第23話 氷解
足元に絡みつく蔦は、蛇のように蠢きながら勇者ルナテミスの脚と腰を締め付けていた。
蔦の棘が鎧の隙間に食い込み、鋭い痛みが走る。
魔女エリザシュアの声が、部屋いっぱいに響く。
「どうして……どうしてあの人を、あの創造主様を信じられるの!?
一度はわてちしたちを裏切った男なのですよ! あんな愚かな人に、まだ望みを託すなんて……どうしてっ!」
叫ぶ声は嘆きのようで、呪いのようで、泣いているようにも聞こえた。
ルナテミスはぎり、と歯を食いしばった。蔦はなおも締め付けるが、勇者の身体の内側から光が迸り始める。
「……っ、エリザシュア……!」
筋肉がきしみ、鎧の継ぎ目から光が走る。
「たしかに……たしかにお前の気持ちはよくわかる! 修一のせいで、この世界が滅ぶ原因になったのは、事実だ!」
蔦の棘が弾け飛ぶ。光とともに、ひび割れるように蔦が崩れていく。
「だが――!」
ルナテミスの目がまっすぐ魔女を射抜いた。
「この素晴らしい世界を産み出したのも、また事実だ!
そしてそんな創造主である修一は、我に約束してくれた! この世界を救うと!」
その声は、場の空気を震わせながらも、どこか祈るように静かだった。
そして彼女は、それがあたかも当然かのような、そんな笑みを零しながら言葉を口にする。
「――ならば、被創造物である我らが、信じない他がなかろうッ!」
バキィン、と音を立てて最後の蔦が砕け散る。
ルナテミスの体を覆っていた拘束が完全にほどけ、彼女は地面を蹴った。
魔女へと一直線に駆け出し、剣を高々と振りかぶる――その瞬間だった。
部屋の奥、魔術陣の中心に置かれていた古びた書物が、まばゆい光を放ち始めた。
ページが風にめくられるように勝手に開き、そこから溢れる光が部屋全体を照らし尽くす。
まるで夜明けのように、闇が一瞬で退いていった。
エリザシュアが目を見開く。
「……そう、負けたのですね……」
彼女の視線の先に、光の中からゆっくりと歩み出てくる影があった。
その姿は、記憶にある姿と違っていた。
眼鏡を着用しておらずどこか姿は違ったが、確かにその眼差しは同じだった。
「……修一……」
勇者ルナテミスは思わず声を漏らした。剣を下ろし、涙が頬を伝う。
光の中から現れた俺は、どこか照れたように笑ってやる。
「よぉ、ルナテミス。相変わらず元気そうだな」
彼女は剣を鞘に納め、駆け寄ってその肩を叩く。
「そちめ……! 戻ってくるのが遅いのだっ! 心配かけるでないぞぉ!」
「悪い悪い、自分の罪に向き合ってたら、つい遅くなっちまった」
光の余韻がまだ残る部屋に、冷たい風が吹いた。
その風の中に魔女エリザシュアが俺の前に現れる。彼女の両手には、澄んだ氷のような刃の剣が生まれていた。
刃の周囲には淡い魔力の粒子が舞い、触れるだけで命を奪いそうな冷気と圧迫感を放っている。
勇者ルナテミスが反射的に身構える。
「修一、危ない! 下がれ!」
しかし俺は、手のひらをそっと上げて勇者を制した。
「待て、ルナテミス。大丈夫だ」
魔女エリザシュアは一振りの剣を下ろし、その場に膝をつく。目は俺をまっすぐに見つめ、震える声を絞り出した。
「創造主である田島修一様……そして勇者ルナテミス・セリューヌ様……。
わてちしは、あろうことか牙をむき、貴方がたを死に追い込もうとしました……」
声が涙に震える。
「その罪を……償うため、どうか、殺してください」
勇者ルナテミスは眉をひそめ、剣を下げる。
「死して償えるものなどない。驕りが過ぎるぞ、エリザシュア・ルミナ」
魔女はかぶりを振った。
「……そうですね。償いというのはただの詭弁でした。
ただ……ただ、お願いです、創造主様……。わてちしを殺してください」
エリザシュアの目は、深い深い底なしの湖のように虚ろだった。
「今のわてちしでは……もう貴方の力になれない……。
何より……オサムくんを亡くしてしまってから、生きる気力がどうしても湧かないのです……」
剣の切っ先を床に落とし、肩を震わせながら、魔女は涙で濡れた頬を隠そうともしなかった。
俺はゆっくりと彼女に歩み寄る。口調は軽く、
「お前は大きな勘違いをしている」
俺は笑みさえ浮かべる。
「氷漬けになったオサムは、生きてるだろ」
魔女エリザシュアは顔を上げ、嗄れた声で答える。
「……えぇ、そんなことは、分かっております……」
かすかな笑みが一瞬浮かんでは消える。
「ただ、氷を解いた瞬間……その刹那に完全に治癒を施さなければ……彼は、死ぬだけ……。
わてちしには……その様な神の如き所業は……できな……」
そう言いながらも魔女エリザシュアは、目の前に居るのが誰だったかを思い出し、はっとした表情を見せる。
部屋の空気はまだ張り詰めていた。
泣き腫らした目をした彼女の前に、俺はゆっくりと膝をつき、静かな声で問いかけた。
「なあ……エリ。俺のことは、信用してくれているか?」
唐突な言葉に、魔女の瞳が大きく揺れる。
「……え?」
胸の奥に隠していた感情を、急にさらけ出すような痛みに、しばし言葉を失うエリザシュア。
やがて、長い沈黙のあと、彼女は自分の頬を伝う涙を拭おうともせず、震える声で答えた。
「……わてちしは、誰よりも創造主様のことが憎くて……嫌いでした……。
でも……没世界での、貴方の雄姿を見届け……少しずつ……そうではなくなりました」
言い終わると、まるで肩に乗っていた何かが崩れ落ちるように、エリザシュアは息を吐いた。
俺はその言葉を受け止め、柔らかい笑みを浮かべた。
「そうか……ありがとう、エリ」
そして、まっすぐに言い放つ。
「なら、オサムを救える。いや、救いに行こう」
俺は彼女の手を取り、立ち上がらせ、――氷の結晶の中に眠る兵士オサムの方へと歩き出した。
魔女の胸に、ほんのわずかな温かさが灯る。
一方、勇者ルナテミスは、視線をそっと廊下や、外へ向けた。
倒れ込んでいたはずのシャーリアとグラウスの姿が、影も形もなく消えていることに気づいたのだ。
「……あれ? いない……」
勇者の眉間にしわが寄る。
だが修一の背中を見つめるうちに、その疑念を一旦胸の奥に押し込み、彼の行動を黙って見守ることにした。
◇
凍りついた森は、吐く息まで白い。
彼岸花が咲き誇る川の畔で、青い氷の檻に閉じ込められた兵士オサムの顔は、かすかに笑っているように見えた。
その前で俺が創造の筆を抜き、空中に細い軌跡を刻む。
ペン先が走るたび、光の符がひとつ、またひとつ浮かび、淡く脈動する。
「エリザシュア。今からお前に理論構築を施し、高速詠唱を可能にする。
そしたら、氷を解いたあと、お前がオサムを癒すんだ。」
その一言に、魔女の呼吸がわずかに揺らぐ。そして、思い出したように顔を上げた。
「……創造主様、それは分かったのですが。ひとつだけ……門番のことを……。
氷解させるときは、一気にすべてを解かさないといけません。
でもそうすれば、今まで凍っていた“あれ”が……また動き出してしまいます」
言葉に滲む恐怖は隠しきれない。
そのとき、後方から勇者ルナテミスの剣が床を打った。
「門番は、我が相手をする。そちらは、オサムとやらの救出にすべてを注げ」
凛とした声が、張り詰めた空気を切り裂き、二人の背を押した。
俺は深くうなずき、ペンを走らせる。
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――対象:エリザシュア・ルミナ
――理論:大魔女エリザシュア・ルミナは星辰を導く至高の魔女である。
――副理論:創造主田島修一にはできなかった『愛する者を救う』ことを、必ずや大魔女エリザシュア・ルミナは、成し遂げなければならない。
↓
――結論:光速詠唱
[効果]:魔術詠唱時間を“零”へと収束させ、周囲の時間を減速させる。
[分類]:固有スキル
【詳細説明】
- 全魔術の詠唱時間:完全削除(詠唱=虚飾であり、唱えなくとも魔術は行使可能)
- 魔術発動時、周囲の時間流速を 1/1000倍 に減速(対象は大魔女エリザシュア・ルミナ以外全て)
- 複合魔術の同時展開上限:121式
- 魔力循環効率:+1000%(つまり単純計算で、今までの10倍程魔力の消費量を抑えられる)
- 魔術発動時、周囲空間に屈折障壁(防御力:+2000%魔術防御力:+2000%)を展開
――理論は、構築された。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
符がすべて書き終わると、ふっと弾けて魔女エリザシュアの胸に吸い込まれた。
全身に熱い閃光が走り、血管のように細い光が腕から指先まで巡っていく。
「……あ……あつい……っ……」
彼女は両手を胸に当てて息を呑む。
頭の奥で理論の連なりが奔流となって流れ込み、まるで自分自身が魔術の核になったような感覚に眩暈を覚える。
けれど、その瞳には深い怯えがあった。
「でも……わてちしに出来るでしょうか。……失敗したら……オサムくんは……」
声は震え、指先は冷え切ったように青白い。
俺は彼女の肩にそっと手を置き、低い声で言った。
「大丈夫だ。誇れ、お前の魔術の才能は、この世界で最たるものだ。俺が保証する。
お前なら絶対にオサムを救える。だから頑張れ、エリ――」
その声に、魔女の奥底にずっと凍りついていた何かが、かすかに解けていく。
「……わかりました……」
エリザシュアは深く息を吸い込み、瞳を開ける。その瞳は、さっきまでの怯えを押し流すように決意の光で満ちていた。
俺がうなずく。
「じゃあ――始めよう」
静寂が、空気を張り詰めさせる。
魔女の指先には光が集まり、勇者は剣を構えて背後を守る。いま、全てが動き出そうとしていた。
魔女エリザシュアは両手を氷へとかざした。
唇が勝手に震え、胸の奥から溢れたのは古代の詠唱。
「――アーク・フリージア・リベラト・インヴィクタ――!」
空気が弾け、氷塊に無数の亀裂が走り、それは森全土にまで広がる。
氷解された。
青白い閃光がほとばしり、地面に光の文様が広がった。
先程、俺――田島修一の理論構築によって新たに手に入れた力。
光速詠唱のおかげで、魔術を行使すると同時に、世界が、ゆっくりとスローモーションになっていく。エリザシュアの耳には、鼓動のように刻む数字だけが浮かぶ。
《死亡まで──0.1436》
氷が崩れ、オサムの身体が魔女の腕の中に落ちてくる。冷たく、重い。
胸は沈み、息が詰まりそうになるが、彼女はすぐさま両手を胸に当て、次の呪文を叩き込む。
「――ヒール・アトラクト・セラフィム……!」
掌から淡い金色の光があふれ、オサムの身体に染み込んでいく。
まず肺、次に肝臓、次に破れた胃袋。損傷の激しい臓器をひとつずつ、光の糸で編み直していくように再生させる。
光は小さな蝶のように舞い、内側から細胞を組み替え、組織を甦らせていく。
《死亡まで──0.0973》
次に、血が足りない箇所に魔力を変換した擬似血液を注ぎ込む。
赤い雫が光となって血管を流れ、欠けた循環を埋めていく。
さらに神経、筋肉、皮膚の裂傷へと進み、ひとつひとつ丁寧に綴じ合わせる。
外傷はすべて癒え、まるで眠っているかのような姿になった。
《死亡まで──0.0412》
魔女の胸がようやく上下し、ほっと微笑みかける。
だが、次の瞬間、耳に届いたのは鼓動の音が“足りない”という不吉な沈黙だった。
《死亡まで──0.0139》
「……ど、どうして……? すべての細胞が完治しているはずなのに……心臓が、動かない……」
魔女エリザシュアの顔から血の気が引き、指先が凍りつく。光の糸が震え、途切れそうになる。
すぐさま心臓を握るようにしてポンプを促す。
《死亡まで──0.0067》
「いや……だめだめだめだめだめだめ!
……オサムくんオサムくんオサムくん……死んじゃ、やだやだ……」
だが、動かない。
その声はかすれて、涙で滲んだ。
魔女は自分の力が尽きたことを悟り、絶望の淵に立たされた。
《死亡まで──0.0024》
彼女は、遂には彼が生き返らないことを悟る。
だからせめて、生きている間に。
そういう気持ちでエリザシュア・ルミナは、とある行動をとる。
それは魔術ではない。もっと根源的なもの――。
「……くちゅ」
彼女はオサムの頬を両手で包み、唇を重ねた。
氷のように冷たい唇に、自分の体温と魔力と想いを、すべて注ぎ込むように。
接吻は一瞬でありながら永遠にも思えた。
頬を伝う涙がオサムの顔に零れ、光となって弾ける。
魔力は血となり、鼓動となり、二人の胸の奥でひとつに混ざり合う。
《死亡まで────》
数字が途切れ、静寂が訪れる。
エリザシュアの腕の中で、オサムの胸がわずかに上下した。
その音は、まるで遠い夜明けの足音のように、小さく確かなものだった。
魔女の身体がふるえ、唇から息が漏れる。
「……生きてる……」
その呟きは嗚咽に変わり、涙が頬を濡らす。彼女の接吻は、奇跡を呼び覚ましたのだ。
「……動いてる……オサムくんの……心臓が……!」
さっきまで止まっていたはずの胸が、ふたたび小さく震えていた。
「……え……なんだっけ、俺何してたんだっけ……。エリ、ザ……?」
彼女は両手でオサムの頬を包み、もう一度、何度も何度も確かめるように口づけを重ねた。
「オサムくん……! 好きです、好きです……! ずっと、ずっと……っ」
涙と嗚咽で声が途切れ、頬に落ちる滴がオサムの顔に散る。
目を開けたオサムは、ぼんやりと空を見上げていた。
「……え、俺もしかして、エリザにキスされてる…………? なんで…」
彼の言葉は震え、舌が思うように動かない。
氷漬けにされていたせいか、体の感覚はまだ凍りついたままだ。
指先どころか唇の温度すら他人のもののようで、ただ、彼女に抱きしめられていることだけが現実だった。
エリザシュアの涙が頬に落ち、笑顔と嗚咽が交互に揺れる。
世界はまだ白く、彼はその中で――ただ、彼女の腕のぬくもりを確かめていた。
「ごめんね、ごめんね、貴方を守れなかったわてちしを許して……」
そのやり取りを、少し離れた場所から俺は見ていた。
ふたりが重ねる声と笑顔、溢れる涙の光景が、俺の胸に忘れかけていた痛みを蘇らせる。
――エリ。
自分を信じ、支え続けてくれた幼馴染。そして失われた少女。
目の前の光景と重なって、胸が熱く締めつけられる。
「オサムくん……創造主様のおかげで……貴方は、助かったんですよ」
エリザシュアは涙で濡れた頬のまま、彼の胸に顔を埋めながらそう囁いた。
「何だって……! 創造主様がご降臨なさったのかっ!!」
そして、両者はふと視線を横にやる。
そこにはただ佇む俺――田島修一の姿があった。
彼は、これ以上ないほどに幸せそうに微笑んでいた。
頬がゆるみ、目尻が細まり、まるで子供のように無防備な笑顔。
だがその瞳の奥から、静かに涙が零れ落ちていた。
頬を伝うものが光り、床に一滴ずつ落ちていく。
笑顔と涙が入り混じる、そんなあまりに矛盾めいた表情を、彼はしていたのだ。
その横顔に、没世界で耳にした彼の過去の話が、フラッシュバックのように蘇る。
エリザシュアの胸に言いようのない空虚さが広がり、表情が一瞬だけ虚ろになる。
――その時だった。
「修一!」
勇者ルナテミスの声が響き、空気が震えた。
凍りついていたはずの空気が割れるような音がして、世界がぐらりと揺らぐ。
――バリバリッ、バキバキッ……!
森の奥に、血のように赤い霧が立ちこめはじめた。
空を覆っていた緑の梢が黒く溶け、枝葉はゆっくりと裏返り、無数の赤い眼孔がこちらを見ているかのように光る。
地面の苔は膨張して裂け、どろりとした魔力の液体が染み出す。
生き物たちの鳴き声がすべて止まり、ただ「何かが来る」という圧迫感だけが森を支配していた。
――ズズン……ズズン……。
重い足音が響くたび、幹が軋み、枝がバラバラと落ちる。
赤い霧の奥から、異形が姿を現した。
「……門番……」
エリザシュアは呟いた。
それは“門番”だった。
人の形をとっているようでいて、膝から下は木の根のようにねじれ、肩口からは黒い羽根のような触手が何十本も伸びている。
全身が氷漬けにされていたはずが、今では氷解し、血管のように赤い魔力が脈打っている。
全身の気孔から赤黒い霧が吹き出している。
顔には仮面のような皮膚が張り付いていて、その奥に、なぜか懐かしい面影があった。
目元のライン、口元の柔らかさ、ほほえみかけるような陰影――
俺はその輪郭を見た瞬間、心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
――エリ。
門番の眼差しは、まるであの頃の彼女の横顔のようだった。




