第31話 救星神イグフェリエル=テラ=オルディア
ゴミの山が、まるで城壁のように積み重なっていた。
ビールや炭酸飲料などの空き缶が倒れるたびに、かすかな金属音が部屋の奥へと響き渡る。
かつて「救星神」と呼ばれた者の住まう部屋とは、とても思えなかった。
イグフェリエルの現状は、まるで天から転げ落ちた星そのものだった。
部屋の片隅、積み上がったゴミ袋の山の上に、彼女は胡坐をかいて座っていた。
膝の上にはスナック菓子の袋、片手には使い古したゲームのコントローラー。
床にはこぼれた炭酸の染みと、食べかけのインスタント麺。
そこから立ちのぼる油の臭いと、微かに混ざった甘ったるい香水の残り香が、部屋全体にこもっていた。
彼女自身も、その臭気の一部になっている。
洗っていない髪は、ぼさぼさに絡まり、ところどころ脂で固まっている。
長く伸びた前髪が不規則に垂れ下がり、右目を覆い隠すように顔にかかっていた。
光を吸い込んだような銀髪のはずが、今ではどこかくすんで、ほつれた藁のようだ。
目の下のクマは酷く、頬は少し膨らみ、肌は不摂生のせいかくすんでいる。
背中に生えた羽も、黒く穢れ、所々折れてしまっている。
しかしその奥に微かに覗く顔面だけは――かつて「救星神」と呼ばれた女のものだった。
服装もまた、神性の欠片など一切ない。
薄手の部屋着は胸元がだらしなく開き、露出の多い肩や太腿は、まるで彼女が自身の身体をどうでもいいと思っていることを物語っていた。
それでも、胸のふくらみや腰の曲線には、まだ辛うじて女性としての面影がある。
イグフェリエルは、ぎこちなく床を片付けながら、苦笑を浮かべた。
「あ、え、す、すみません……その……ちょっと片付けるんで……」
古びたホウキでゴミを寄せ集め、わずかに空いたスペースに机を引き寄せる。
机の脚がガタガタと音を立て、座布団の上に積もった埃が舞い上がった。
「ど、どうぞぉ……」
かつて神殿で光に包まれ人々に微笑んでいたその女神が、
今は恥ずかしそうに視線を逸らしながら、客を座らせている。
俺はその光景に、言葉を選ぶ時間すら惜しいように訊いた。
「……イグフェリエル。今のお前は、一体何をしてるんだ?」
イグフェリエルは一瞬だけ笑顔を作ろうとしたが、その表情は崩れ、目の下の隈だけがやけに目立った。
「え、えっと……すみません……ぐうたらぐうたら……ニート生活しちゃってます……」
「……まぁそりゃ、見りゃわかるけど」
俺が苦笑まじりに言いかけたその瞬間。
勇者ルナテミスの足音が、床板を震わせた。
ぎゅっ、と革のブーツが鳴る。
彼女の瞳は、怒りと失望でわずかに震えていた。
「イグフェリエル……!」
その名を呼ぶ声には、怒号よりも深い哀しみがあった。
「かつてのそちは、あまりに美しくも儚い理想を掲げ、世界に“希望”という光を灯していた。
その姿を――我は、同じ道を歩む者として、心から尊敬していたのだ!」
彼女の拳が震える。
言葉は感情に引きずられ、声がひとつひとつ震えながら迸る。
「……なのに何なのだ、この有様は!」
静寂。
ゴミの山の向こうで、外の風がカーテンを揺らす音だけが響いた。
埃がひと筋、光の筋の中を舞う。
魔女エリザシュアがゆっくりと前に出る。
その姿勢は凛としながらも、どこか母のように柔らかい。
「ルナテミス様……」
と彼女は静かにルナテミスの腕に触れた。
そして、イグフェリエルに目を向ける。
「……イグフェリエル様。救星神を退任されたと、お聞き致ししました。
一体、何があったのですか?」
イグフェリエルは目を伏せた。唇がかすかに震える。
言葉が、すぐには出てこなかった。
この部屋で、誰とも会話を交わさなかった時間の長さが、
彼女の喉を錆びつかせていた。
「……終焉の穴が……現れてから……」
ようやく絞り出された声は、擦れた。
「世界だけじゃなく……此方も、希望を見失ってしまって……救星神であった此方は、世界に糾弾されました……」
ルナテミスは息を飲む。
エリは沈黙のまま、わずかに頷いた。
「だから此方は退きました。
それからは下界に降りて、ひとりでテフ=カ=ディレムの終焉の穴を探したんです。
……でも、見つからなかった。何も……できなかったんです。
自分がなんて無力で、無意味で、ただ神を気取っていた偽物だって……思い知らされた」
イグフェリエルの指が、机の端をぎゅっと掴んだ。
爪が震え、白くなっていく。
「それで……何もかもが、嫌になって……。神という役職も、世界も、此方自身も。
気づいたら、こうなってしまっていたんです……」
微笑もうとするその顔は、どこまでも壊れそうだった。
ルナテミスは拳を握りしめたまま、何も言えない。
エリはただ、彼女の言葉を受け止めるように、静かにまぶたを閉じた。
静寂が続いた。
部屋の中の時計の秒針だけが、やけに耳につく。
誰も言葉を発しない中、唐突にその沈黙を切り裂いたのはシャーリアだった。
「テフ=カ=ディレムの下界は探索したって言ってましたけど……天界のほうは?」
あっけらかんとした口調に、イグフェリエルは一瞬だけ目を瞬かせた。
「は、はい……まだ此方が救星神であった頃に、隈なく――」
そこまで言いかけたところで、イグフェリエルの表情が凍りつく。
言葉が途中で止まり、まるで記憶の底から何かを掘り起こしたように目が見開かれた。
「……救星神の間は……まだ、入っていない……!
此方としたことが、真っ先に踏み入るべき場所に立ち入るのを忘れていたっ!」
「なんだと!」
ルナテミスの声が鋭く跳ねる。
「ならば今すぐ天界に赴き、その地へ行こうではないか!」
だが、イグフェリエルは俯いたまま小さく首を振った。
「……それは、無理な話でしょう」
空気が再び重く沈む。
勇者の瞳が訝しげに細まる中、イグフェリエルはゆっくりと顔を上げた。
「救星神の間は、救星神でなければ入ることができません。
ですが、今の此方はその役を降りました。
そして……現在、この世には救星神が存在しない。だから……誰にも協力を仰ぐこともできない」
その声はどこか諦めを孕んでいた。ルナテミスとシャーリアは言葉を失い、肩を落とす。
彼女たちの中に漂うのは「届かない場所」への無力感。
だが――沈黙の中で、わずかに二人の影が動いた。
エリザシュアとグラウス。
彼女たちは視線を交わし、それから同時に、ひとりの男を見た。
俺だ。
そして、俺もその視線に応えるように、ゆっくりとポケットに手を突っ込む。
紙の感触。取り出したそれを、指先でひらりと掲げた。
「……これ、教会でもらったやつなんだけどさ」
『救星神認定選抜試験』――。
そう書かれたチラシが、薄暗い部屋の灯りに照らされて光る。
その瞬間、空気が変わった。
勇者ルナテミスの瞳が見開かれ、イグフェリエルの口から息が漏れる。
「……まさか、修一様……」
俺は頷く。
「だったらもう一度、なればいいじゃないか。救星神に。みんなの希望に」
言葉が落ちると同時に、イグフェリエルの瞳に光が戻る。肩が震え、唇がわなないた。
そして次の瞬間、涙を滲ませたまま、真っ直ぐに俺を見つめて――
「……はい!」
その声は、あの頃の「救星神イグフェリエル」のものだった。
部屋に満ちる光は、蛍光灯の冷たい白ではない。彼女の心に再び灯った、希望の色だった。
◇
というわけで、救星神再臨への第一歩は……部屋の掃除から始まった。
散乱したごみ袋を掴み、弁当の空き容器を仕分け、床にこびりついた謎の液体と格闘する。
俺たち全員が無言で汗を流していた。
最初こそ「掃除からですかー……」と渋っていたイグフェリエルも、途中からは部屋が綺麗になっていく光景を前に、達成感を覚えながら楽しくするようになった。
……その最中だった。
俺が山のような衣類の中から、妙に柔らかい布切れを拾い上げると、イグフェリエルが血相を変えて叫んだ。
「わー! それ此方の下着ですーっ!!」
その場の空気が凍った。
勇者ルナテミスは眉をひそめ、魔女エリザシュアは小さくため息をつき、シャーリアは「何色でしたかみゃお、創ちゃん?」と無邪気に聞いてからかってくる。
グラウスは黙々と作業を続ける。
もちろんゲーム機は没収、食事制限も開始された。
夜食のスナック菓子をこっそり食べようとした日には、ルナテミスとエリによる、永遠に終わらない説教が巻き起こっていた。
彼女は元救星神にして、実年齢は数万歳であったが、そのとき本気で心から泣いた。
しかし、そうして生活の淀みを祓い落とすうちに、彼女の背筋は少しずつ伸びていった。
かつて神だった者が、再び立ち上がろうとしている。
──そして、部屋がすっかり片付いたころ、ようやく「本当の特訓」が始まった。
救星神認定選抜試験――その第一関門、「学科試験」。
修道女に貰ったちらしによると、それは神々の系譜や歴史、魔術理論、勇者戦略、さらには一般常識までを問う、まさに知識の総合格闘技。
……にもかかわらず。
「猫も走れば?」
「えっと……布団がふっとんだー!」
イグフェリエルは馬鹿だった。
この狭い部屋の中で、教鞭をとるルナテミスの声が、見事に凍りついた。
「イグフェリエル! そちは過去に救星神認定選抜試験に見事合格し、救星神と成ったはずだろう!!
なぜこんなにも馬鹿なのだ!!」
「……だって、そんなの数万年も前だしぃ! ことわざなんて日常生活で滅多に使わないですしー!」
その姿を見たシャーリアとグラウスも、心底呆れ果てる。
「シャーリアよりも勉強ができない人間が、この世にまだ残っていたとはな」
「ちょ、ちょっとグラウスちゃん、おらを比較対象にしないでゆらー」
ルナテミスの突っ込みが炸裂するたびに、イグフェリエルは椅子の上でびくっと震える。
その様子を、俺は少し離れたソファに腰掛けながら見ていた。
ルナテミス・シャーリア・グラウスの三人が交代制で講師を務めているのだが、どうにもこの調子では先が思いやられる。
ニート根性が根付いてしまったせいか、知能も能力も大幅に低下してしまったようだ。
俺はため息をつき、隣に座っていたエリにぼそっと話しかけた。
「なぁ……思ったんだけどさ」
「はい?」
「いっそ大天使シェラフィアス=エル=ヴァルハイルに頼んでさ、無理やり救星神にしてもらった方が早くないか? 世界の危機なんだし」
エリザシュアは、魔導書を閉じてゆっくりと首を振った。
「それは……無理でございましょうね」
「――天使様たちの使う“魔術”は、わてちしたちのものとは根本的に異なります。
彼ら彼女らの術は、概念的な要素をより多く帯びています。
大天使様に頼み、イグフェリエル様を『救星神』として名乗らせることはできますが……それはあくまで“称号”にすぎません」
「称号……」
「はい。仮初の救星神では、“救星神の間”には立ち入れぬのです。
そこは、すべての者の希望であり、世界を平和へと導く者だけが到達できる領域――
つまり、彼女自身が神聖な儀式を経て、“救星神”に必要があるのですよ」
エリザシュアの瞳が、窓の向こうの光を反射して静かに揺れた。
俺は無意識に、勉強机に向かうイグフェリエルを見やった。
◇
――そして、続いて。第ニ関門、「希望降臨儀」の特訓が始まった。
希望降臨儀とは、水晶球に希望を宿らせ、光らせることが目的の試験である。
その透明な球は、受験者にいくつかの質問をし、“己が救い”の在り方を言葉で証明できれば光る仕組みだ。
まぁ、言ってしまえば、現代社会における面接のようなものだ。
イグフェリエルは正座して、背筋を伸ばす。
その前に、俺とエリが鎮座する。
俺は腕を組み、低い声で言った。
「――さて、希望降臨儀の予行練習を始めましょうか」
わざと堅苦しい口調で、眉を吊り上げて冷たい目で問いかけると、イグフェリエルはごくりと喉を鳴らし、
「は、はいっ……!」
と、緊張に満ちた声で答えた。
沈黙。
蝋燭の炎がかすかに揺れ、時が止まったように静まり返る。
「――では、質問です」
俺は机の上のメモ帳をめくるふりをしながら、低く告げた。
「イグフェリエルさんにとって、“救い”とは何ですかな?」
イグフェリエルの瞳が一瞬泳いだ。
そして、唇を噛み、ゆっくりと息を吸う。
「……えっと、此方にとっての救い、とは……」
その声は震えていたが、確かに前を向いていた。
「誰かに“ありがとう”と、言ってもらえること……です。たとえ小さなことでも……誰かにそう言われたのなら……
それがきっと、……救い、なんだと思います……」
拙く、たどたどしい。
それでも――嘘のない、真っ直ぐな言葉だった。
だが次の瞬間、空気が張り詰める。
エリザシュアがゆるやかに立ち上がり、薄紅の瞳を細める。
まるで鬼面接官のような声音で言い放った。
「イグフェリエル様。貴方は一度、“救星神”を退いた身でございましょう。
そんな存在が、もう一度、世界の希望に果たしてなれるのでしょうか?」
声が冷たく響く。
イグフェリエルの背筋がぴんと伸び、言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「で、でも……それでも、もう一度、人々を救いたくて……!」
「だが、民は世界は、一度逃げ出した貴方を“希望”と呼ぶでしょうか?
かつて光であった者が闇に沈んだ。
それを見た民は、もう一度手を伸ばすでしょうか?」
鋭い言葉が、まるで刃のように空間を裂く。
イグフェリエルは何も言えず、唇を噛んで俯いた。
光の紋章がわずかに弱まり、部屋の空気が冷たくなる。
俺は静かに手を挙げた。
「――そこまで。今日の面接はここで終わりだ」
イグフェリエルはしょんぼりと頷き、膝の上で手を握りしめた。
俺は少し柔らかい声で言う。
「言いたいことは伝わった。ちゃんと自分の言葉で話せてたよ。
ただ――」
その言葉に被せるように、エリザシュアが口を開く。
「――言葉に覇気がありませんね」
その声は淡々としていたが、胸に鋭く突き刺さった。
「世界の希望となる者に、迷いの色は似合いません。
もっと、以前のように堂々と、逞しくあらねば。
貴方が光を宿さぬなら、民の瞳に映る希望もまた、光を失うのです」
イグフェリエルはしばらく黙っていた。
やがて、絞り出すように小さく言った。
「……はい。すんません……」
その目は涙で滲んでいたが、どこかに小さな火が灯っていた。
きっと――彼女はまた立ち上がる。
希望を宿すその水晶と同じように、何度でも光を取り戻すのだ。
◇
――灼けつくような風が吹き抜ける。
地平線の向こうまで砂ばかりの荒野。空気は焦げつき、呼吸すら痛い。
その中を、俺とイグフェリエルは走っていた。
靴の裏が砂を蹴り上げ、熱気が視界を歪ませる。
彼女はすでに何度も限界を超えていた。
「も、もぉぉ無理ですぅぅぅ……!」
飛び出た腹が上下に揺れ、額には滝のような汗。
息を切らせながら、イグフェリエルは情けない声で叫んだ。
「お願いですぅ、修一様ぁぁ! ちょっとでいいから、ペース落としてくださいよぉぉ!」
「やーなもんか」
俺も息を乱しながらも、振り返りもせずに言い放った。
「そのお腹の脂肪をそぎ落とすまでは止まらねぇぞ、救星神様ぁ!」
「ひ、ひどいですぅぅ!」
砂漠に響くのは、彼女の情けない悲鳴と、俺の笑い声。
だがその足は止めない。
――救星神認定選抜試験まで、あと三日。
最終関門、その試験内容は当日まで明かされることはない。
ちらしの情報から、分かっていることと言えば、救星神候補者の他に五人までであれば、最終試験の同伴者として参加できるようだ。
俺、ルナテミス、エリ、シャーリア、グラウス。
ちょうど五人。
過去の記録を洗った限り、体力・精神力・信仰心――
そのどれもが試されるのは確実だった。
走る理由なんて、それだけで十分だ。
あの日、希望を失った女神を再び立たせるために。
「……あと少しだ、イグフェリエル!」
「う、うえーん……つい先日まで、引きこもりだった此方に課す運動の量を、とっくに超過してますよぉぉ……」
涙と汗を混ぜたような声で嘆きながら、彼女はよろよろとついてくる。
「だから、ちょっとでいいので、休憩しませんか――」
そのとき、俺の脳内に電流が走る。
「――父様」
彼女がその言葉を放った瞬間、足が止まった。
俺は勢いのまま砂を蹴り、振り返る。
イグフェリエルは口を押さえ、真っ青な顔で固まっていた。
まるで禁句を口にしたことに気づいた子供のように。
数秒の沈黙。
そして俺は、わざと大げさに肩をすくめて笑った。
「――俺のことを父さん呼ばわりする展開なら、もうモルフィーナがやったぞ」
「……ひゃ、ひゃい!? ご、ごめんなさいぃぃ! 創造主様ぁ!」
イグフェリエルは顔を真っ赤にしながら再び走り出す。
砂煙をあげながら、その必死な姿に思わず苦笑いが漏れた。
――少しずつでいい。
あの頃の“救星神”が戻ってくるなら、それでいい。
太陽は傾き、砂の海に長い影を伸ばす。
息を合わせて走り続ける俺たちの影は、まるで創造主とその娘のように寄り添って見えた。
そして――時は満ちる。
砂の上に足跡を刻んだまま、夜が落ちた。
迎えるは、運命の日。
救星神認定選抜試験――その日が、ついに訪れた。




