸分違わなかった。
どうやら今回は、彼女と共に救星神認定選抜試験を受ける、そういうシナリオらしい。
「あぁ…」
イグフェリエルは明るく振る舞っていたが、その瞳の奥には微かな警戒があった。
俺の冷たい態度に、何か異変を感じ取っているのだろう。
だが彼女は、それ以上は何も言わず、ただ静かに微笑んだ。
俺たちは遺跡の中へと足を踏み入れた。
石の床を叩く足音が、湿った空気の中でこだまする。
外の光が背後で閉ざされ、入口が音を立てて閉まる。
俺がおかしくなったせいか、遺跡の内部はもう、最初の頃の見る影がないほどに、劣化していると感じてしまう。
薄闇の中、俺はゆっくりと口を開いた。
「……なぁ、イグフェリエル」
「はい? どういたしました、創造主様」
「お前は……何なんだ」
イグフェリエルの表情が一瞬だけ固まった。
「……え?」
「お前だけが変わらない。
お前だけが変わらない姿でそこに存在していて、世界が終わる直前いつもお前の声がする…」
足音が止まる。
遺跡の壁に水のような反響音が広がった。
「なあ、答えろよ。お前は……何なんだッ!! イグフェリエル!!!」
怒鳴りながら、俺は彼女の手首を掴み、壁に押し付けた。
硬質な音が響く。
彼女の髪がふわりと舞い、淡い光が石壁を照らした。
イグフェリエルは痛みの表情を見せず、ただ、静かに俺を見つめていた。
そして、何かを確かめるように目を細め——
「……まさか、貴殿は……本物の——?」
言葉の途中で息を呑み、彼女は小さく首を振った。
――本物……?
一体、どういうことだ。
そして、声の調子を変え、低く、慎重な響きで言った。
「此方に、ついて来てください……」
彼女の背中が闇へと溶けていく。
俺は理解の及ばないまま、ただその後を追った。
遺跡の奥。
無音の廊下。
世界の裏側へと、またひとつ、足を踏み入れていく感覚。
胸の奥で、誰かが笑っていた。
それが俺自身なのか、あるいは“別の俺”なのか——もう分からなかった。
イグフェリエルの背中は、まるで迷路の構造そのものを知っているかのように、迷いがなかった。
石畳を踏みしめるたびに、空気の温度が変わっていく。
闇が濃くなるほど、赤が滲む。
赤が濃くなるほど、世界が軋む。
ほんの一時間も経たない内に、そこへと辿り着く。
——そして、目の前に広がったのは、赤い森だった。
枝は天地を逆さに垂れ、根が空を掴むように蠢いている。
幹からは濃密な樹液が流れ落ち、地面に達する前に蒸発していた。
その赤は血のようでいて、どこか聖油のように鈍く輝く。
空気が重い。
甘ったるい腐臭が肺を焼いた。
俺はイグフェリエルの後ろ姿を睨む。
油断できない。
——彼女は、何かを知っている。
「……なあ、イグフェリエル。お前、この遺跡を知り尽くしているな」
「ええ、何度も来ていますから」
声が冷たい。
まるで儀式の文句でも唱えるように、感情が削ぎ落とされていた。
森の最奥、空へ向かって突き立つように塔が建っていた。
濃霧と血のような光の中、その輪郭は溶けていく。
——塔の内部に入ると、空気が変わった。
湿度ではない。
“存在の密度”が違う。
そこにいたのは、あの斧を持つ悪魔。
筋肉が岩のように盛り上がり、全身に焼け焦げた紋様が刻まれている。
その目は何百もの悲鳴を飲み干したかのように虚ろで、
呼吸一つが空気を振るわせるほどの威圧感を放っていた。
「■■■……」
低い唸り声。
反射的に、俺は双剣——極夜と白夜を抜いた。
刃の根元に宿る光と闇が交錯し、刃鳴りが火花を散らす。
呼吸が荒くなり、喉が金属を呑み込んだように熱くなる。
——そのとき。
イグフェリエルが、俺の前に出た。
そして、悪魔の攻撃範囲へと入る。
「おい、何してる! 離れろ、イグフェリエル!」
「……シェラフィアス=エル=ヴァルハイル。此方である」
彼女の声が、塔そのものに共鳴した。
悪魔——いや、“斧を持つ者”の動きが、ぴたりと止まる。
――シェラフィアス……? どこかで聞いた名だな。
「矛を収めよ。裏へ連れて行け」
その瞬間、巨躯の悪魔は膝をつき、静かに武器を下ろした。
そして壁へと歩み寄り、とん、とん、とんと規則的に叩く。
重い音が三度。
壁の一部がゆっくりと動き、光の筋が生まれる。
そこに、別の通路が現れた。
「創造主様、この扉はすぐに閉まります。急いで!」
俺は躊躇したが、背後で塔が微かに震えていた。
この場に留まることは死を意味する。
歯を食いしばり、イグフェリエルと共に扉をくぐる。
——直後、背後で重い石の音が響き、道が閉ざされた。
通路の奥は静かだった。
湿った空気が肺を満たし、遠くで……すすり泣きが聞こえる。
最初はかすかに。
次第に、その声が重なり合い、悲鳴のように変わっていく。
そして辿り着いた先は、広間だった。
赤い光が天井から降り注ぎ、壁に影が幾重にも映し出されている。
そこには、天使たちがいた。
翼のある者、折れた者、まだ幼い者。
皆が膝を抱えて泣いていた。
涙が地面を濡らし、そこから小さな光が立ちのぼって消える。
——そして、背後から足音。
振り返ると、あの斧を持つ悪魔がゆっくりと歩み寄ってきていた。
その者は、ぐいと両手を上げ——
頭部を外した。
重い着ぐるみのように、皮膚の外殻が地面に落ちた。
その中から現れたのは——
死んだ顔をした天使の少女。
虚ろな瞳。
光を失った輪。
俺の喉が、凍りついた。
理解してしまった。
あのときからずっと、俺が「悪魔」と呼んで戦っていた存在——
それは、天使たちそのものだったのだ。




