第38話 英雄バルググ
暗い天井から、絶え間なく断続的に土煙が降ってくる。
辺りは、まるで時そのものが凝固したような静寂に包まれている。
俺たちは、やがてそれを見つける。
以前の世界で──絶望の果てに辿り着いた大扉。
高さ十メートル。
白銀の金属に、無数の歯車が絡み合う装飾。
中央には、うっすらと紅に濡れた跡が円環を描いている。
俺は壁に手を当てた。
指先にざらりと触れる古代文字。
そこには、見覚えのある文が刻まれていた。
「……『――捧げよ、血の契約を。双魂の魂の赤が、門を染めるならば。汝らに道を、赦さん。』……だったよな。」
呟くように言うと、背後から軽い声が跳ねた。
「マジっすか!? 修一先輩、古代文字読めるんすね! ヤバ、まじ尊敬っす!」
ザルギエスがいつもの調子で肩を叩く。
血と鉄の匂いが漂うこの空間で、彼だけが軽薄さを保てる。
俺は頭をかきながら、照れ隠しに笑った。
――ま、まあ、以前の世界の記憶を、保持してるだけだけなんだけどな。
「……バルググ、少しでいい。血を流してくれるか」
俺の言葉に、獣人は無言でうなずく。
太い指でナイフを受け取り、己の掌を軽く裂く。
血が石の床に一滴、落ちる。
その瞬間、壁の紋章がかすかに赤く光を放った。
「もうひとり、必要だな。俺たち四人のうち、誰かが。」
沈黙。
そして、最初に声をあげたのは、蒼い髪の少女だった。
「――麿が行いましょう」
ヴァルティーアが静かに手を挙げる。
その横でネクロフィリアが眉をひそめた。
「ならぬ。吾輩がやる。
ヴァルティーアの手に傷をつけるわけにはいかん。」
「ハイハイ! ボクちゃんも流したいっす!」
ザルギエスが片手を上げ、笑顔で割り込む。
そのやりとりに、ヴァルティーアはため息をつき、淡く微笑んだ。
「うぬらお二人では、――どうにも、力の加減というものが、できないでしょう。
もしお任せしてしまっては、お互い、深手を負ってしまう可能性がございます。
……よって、ここは、麿にお任せくださいませ」
そして俺のほうを振り返る。
「……それで、よろしいですね?」
俺は少しだけ迷い、頷いた。
「……ああ、頼む。」
彼の脳裏に、かつての光景がよぎった。
前の世界で――ザルギエスが、右腕を、躊躇いなく引きちぎった時のこと。
鉄の匂いと叫びと、それでも彼が笑っていたあの顔。
ヴァルティーアは短剣を手に取り、自らの掌を静かに切った。
血が赤い光を放ち、バルググの滴と混ざり合う。
その刹那――大扉が、低く唸るような音を立てて動き始めた。
「……開くぞ。」
鈍い振動が地面を伝い、石の粉が舞う。
やがて、重厚な鉄扉が左右に割れ、白い光が漏れ出す。
そこに広がっていたのは、かつて辿り着いた都市。
空に浮かぶ歯車群、柱のように連なる管路、永久機関のように響く機械の鼓動。
──機械都市。
足元の金属床が、ひどく重たく鳴った。
歯車が回転する音、蒸気の吹き出す音、どれもまるで都市そのものが呼吸しているみたいだ。
俺たちはその中を慎重に進んでいた。
「――いいか。もし宝箱を見つけても、絶対に近づくな。」
俺は後ろを振り返りながら、はっきりと告げた。
その声は自分でも驚くほど低く、硬い。
脳裏に焼きついているのだ。
あの笑顔の悪魔のことを。
そして――エリが、あれによって壊された日のことを。
鉄の香りとオゾンの焦げた匂いが混ざる空気の中、ザルギエスがいつになく真面目な顔をして頷く。
ネクロフィリアは無言で周囲を警戒し、ヴァルティーアが辺りを照らす。
バルググの足音が、低く、地を叩くように響く。
「遠くへは行くなよ。何かあってもすぐ駆けつけられるように、範囲を決めて探索する。」
俺がそう言うと、全員がそれぞれの方角へ散っていった。
俺は中央の鉄骨の道を選び、歯車の軋む音に耳を澄ます。
……ルナテミスたちは、無事だろうか。
一息つくと浮かんでくるのは、彼女らの姿だった。
そして思い起こすたびに、胸の奥が、きしむように痛んだ。
その時、背後から声がした。
「創造主様ッ!」
低く、けれどどこか真剣で、硬い声。
振り返ると、バルググがいた。
その巨大な体躯が、鉄の床に膝をついている。
「……なんの用だ?」
問いかけると、バルググは深々と頭を下げた。
金属の耳飾りが床に触れて小さな音を立てる。
「感謝と、謝罪を。……まだ、きちんとお伝えしておりませんでした。」
「謝罪?」
「はい。かつて、様々な無礼をあなたに働きました。本当に申し訳ございませんでした。
先程においては……命を救っていただきました。本当に、ありがとうございます」
そう言って、彼は両の拳を固く床に押しつけた。
まるで、祈りのように。
俺は言葉を失い、ただその姿を見つめた。
獣人の逞しい背中が、どこか壊れそうに震えていた。
強者のはずの男が、己の誇りを捨てて頭を下げている。
蒸気の音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
まるで都市そのものが息を潜めたようだった。
バルググは金属の壁にもたれ、深く息を吐く。
その表情には、戦士の仮面ではなく――ひとりの男の、長年抱え続けてきた痛みが滲んでいた。
「……創造主様、少しだけ、昔話をしてもよろしいでしょうか。」
俺は黙って頷いた。
ここで下手に口を挟むのは、彼に対する無礼だと思った。
「今でこそ、終焉の穴はすべて塞がり、こうして安寧が訪れております。
けれど……あの頃は、地獄でした。毎日のように誰かが消え、誰かが泣いていました。
つい昨日まで隣にいた仲間が、地割れの中に吸い込まれていくか、未練を残したまま自害をする……そんな日々でした。」
鉄の床に拳を押し当てる音が響いた。
その拳は震えていたが、怒りではない――悔しさと、哀しさの震えだった。
「俺の母ちゃんも、そのひとりでした。
あのとき、俺は“死ぬ”ということを、理解していなかったガキでした。
身内がいなくなる恐怖を、初めて知ったんです」
言葉の端が震えた。
バルググの巨大な体躯から、ほんの小さな声が零れた。
「だからこそ、立ち上がったんです。
俺みたいな臆病なやつでも、立ち上がってみせて、皆を希望で包みたかった。
仲間を集めて、各地を廻り支援を施す……それでも、結果は同じでした。
地割れの規模は拡大し、希望を失った者たちは、次々と……自ら命を絶っていった」
――その光景が、脳裏に浮かんだ。
静かな絶望。
何も変えられないまま、ただ誰かの死を見送ることしかできない無力な時間。
「そんなときでした。
創造主様が現れたという噂を聞いたのは。」
その名を口にしたとき、バルググの瞳がほんの少しだけ光を取り戻した。
「あなたは、次から次へと終焉の穴を塞ぎ、世界を救っていった。誰も成し得なかった奇跡を、現実にしてみせた。
俺は、心の底からあなたを尊敬しました。
と同時に……どうしようもなく、嫉妬していた」
俺は小さく息をのんだ。
「馬鹿ですよね……。
創造主様ともあろう御方に、ただのひとりの凡人のくせして張り合おうとしていたなんて」
バルググは、かすかに笑った。
その笑みは、どこか寂しく、どこか誇らしげでもあった。
「俺はですね……英雄になりたかったんです。誰かを救えるような、立派な存在に。
死んだ母ちゃんの顔を少しでも浮かばれるような、そんな存在に――」
彼は、斜め上を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「それで救星神認定選抜試験に参加したってわけです。
こんなどうしようもない奴がですよッ……! 嗤いますよね……?」
――沈黙が降りた。
金属の配管が遠くで軋む音が、まるで世界の心音のように響いていた。
そして、それを切り裂くように、
「……嗤うわけねぇだろ、バルググ」
静かに告げる。
「それにな、まだ“試験”は終わってねぇ。――まだ、試験の途中だろ。
救星神になりたいんなら諦めてんじゃねぇよ」
口調はぶっきらぼうだったかもしれない。
けど、胸の奥では確かに何かが熱くなっていた。
バルググはぽかんとしたあと、ゆっくりと笑った。
それは獣人特有の、荒々しいけれどどこか人懐っこい笑みだった。
「……はは」
そう言って、彼は立ち上がる。重い身体を持ち上げ、拳を軽く打ち鳴らした。
その瞬間――。
「修一殿、どこか奥深くへと繋がる道を発見した! 直ちに、来てくれないだろうかっ!」
ネクロフィリアの声が、地の底から響くように脳に届いた。
低く、荘厳で、確信をもっていた。
俺とバルググは即座に走り出す。
足音が金属の床を打ち、冷たい空気が頬を撫でていく。
声のする方角――そこにはすでにザルギエスとヴァルティーアの姿があった。
ザルギエスが手を腰に当て、俺たちを見てにやりと笑う。
「遅いっすよ、修一先輩! どうやらなんかマジで秘密の通路っぽいの、見つけたらしいっす!」
ヴァルティーアは冷静に周囲を見回しながらも、瞳の奥に光を宿している。
「……これより先、薄暗い空間が続きます。気を引き締めてください」
俺たちは無言で頷き合い、ゆっくりとその暗い通路を進んでいく。
息が白くなるほどの冷気。
空気が静まり返り、足音が不気味に反響する。
――その先にあった。
圧倒的な存在感を放つ、大きな扉。
過去にも見たことのある、あの忌まわしくも神聖な“門”だった。
――そしてそれは、あまりにも突然のことだった。
「危ないッ!」という怒号とともに、背中を押される衝撃。
俺の身体は前方へと突き飛ばされ、床を転がる。
瞬間、耳をつんざくような音が響き、通路の空気が一変した。
振り向いた先にあったのは――ありえない光景だった。
透明な壁が今までの通路を塞ぎ、そこに閉ざされ密閉された世界が生まれていた。
その中には、バルググがいた。
「バルググ……?」
彼はもう、こちらへ来られない。
その表情を見ただけで、俺にはすべてが分かった。
あの一瞬、彼は見て悟ったのだ。
ガラス板が出現したことによる危険を――そして、自分が犠牲になることでしか俺を守れないことを。
冷たい水音が響いた。
床の隙間から、透明な水が溢れ出している。
「くそっ……バルググ! 待ってろ、今すぐ助ける!」
俺は声を張り上げ、振り向きざまに叫ぶ。
「ネクロフィリア! ザルギエス! ヴァルティーア! 何とか板を破壊できねえのか!?」
ネクロフィリアが冷徹な声で答えた。
「不可能だ……幾重にも重ねられておる。吾輩たちの力ずくでもびくともせぬ!」
「そんなわけあるかよ!」
俺は拳で壁を殴る。血が滲む。
それでも、砕ける気配すらない。
向こう側で、バルググが微笑んでいた。
「これでいいんですよ……創造主様」
彼の声が、水越しにくぐもって響く。
「最期に――初めて、誰かを救えることができてよかった」
「やめろ、そんなこと言うなッ!」
俺の喉が裂けるほどの声が、虚空に散る。
水はすでに彼の腰を越え、胸を越え、肩を越え――。
ザルギエスが歯を噛みしめ、結末を悟ったようにガラスの向こうに手を当てた。
「……キミをあのとき、殺さなくて大正解でしたっす。
ありがとう、英雄さん」
その瞬間、バルググが笑った。
あの豪放な、獣人らしい牙を見せる笑み。
けれどそこには、もう恐れも、後悔もなかった。
――英雄は、確かにそこにいた。
水が満ち、彼の身体がゆらりと揺れた。
暴れるように一度、拳を突き上げる。その音が鈍く響いた。
そして、すぐに静寂が訪れた。
透明な牢獄が、音もなく満たされ、ただ泡がひとつ、上へと昇った。
俺は叫び続けた。名前を、想いを、何度も何度も。
だが、もう届かない。
やがて――水が引く。
ガラス板は消え、床の上に横たわる彼の姿が現れる。
その顔は、穏やかだった。
まるで、世界のすべてを赦すように。
笑っていた。
――バルググは、笑顔のまま、英雄として死んだ。
その静寂が、あまりに重く、あまりに美しかった。




