第39話 毛むくじゃらのおっさん
申し訳ございません。
いつもの時間帯に投稿するのを、忘れておりました。
再発防止に努めてまいります。
静寂。
冷たく、重たい沈黙が、世界をまるごと呑み込んでいた。
俺は、ただ、目の前に横たわるバルググの遺体を見つめていた。
水が引いたあとの床は、まるで氷のように冷たく、死の温度が染み込んでいる。
頑強な肉体も、今はもう動かない。
あの太い腕も、牙も、笑ったときにわずかに揺れた耳も――静かに、終わっていた。
……彼は、最期に笑った。
あの瞬間だけは、確かに“英雄”だった。
「修一殿……」
ネクロフィリアの声が、どこか遠くから響いた。
顔を上げると、彼は骨の指で、壁面に刻まれた古代文字をなぞっていた。
「どうやら、この扉の先に進むには――ひとりの命を、捧げねばならぬようです」
その声音は静かだったが、確かな重みがあった。
俺は、無言で頷いた。
そして、目の前の水死体に手を伸ばす。
「……お前に、また救われたよ」
そう呟きながら、俺はバルググの遺体を抱き上げ、扉の前へと運んだ。
重たい。
けれど、その重さは、命の証のように思えた。
扉の前で、彼の身体をそっと横たえる。
次の瞬間、彼の体が淡い光を放ち始めた。
まるで魂そのものが光へと還るように、粒子が宙へと舞い、指先をすり抜けていく。
ヴァルティーアがそっと祈るように目を閉じた。
「……参りましょう。いいえ――麿たちは、どうあっても進まねばなりません」
彼女の声は震えていたが、確かな意志が宿っていた。
ネクロフィリアが扉に手をかざすと、光は扉全体に広がり、重々しい音とともにゆっくりと開かれていった。
――そして、眩い光が俺たちを包んだ。
目を開けると、そこには、“水”があった。
半分が水没し、残り半分が静寂に沈む神殿。
床の大理石は水面に透け、天井からは無数の光線が降り注ぎ、波紋に反射してゆらめいていた。
崩壊と再生が共存するその空間は、言葉を忘れさせるほど美しかった。
「……なんだ、ここは……」
思わず呟くと、ヴァルティーアもまた息を呑む。
「まるで……天界の一部が落ちてきたかのようですね」
聖なる気配と、長い年月を閉じ込めた静寂。
どこかで、風鈴のような音がした。
それが水面の波紋による錯覚なのか、それとも神の囁きなのか、俺には分からなかった。
俺たちは、水際を越えて進む。
一番目立つ中央の入口――巨大なアーチの向こうには、壮麗な大聖堂が広がっていた。
祭壇には祈る女神の彫像が存在し、天井には無数の歯車と星のような光が浮かんでいる。
壁には、翼を持つ者たちのモザイク画。
そのひとつひとつが、奇跡のように精巧で、神の技のように息をしていた。
「……この中も探索するとしよう」
俺が言うと、皆が頷く。
「離れすぎるな。何かあったらすぐに駆けつけられるように、分担して探索だ」
「了解っす、修一先輩!」
とザルギエスが軽く手を上げ、
「承知いたしました」
とヴァルティーアが応じ、ネクロフィリアは無言で鎌を構えたまま頷いた。
探索が始まる。
俺は祭壇から少し離れた通路に足を向ける。
頭の片隅で考える――。
なぜ、こんなにも異質な構造がこの遺跡の中に存在するのか。
この世界を構成する理そのものが、どこか歪められている。
扉をひとつ開ける。
軋む音が、静寂に広がる。
そこには、長い廊下があった。
壁には等間隔に扉が並び、まるでこの神殿に仕える修道女や神父の部屋のようだ。
息を整え、一番手前の扉に手をかける。
――冷たい金属の感触。
ドアノブを捻り、「クチャア」と音を立てながらゆっくりと押し開ける。
部屋の扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。
埃の匂いもしない。
死の匂いでもない。
――清潔だった。
整えられたベッド。光沢を保った机。皺ひとつないカーテン。
まるで、誰かがここで“まだ生きている”みたいに。
「……なんだよ、これ。まるで人の住処じゃねぇか……」
俺は息を潜めながら室内を見渡した。
奥の扉を開けると、洗面台がある。
そしてその隣には、海外のホテルでよく見るようなユニットバス。
曇りのない鏡、磨かれた蛇口、整然と並ぶタオル。
「……こんな時に、シャワーなんか浴びてる場合ではねーな」
冗談めかして呟きながら、出口へと向かう。
そのときだった。
鏡の中を、知らない誰かが通り抜ける。
視界の端で、何かが、動いた。
俺は反射的に横目をやった。
……そして、息が止まった。
――鏡に映っていたのは、俺じゃなかった。
そこに――立っていたのは、知らない“女”だった。
夜の底から切り取ったような、艶やかな黒髪。
砂に焼けたような浅黒い肌が、遺跡の冷たい光を鈍く反射している。
その瞳の奥に潜むのは、ただの闇ではなかった。
覗きこめば、こちらの心の形まで映し返してくるような、深淵。
不思議なことに、俺が顔に手を添えると、鏡の向こうの彼女も同じ行動をとる。
「な、なんだ、これぇぇええええええええええええええっ!!」
腰が砕けた。
喉の奥から、勝手に悲鳴が噴き出す。
鏡の中の女は、俺と同じような表情を浮かべ、見つめ返す。
まるで、この女こそ、俺の姿であるかのように。
「修一さん!! ご無事ですか!? 一体、どうなさったのですか!?」
恐らく俺の悲鳴を聞き、駆け付けたであろうヴァルティーアの声。
俺は震える指で鏡を指差す。
「み、見てくれ……ヴァルティーア……この鏡を……!」
振り向いた――その瞬間、世界が一拍、止まった。
視界に飛び込んできた光景が、脳に追いつかない。
肺が動くのを忘れ、喉の奥で息がつかえる。
冷たい空気が肌を撫で、背筋を氷の刃でなぞられたような錯覚に陥る。
……そして、息を呑んだ。
その音だけが、やけに鮮やかに、この静寂を裂いた。
――そこにいたのは、蒼髪の少女ヴァルティーア=シャリンハイムではなかった。
毛むくじゃらの中年男。
獣じみた臭気が、息とともに鼻を刺した。
濁った眼球は血走り、焦点が定まらない。
唇の隙間から覗く黄ばんだ歯が、湿った唾とともに鈍く光る。
擦り切れた衣服は汗と泥にまみれ、まるで人間の皮膚と一体化したように汚れていた。
“おっさん”が――俺を心配そうに覗き込んでいる。
まるで、旧知の仲の安否を確かめるように。
「お……お前、誰だよッ!!」
怒鳴り声が勝手に出た。
おっさん――いや、そいつは一歩退き、
しゃがれた低い声で言った。
「麿は、ヴァルティーア・シャリンハイムですが……それが、どうかなさいましたか、修一さん?」
言葉の意味が理解できない。
頭が割れそうに痛い。
吐き気が込み上げる。
現実が、ひび割れる音がした。
「ふざけんな……嘘だろ、嘘だろッ!」
叫びながら俺は駆け出した。
視界が揺れる。床も壁もぐにゃりと歪む。
後ろから、二つの声が重なって聞こえた。
ひとつは幼気な少年の声、もうひとつは知らない低音女性の声。
どちらも俺の名を呼んでいた。
だが、そんなことどうでもいい。
俺はただ、逃げた。
この“狂った大聖堂”から、
自分の理性が崩れるより先に。
――走る。
ただ走る。
理性が剥がれ落ちていく音を、耳の奥で聞きながら。
遺跡の通路は暗い。
湿った石壁が汗のような水を垂らしている。
靴底が泥に吸い込まれるたび、心臓が跳ねた。
呼吸が荒い。息が酸素ではなく絶望で満たされている。
「クソッ……クソッ……どこだここ……!」
背後で何かが蠢く音がする。
それを振り返ることもできず、俺はひたすら前へと駆けた。
途中、通路の先に人影が見えた。
影は振り返り、俺の名を呼ぶ。
笑っていた。嬉しそうに、涙を浮かべて。
まるで――再会を喜ぶかのように。
「創造主様! 生きていらっ――」
「どけっ――ッ!」
突き飛ばした。
反射的に。
その顔を見た瞬間、全身が総毛立った。
知らない。
あんな奴、最終試験の受験者にいなかった。
存在してはいけない“誰か”だった。
走る。走る。
世界がぐにゃりと歪む。
壁が溶け、天井が脈打つ。
「やめろ……やめてくれ……俺は……ッ」
そして――曲がり角で、誰かとぶつかった。
衝撃。
崩れ落ちた身体。
目の前にいたのは――イグフェリエルだった。
あの黒き折れた翼。白糸の髪。
微笑の残滓まで、記憶のまま。
――他の奴らとは違う。
記憶にある通りの姿。
確かに、彼女だけが本物だった。
「……なんでだよ……なんでお前だけが……」
胸の中で何かが壊れた。
壊れて、壊れて、壊れて、壊れて。
繰り返すたびに、言葉がノイズになる。
「どうして……どうしてどうしてどうしてどうしてお前だけが……お前だけが……イグフェリエル、イグフェリエル、イグフェリエルぅぅぅぅぅ!!!」
気づけば押し倒していた。
石床に背を打ったイグフェリエルが、驚愕の瞳で俺を見上げる。
俺は、その首に手をかけていた。
「や、め……創ぞっ、やめて……」
喉が潰れる。
彼女の声が擦れて、空気に散る。
俺の手は、もう止まらない。
理性はとっくに砕けていた。
目の前にいるのが誰であろうと――もう、関係なかった。
「お前も本当は、偽物なんだろ……お前も……俺を……嘲ってるんだろ……!」
力を込める。
骨が軋む。
指の下で、命の音が止まりかけていた。
――その瞬間、
「やめろッ!!!」
鈍い衝撃。
頭が跳ねる。視界が白に弾けた。
脳が揺れ、意識が遠のく。
背後から誰かが、俺の頭を殴ったのだ。
地に崩れ落ちる。
イグフェリエルの咳き込む声が聞こえる。
「イグフェリエル、大丈夫か!」
低い、男の声。
聞いたことは確実にないと言えるほどに、特徴的な声であった。
「えぇ……なんとか……ありがとうございます、ルナテミス様……」
……ルナ、テミス……?
視界の端。
そこに立っていたのは、ハンサムな青年だった。
いや、違う。違うはずだ。
そんなわけが、あるものか。
「……こんな青年が……ルナテミスなわけ……ないだろ……」
かすれた声で呟くと、
世界が音もなく暗転した。
――俺は、沈んでいった。
理性も、現実も、どちらが本物かもわからないまま。
◇ ◇ ◇
――目が覚めた。
まだ、ここだ。
あの薄暗い通路の、冷たく湿った空気の中。
夢ではなかった。狂気も現実も、どちらも俺の手の中でぐちゃぐちゃに溶けていた。
額から血が流れている。
ぬるりとした温度が頬を伝い、顎を越え、ぽたぽたと地面に落ちる。
その音が、やけに大きく響いた。
「……っ、まだ……生きてるな」
壁に手をつき、よろめきながら立ち上がる。
視界が揺れる。
足元がふらつく。
それでも――進む。進まなければならない。
さっきまでの狂気の奔流は、もうどこにもなかった。
代わりにあるのは、氷のような静けさ。
――俺はさっき、なんてことをしてしまったんだ……。
脳内が冷え切った金属のように、ひたすら回転を続けている。
――ヴァルティーア。
あれは、ヴァルティーアじゃなかった。
なら、いつから入れ替わっていた?
大聖堂に入ったときか?
それとも――もっと前から?
前の世界から実は、ヴァルティーアの姿は、おっさんだったのか。
精神衰弱による幻覚が、起きているとでも言うのか?
……でも、とてもそうとは、思えない。
考えれば考えるほど、頭の中が靄に包まれていく。
俺は確かにヴァルティーアと共に扉を抜けた。
あの神殿の中では、確かに彼女の声を聞いた。
けれど……それが彼女だったという証拠はどこにある?
「……くそ……」
額を押さえる。脈打つように痛い。
その痛みの隙間から、数々の違和感が再度浮かんでくる。
――終焉の穴。
俺は、あれを塞いでまわっていた。
魔王軍と、共に。
……なぜ魔王軍と?
いつから、彼らと共にいることになっていた?
そして、なぜ俺は“すべての穴を塞ぎ終えている”んだ?
そもそも俺はなぜループをしている。
記憶がところどころ途切れている。
映像のコマが抜けたように、時間が歪んでいる。
気づけば世界は修復され、希望が戻り、人々が笑っている。
それが……本当のはずが、ない。
「……イグフェリエル……」
あの時の彼女だけは、確かに本物だった。
姿も、声も、仕草も、何ひとつ違わなかった。
彼女だけが、俺の知る“現実”の残滓。
なぜだ? なぜ彼女だけが――
そのとき。
――ガコン。
鈍い機械の音が響いた。
次の瞬間、背後の壁がからくり屋敷のように、軋みながら回転した。
「……ッ!」
反射的に身を引こうとしたが、間に合わなかった。
床が揺れ、世界がぐるりと反転する。
気づけば、まったく別の空間に立っていた。
そこには、光がなかった。
薄暗いではない。
あったのは完全な暗闇だ。
音も、風も、ない。
ただ沈黙だけが支配する黒の世界。
――いや、違う。
闇の奥で、何かが瞬き、蠢いている。
最初は光の粒かと思った。
蛍のように、儚く、点滅する。
だが違う。違う。違う。
それは、目だった。
無数の――目。
虚空に浮かぶ、光の瞳。
ひとつ、ふたつ、みっつ……数え切れない。
暗闇の中で、俺を見ていた。
「■■■■■■■ッ!」
嗤いながら見つめていた。
喰らうように、値踏みするように。
「……あぁ、来たか……」
背筋が凍る。
どこからか、低く響く声がした。
人の声ではない。
空気そのものが囁いているような、原初の悪寒。
――悪魔たちの、軍勢。
あの瞳は、笑っていた。
無数の悪意が、暗闇の底から浮かび上がる。
俺は、その中心に立っていた。




