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《テール=エクリプス》~君が物語を描くことをやめた、その瞬間――世界は崩れはじめた。~  作者: たまごもんじろう
第3章 『テフ=カ=ディレム』

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第36話 ステーキって美味しいですよね

 目が覚めると、暗がりだった。

 

 壁にはいくつか松明が薄く灯っているが、光は満たしてくれていない。

 影が折り重なり、息遣いさえ不確かに震えている。

 俺は体を起こそうとしたが、全身の感覚が鈍く、視界がふらついた。


 両肩に触れるものが冷たかった。

 どうやら金属製の杭によって、根元まで壁に打ち付けられている。

 そのせいか、俺は身動きがとれない。


 目をやると、壁面に吊るされた“人形”が、鎮座していた。

 それはあまりに気色悪く、歪な存在であった。

 

 顔は綺麗な少女だが、左手は毛が生えた萎れた老人の手、右足はハリのある細い女性の足といったように、それぞれの部位が縫い糸によって無理やりくっつけられているのだ。

 何か、妙に現実感を帯びている。

 

 質感は人の肌に似ている。

 指先が爪の陰影を落としている。


 視線が一点で止まる。

 待てよ、覚えのある顔だ。


 ――リシャシェーラ。教会で祈っていた、あの修道女の顔。


 信じたかった。

 これはただの奇怪な人形だ、と。

 

 だが瞳の焦点、まつげの生え方、唇の色合いの細やかさが、もう嘘を許してくれない。

 俺はぞわりと全身が凍りつくのを感じた。

 これらは恐らく死体から剥ぎ取り、部位を寄せ集めて作られたものだという可能性が、あらぬ形で確信に変わる。


 ――ここに、いてはだめだ。

 

 体を振りほどこうとするが、肩の鉄杭がそれを許してはくれない。


 そのとき、車輪の音が低く響いた。

 金属が擦れる音。


 押される空気の匂い。

 足音ではなく、何かが世界を押し進める音だった。


 視線の先に現れたのは、目隠しと口栓で縛られ、車椅子に座らされているエリザシュアだった。

 彼女の顔は白く、目は閉じられている。

 手足は拘束され、小刻みに震えている。


 そしてそれを押しているのが、あの笑顔が印象的な悪魔だ。

 

 それは、口元を引きつらせたような大きな笑みを浮かべている。

 笑顔は不自然に広く、笑い声はまるで玩具の歯車を回す音のようにぎこちない。

 目は笑っておらず、ただこちらを見据えている。

 

 ――俺は叫んだ。


 「やめろ! お前みたいな外道がエリ触れるな! 彼女に指一本でも触れてみろ……

 てめぇの細胞ひとつひとつを、この世に元からなかったものとして踏みにじってやるッ!!」

 声が辺りに吸い込まれ、こだまする。

 

 悪魔は指を唇に当て、ゆっくりと首を傾げた。

 車椅子を押す手が、わずかに力を緩めたその瞬間、エリが小さく喉を鳴らすのが聞こえた。

 俺は全力で立ち上がろうとしたが、世界が揺れてまた膝をつく。


 金属の擦れる音が、静寂を裂いた。

 空気が震え、冷たく湿った鉄の匂いが鼻を刺す。


 エリザシュアの身体に、ノコギリのような危険な物体が押し当てられる。

 白い肌の下で魔力が暴れ、血のような光が脈動していた。


 俺は叫んだ。喉の奥から、焦げた血のような音を出して。

「やめろ……やめろぉぉぉ!!!」


 悪魔は嗤った。

 唇だけが異様に赤く、笑顔の形を保ったまま、その奥に何もない。

 まるで“嘲笑”という概念そのものが、肉体を持ったようだった。


 音が鳴る。

「ぎこ、ぎこ」――と。

 それは金属と肉の区別をなくす、曖昧で、いやに湿った音だった。

 

 ――エリはもう金輪際、歩けなくなりました。


 「んんっ、んがあああああああああああッ!!」

 エリの喉から漏れるのは声ではない。

 

 魂が引きはがされるときに出る、空気の悲鳴。

 目隠しの裏で、涙と血と魔力が混ざって流れている。


 俺はその音を聞いて、世界の輪郭が壊れていくのを感じた。


「やめろ…………やめてくださいぃ……ッ!!!」


 悪魔が、顔を傾けた。

 まるで子供が蟻を潰すような好奇心で。

 

 ――今度は、誰も抱きしめられなくなりました。


 「ひぃぃぃっ、ひゅぅぅぅっ……!!」

 悪魔は止まらない。

 身体の正中線をなぞるようにして、ノコギリを当てる。

 

 ――息がでなくなりました。

 「ひゅぐっ、ひゅぐぅあっ、あっあっああああっ!!!」


 ――ごはんが食べられなくなりました。

 「んっ……んんんっ……ん゛ああああああああっ!!!」

 

 ――うんちができなくなりました。

 「ひぃぃぃっ、ひゅぅぅぅっ……!!」

 

 ――赤ちゃんができなくなりました。

 「………………っ!!」

 

 ――血が送れなくなりました。

 ・

 ・

 ・

 

 そして――沈黙。

 「……っ、ぁあ……ぁ、ぁぁ……」

 目隠しと口栓が外され、血の泡の中から、か細い声が浮かんだ。


「……しゅういち、くん……」


 彼女は、執念じみたように、か弱い声で俺の名を呼ぶ。

 世界が止まった。

 

 次の瞬間、赤が爆ぜた。

 まるで宇宙が反転するように。


 ――そして最後に、彼女の脳への伝達経路が、閉ざされました。


 俺の叫びは、もはや人の声ではなかった。

 拘束を裂こうとする音。

 

 肉が裂け、骨が軋む。

 痛みを越えた先にあるのは、怒りではなく無。


 俺――田島修一は、肩の肉や骨を犠牲に拘束を破る。


 彼は、獣だった。

 悪魔に飛びかかり、その“笑顔”を叩き潰す。

 

 一発、二発、十発。

 彼にはもう、肩なんてものは存在しないが、腰を振る遠心力によって殴り続ける。

 悪魔は、身体が砕けていっているというのに、なお嗤っていた。


 だが、修一は止まらなかった。

 視界が赤に染まり、呼吸が熱を帯び、思考が破壊される。

 エリを奪ったものを、許すことはできない。


 ――プシュッッッ――ッ!


 そのとき、気づけば、足元が揺れていた。

 視線を落とす。自分の足が“ない”。


 悪魔が嗤う。


 それでも殴った。

 足は確かにないが、手がある。

 

 理屈も、痛みも、もう存在しない。

 ただ、壊す。

 

 破壊の中で、笑顔の悪魔は初めて“恐怖”を見せた。

 その瞬間、修一はノコギリを掴み――


 世界が、静寂した。


 ――鉄と血の雨が降る。

 それが終わりの合図だった。


 修一の手は震えていた。

 何かを殺したという実感よりも、何も守れなかったという現実の方が、

 ずっと冷たく彼を締めつけた。


 そして、彼は崩れ落ちた。

 その肩を、もう誰も支える者はいなかった。


 立ち上がろうとして、転んだ。

 理由は簡単だ。

 ……両足が、もう無かった。

 

 冷たい床に頬を押しつけながら、修一は這う。

 鉄と血の混じった匂いが、呼吸のたびに肺を焼く。

 爪で床を掻いて、前へ。前へ。


 エリのもとへ。

 それだけが、残った目的だった。


 壊れた体をずるずると引きずり、ようやくたどり着く。

 目の前には、もう息のない生首だけの彼女。

 その顔は穏やかで、まるで眠っているようで。


「……ぇリ。行ぃくぞ」


 声は掠れて、喉が砂を噛むように痛い。

 彼は彼女を抱き上げ――それがどんな形になっていたとしても――前に進んだ。


 床を這うたびに、血が点々と残る。

 それがまるで、行く先を示す道標のように続いていく。


 どれくらい進んだのか分からない。

 時間も、空間も、どこかへ溶けて消えていた。

 

 あるのは飢えと乾きだけ。

 それが、意識を縛る。


「なぁ……、えりぃ……おなか、すいた……な」


 声が乾いて、ひび割れた。

 けれど、返事はない。

 それでも俺は、喋り続けた。


「えりの……すきなたべ、ものは……なんだっけ?

 ああ……そうか。おまぇはぃがいにも、あぶらっこいの……がすきだ……ったな……」


 ……沈黙。


「おい、べつにふとっ……てるなんて、ぃってねぇよ……はは、じょうだんだって……」


 言葉の途中で、息が途切れた。

 もう笑い方も忘れていた。

 それでも、目の前の彼女は微笑んでいた。


 ――そのときだ。


 前方に“何か”が現れた。

 温かい匂い。香ばしい煙。

 

 テーブルの上に、湯気の立つ肉の皿がある。

 美味しそうだった。

 現実感はなかったが、構わなかった。


「……ステーキ、だ」


 彼は笑った。

 かすれた声で、何度も、何度も呟いた。


 指が震えながら、それを掴む。

 口に入れる。

 久しぶりに感じる味。

 涙が出るほど、うまい――はずだった。


「なぁエリ……お前も食べてみろよ……!」


 返事はない。

 沈黙。

 あまりに長い沈黙。


「……エリ?」


 そこで、世界が止まった。


 味が、急に変わった。

 舌の上で、肉が灰のように崩れ、喉の奥で何かが逆流する。

 

 噛んだ感触が、ぬるりとした。

 指先にまとわりつくもの。

 紅い髪が、唇に触れた。


 瞬間、理解が降りてきた。


 ――俺は、何を食っている?


 頭の中で何かが弾ける。

 吐き出した。叫んだ。

 

 嗚咽と絶叫の区別がもうない。

 視界がぐにゃりと歪む。


「違う……違うんだ……エリ……エリィィィ!!!」


 その声に応えるように、奥から音がした。

 革靴が、硬い床を叩く音。


 誰かが来る。

 誰かが。


 光が差した。

 そこに立っていたのは、勇者――ルナテミス。


 俺は泣いた。

 安堵だった。

 まだ世界は終わっていないと思えた。


「……ルナテミス……!」


 彼女の名を呼び、腕を伸ばす。

 這いずって、芋虫のように前へ。

 やっと……やっと救いが。


 だが。


 その顔を見た瞬間、俺の中の希望は、

 骨ごと砕けて地面に落ちた。


 ――違う。


 それはすでに、彼女ではなかった。

 形は似ているのに、目が、鼻が、口が違った。

 瞳の奥で、あの悪魔が笑っていた。


 肉のような音。

 世界が裂けた。


 痛みも、声も、もう届かない。


 最後に見たのは、笑う顔。

 まるで世界そのものが俺を嗤っているようだった。


 そして、何もなくなった。




 ◇ ◇ ◇




 ……暗い。

 いや、暗いという感覚すら曖昧だった。

 

 光が無いのか、それとも俺の目が何かを拒んでいるのか。

 わからない。


 そのとき、遠くで――声がした。


「……な、ないでよ……死なないでよぉ……」


 最初は風のうなりかと思った。

 けれど、確かに聞き覚えがあった。

 

 柔らかく、それでいて神のような威厳を帯びた声。

 ――イグフェリエル。


 どうして彼女の声が、ここに?


 思考が追いつく前に、体が浮かんだ。

 重力が失われ、俺は夢の中のように漂う。

 そのまま、どこかへ引き上げられていく。


 「父様ぁ……」

 彼女のその言葉によって、目の前に光が溢れ出す。


 

 ◇ ◇ ◇



 次に目を開けたとき、そこには数日前に見た景色が広がっていた。


 荒れた岩盤と、地層に入り組んだ建築物。

 空気がひんやりと冷たく、砂の匂いが鼻を刺す。

 

 見覚えがある。

 そうだ、あの地割れの底で見つかったという、遺跡だ。


「……なんで、またここに」


 呟いて、ふと自分の体を見る。

 右腕がある。

 両足もある。

 血の痕も、痛みもない。


 夢か? それとも、俺は――。


「おい、修一。そこで何を呆然としているのだ?」


 背後から――誰かの声がした。


 それは、かすかに震えるような音色だった。

 耳の奥に触れた瞬間、記憶の底を叩くように、胸の奥がざわつく。

 空気が揺れ、鼓膜が熱を帯び、思考よりも先に身体が反応していた。


 ――知っている。

 この声を、俺は知っている。


 ゆっくりと、振り返る。

 軋む首の筋肉。


 呼吸の音さえも遠のいていく。

 世界が一瞬、静止したように感じた。


 目が、声の主を捉えるまでのわずかな瞬間が――永遠に続くように、長かった。


 そこには、ルナテミスがいた。

 いつも通りの、少し厳しくて、それでも信頼できるあの顔。

 彼女だけじゃない。


 エリザシュア。

 シャーリア。

 グラウス。

 イグフェリエル。


 ――全員、揃っていた。


 息を呑んだ。

 胸の奥がじわりと熱を帯び、懐かしさと、得も言われぬ安堵が押し寄せる。


 夢ではない。

 あまりにも鮮明すぎる世界の色、匂い、音、そして空気の微細な振動まで、ひとつ残らず確かに感じ取れる。

 目の前の景色は、心を揺さぶるほどの明瞭さを持ち、まるで全てが息をしているかのようだった。


 心の底に、鈍い違和感が走る。

 この現象には、少し覚えがあった。


 ――ループ。

 

 近年の創作物において、よく採用される設定のひとつ。

 

 何らかの要因になり、時間が巻き戻り、同じ時間を繰り返しながら、幸せな結末を目指すというストーリーライン。

 いや、今の俺の場合は、死んでから時間が戻ったことからして、「死に戻り」というのが適切だろうか。


 思考の中で言葉がやけに冷静だった。

 体は震えているのに、頭だけが妙に冴えている。


「――修一くん、どうかいたしました?」


 エリが、ゆっくりと振り返る。


 そこにあったのは、記憶と変わらぬ、柔らかく穏やかな笑顔。

 目の奥には、――温もりと安心を宿した眼差しがあった。

 その仕草も、声のトーンも、呼吸のリズムも、すべてが――あの日のままだった。


 しかし――なのに。


 胸の奥、心臓の鼓動は、凍りついたかのように冷たかった。

 血の温もりは遠く、指先に届く感覚も失せ、ただ冷たい鉄の塊が胸を押し潰す。

 優しさが眼前にあるというのに、それを受け取る心の器は壊れてしまったかのように、凍てついていた。


 ――どうして、こんなにも温かさと冷たさが同時に胸に迫るのだろう。

 それを理解しようとすればするほど、胸の奥の冷たさは鋭く尖り、魂を刺してくる。


 「早く行きますよ。遺跡が呼んでいます」


 ……呼んでいる、か。

 だが俺は、このあと巻き起こる惨劇を、既に知っている。


 もう“あんなこと”を、繰り返してたまるものか。


「……エリ、待て」


 足が、自然に――いや、もはや自分の意思を超えて動いた。


 重力も時間も、周囲の喧騒も関係なく、身体はただ前へ、彼女の存在へと向かっていた。

 そして、手が――無意識のうちに、しかし確かに彼女の手を掴んでいた。


 その瞬間、エリの瞳が大きく見開かれる。

 驚き、困惑、そしてほんのわずかな警戒心が混ざったような表情。


 隣にいたルナテミスたちも、自然と足を止めた。

 世界のざわめきが、すべてこの一点に吸い込まれたような感覚。


 俺の心臓は早鐘のように打ち、手に握る温もりが現実であることを強く訴える。

 その一方で、目の前の笑顔はあまりに穏やかで、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。


「な、何を……?」


「行くんじゃない。この遺跡は天界による罠だ!

 お前がそう教えてくれたじゃないかっ!」


 その言葉が、喉を裂くように出た。

 皆の視線が一斉に俺に集まる。

 疑問と戸惑いと――ほんの少しの恐怖。


 それでも、俺は離さなかった。

 この手を。

 この温もりを。


 もう二度と、失いたくなかった。


「……俺の言葉には、一切の嘘も飾りもない!!」


 ――信じてくれないとは思うが、それでも俺は叫んでいた。


「……俺は、この遺跡に入るのは――二度目なんだッ!

 だから、信じてくれっ――ッ!」


 喉が裂けるような声だった。肺が焼けるほど息を吐き、全身で訴えた。

 

 ――けれどその言葉が届いた瞬間、世界が“軋んだ”。


 エリの瞳が、紙を濡らしたようにぐしゃりと歪む。

 次の瞬間、彼女の顔は――崩れた。

 

 皮膚が剥がれ、肉が紙くずのように丸まって潰れていく。

 あまりに現実的な音がした。ぬちゃり、と。


「……エリ……?」


 振り返ると、ルナテミスの頬も、シャーリアの足も、グラウスの鎧も――

 すべてが同じように“折りたたまれて”消えていく。


 音が、色が、空気が、音ごと削れていった。

 視界が紙を燃やすように縮み、世界は静かに、だが確実に終わっていく。


 最後に残ったのは、崩壊の音と、自分の脈拍だけ。


 ――そして、何もなくなった。


 

 ◇ ◇ ◇

 


 目を開ける。乾いた空気が肺に刺さる。

 視界に映るのは――あの遺跡の入口。


 地割れ、砂塵、金属のように冷たい風。

 まるで再生された記録映像のように、すべてが“同じ”だ。


 俺はゆっくりと息を吐いた。


「……なるほどな。ループ云々のことは誰かに喋ってはならないと」


 あまりに冷静すぎるこの脳が、この状況の理解を完了する。


 遺跡に入る――そこまでは決められた筋書き。逃れられないシナリオなのだ。

 

 なぜ、ループが巻き起こっているのか。

 そんなことは知る由もない。

 

 だが、それでも。


「……なんだって利用してやる。今度こそ、みんなを救う」

 血の味が残る口の中で、そう呟いた。

 

 そしてルナテミスたちのもとへと近づき、いつも通りの調子で声をかける。

「ごめん、待たせたな」


 ルナテミスは眉をひそめ、不思議そうに首を傾げた。


「どうしたんだ、()()()()よ。いきなり話しかけてきて。

 我らは別の組ではないか」

 

 言葉の意味が、理解できなかった。

 たしかに、俺と出逢ったばかりの頃は、「創造主様」と呼んでいたけど。


 いや大事なのは、そこじゃない。


「……は?」

 別の組だって? 

 俺たちは一緒に、救星神認定選抜試験の最終試験に参加し、イグフェリエルを救星神にすると誓ったはずだろ。

 

 声が裏返る。

 嫌な冷汗が背中を伝う。


 俺は思わず隣のエリへ振り向いた。

 「おいおい、冗談はやめてくれよ、エリ。お前からもルナテミスに、度が過ぎた悪戯はやめろと――」

 だが、彼女は目を丸くして小さく笑った。


「エリ……? 創造主様、それは……わてちしの、愛称ですか?」

 その声は本当に“初めて呼ばれた”かのような響きだった。

 まるで、今までの旅も、あの夜も、あの約束も――なかったかのように。


 周囲を見渡す。

 シャーリアも、グラウスも、イグフェリエルも。

 全員が、まるで俺を知らない人を見るような目をしていた。


 心臓が跳ねた。

 世界が、また何かを変えた――そんな気配がした。


 そのとき。


 背中を、つん、つん、と細い指で叩かれた。

 振り向くと、そこに立っていたのは蒼髪の少女――ヴァルティーア・シャリンハイム。

 断罪の四骸のひとり、魔王軍の副官。


 冷ややかな瞳で、彼女は言った。


「修一さん、何をぐずぐずしていらっしゃるんですか。

 皆さまがお待ちです、早く行きましょう」


 その口調や声色は、天界で以前会ったときのそれではなく、上品で華麗であった。

 驚きはしたものの、この姿こそが俺の思い描いていた、本当のヴァルティーア・シャリンハイムの姿であった。

 

 だが、そんなことはどうでもいい。

 なぜ俺を、親し気に名前で呼ぶのだ。

 

 疑問を挟む余地はなく、呆然と立ち尽くす俺に呆れ、彼女は手を引き連れてゆく。

 気づけば、周囲を見るとそこにいるのは――勇者ルナテミスたちではない。

 

 魔王軍断罪の四骸の面々。

 

 俺は思考を止められなかった。

 どうして、こうなっている。

 何が起きている。どの世界が正しい。


 それでも、足が動いた。

 まるで“誰かの手”に導かれるように。


 気づけば、俺はヴァルティーアたちとともに遺跡の入口をくぐっていた。


 ――もう一度。

 この繰り返される地獄の中へ。

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