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《テール=エクリプス》~君が物語を描くことをやめた、その瞬間――世界は崩れはじめた。~  作者: たまごもんじろう
第2章 『氷結の月影林《フロストムーン・ルミナ》』

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第22話 死ぬべき人間。でもだからこそ。

 魔女の洋館。彼女の私室。


 天井から垂れる燭台の光が、揺らめく紫の霧を切り裂くように照らしている。

 勇者ルナテミスは、剣を抜き放ち踏み込んだ。


「修一を返せッ、エリザシュア!」

 胸の底から迸る怒声が部屋に響く。


 魔女エリザシュア・ルミナは杖を掲げ、狂気の笑みを浮かべた。

「返さないわ……っ! もう少しで……もう少しで、殺せるんだからぁ!」


 その瞬間、彼女の唇が怪しく動く。

「ヴァリィ=ジンガ・サルメ・トラ=ヴェルト──ッ!」

 

 呪文が弾丸のように吐き出され、床一面に紫紺の魔方陣が走った。

 無数の鎖が闇から伸び、勇者の足を狙う。

 空気がバチバチと焦げ、重力そのものがねじれる。


 ルナテミスは踏み込む。

 右腕を大きく引き、肘を叩き込む。

 

「はぁっ!」

 肘打ちが魔方陣の中心を砕き、呪文の光はガラスのように散った。

 鎖は霧のように消える。

 勇者ルナテミスの周囲の魔力が逆流し、爆風が二人の髪を吹き乱した。


 エリザシュアは一瞬だけ息を呑み、次の詠唱を紡ぐ。

「ジャルナ=レク・ジオ=メルト・ファルダァァト!」

 壁という壁が変形し、無数の石柱が槍のように飛び出す。空気の塊が押し寄せ、床がひび割れる。


 ルナテミスは横に身をひねり、肘で一撃。

 衝撃波のような破砕音とともに、石槍は粉々に砕け、紫の粒子だけが残った。


 彼女の肘は、剣よりも正確に魔術陣の急所を突く。


「くっ……っはぁ……」

 魔女は肩で息をしながら、なお呪文を重ねようとするが、勇者の目は鋭く光っていた。

 部屋の空気は、熱と魔力の軋む音で満ちている。


 燭台の火が揺らぎ、影が壁じゅうに乱舞していた。


 魔女エリザシュア・ルミナは唇を震わせ、執念が篭った長い呪文を吐き出す。


「リグリン=ヴァラン・ゼルカ=アルシェ・カルマ=ヴェルトォォ!」


 床に描かれた魔方陣が深い緑に輝き、黒ずんだ蔦が地面から無数に伸び出した。

 

 蛇のように蠢くその蔦は、瞬きする間に勇者の両脚へ絡みつき、膝から腰まで締め上げる。

 足元から骨が軋むような圧力が伝わり、腐臭を帯びた緑の棘が皮膚に食い込む。


「ぐっ……!」


 勇者は一瞬足を止め、身をよじる。


 蔦は生き物のように絡みつき、逃げ場をなくしていく。

 さらに魔女の声が追い打ちをかけるように響く。

 

「動けないでしょう? その蔦は“生命力”そのものを喰らう……貴方の体から力が抜けていくのが分かるかしらぁ!」

 蔦の棘がじわりと赤黒い光を放ち、勇者ルナテミスの靴の下から床までが波打つように軋む。


 対する魔女エリザシュアも肩で大きく息をつき、指先の震えを隠せなかった。

 長年溜め込んだ憎しみが燃料となっているとはいえ、体は限界に近い。


 狭い部屋の空気が、熱と魔力でひりひりする。

 二人の荒い呼吸音だけが、重い静寂に吸い込まれていった。

 

 

 ◇ ◇ ◇


 ――とある小学校の、昼休みのチャイムが鳴った。

 教室のざわめきの中、俺は震える手でノートの束を机に置いた。

 

 昨日、夜更かしして描いたばかりの“最新作”だ。

 戦う少年。裏切りの友。最後に散る覚悟の笑み。

 自分では、これが最高傑作だと思っていた。


「見てくれよ、これ。俺の新しい漫画!」

 俺がそう言って差し出すと、数人のクラスメイトが集まってきた。

 ページをめくる音。

 

 次の瞬間――爆笑。


「なにこれ、意味分かんねぇ!」

「主人公の服装、ダサすぎだし!」

「面白くなさすぎて笑えるんだけどッ!」


 その言葉に、心臓の奥がズキリと鳴った。

 でも、負けたくなかった。笑われたくなかった。


「……いいもん! お前たちなんかに理解できなくたっていい!

 俺は絶対に――漫画家になってやるんだから!」


 強がってそう言い切った。

 

 でも、それは悲鳴のような声だった。

 皆は笑いながら、サッカーボールを抱えて校庭へ出ていく。

 教室には、昼の光と、静寂だけが残った。


 机に突っ伏すと、目の奥がじんわり熱くなる。

 笑い声が遠ざかっても、胸の奥でその音が残響していた。


 ――そのとき。


 「わはっははは!」

 ふいに別の笑い声が聞こえた。

 

 振り返ると、窓際の席で、ひとりの少女が俺の漫画を読んでいた。

 髪に光を受けたその横顔。

 

 彼女は、俺――田島修一のたったひとりの幼馴染。

 名前は、エリ。


「……お前まで、笑うのかよ、エリ」

 思わず声が震える。

 彼女は顔を上げ、ぱっと花のように笑った。


「当たり前じゃん! こんなに面白い漫画、初めて読んだんだもん!」


 胸の奥が、何かに弾けた。

 信じられなくて、でも嬉しくて。

 

 するとエリは真剣な顔でページを見つめながら言った。


「ねぇ、もしかしてこのシーンってさ……こういう意味なんじゃない?」


「……おおっ、よく気づいたな! そうそう、実はな、主人公にはこういう裏設定があってな――」

 

 気づけば、涙が乾いていた。

 嬉しくて、言葉が止まらなかった。

 

 彼女こそ、俺の“唯一の理解者”だった。


 それから何年か経って、親に怒鳴られた夜があった。

 「だから、漫画家なんて職は不安定すぎて、食っていけないって言ってるだろ!」

 机を叩く音。泣きたいほど悔しかった。


 でも、その夜も。

 電話越しに、エリが言ってくれた。


「大丈夫、大丈夫!

 絶対に、修一くんは漫画家になるんだから。……いや、なってやろうぜっ!」


 その声に、俺は救われた。

 だから、訊かずにはいられなかった。


「……どうして、そこまで俺の漫画を好きだと言ってくれるんだ、エリ?」


 少し考えて、彼女は笑った。


「うーん、なんていうかね――修一くんが描く世界は、本当に“愛”が籠ってる感じがするんだ」


 その言葉が、心に灯をともした。


 だから、描き続けた。

 彼女が信じてくれている限り、諦めることはできなかった。


 高校最後の春、桜が散り始める夕暮れ、俺はとうとう決心した。

 

 駅前の公園、二人でよく座ったベンチで、今日こそは伝えよう。

 

 ──「エリ、俺、おまえのことが好きだ」って。

 

 胸の奥でその台詞を何度も練習しながら、花束を握りしめて待っていた。

 

 彼女は学校帰りに、合唱団の練習を終えて自転車でここに来るはずだった。

 いつものように人懐っこい笑顔で現れて、「修一くん」って呼んでくれるはずだった。


 だが、彼女は来なかった。


 =


 ──その頃、エリは踏切の手前にいた。

 

 信号が点滅し、警報機が鳴り始め、遮断機が下りかけている。

 

 そこに、年端も行かぬ小さな女の子が、うっかり線路内に転び込んだ。

 周囲の大人は驚いて動けなかったが、エリだけは反射的に走り出していた。


 カンカン、カンカン――踏切の警報音が耳を突き刺すように鳴り響く。


 「大丈夫、絶対に助ける……!」

 彼女はまず第一に、非常停止ボタンに手を伸ばすも、故障のせいか作動せず。

 カンカン、カンカン――音が鼓膜を突き破るように鳴り続ける。


 慌てながらも次の策、子供に駆け寄り抱き上げる。

 

 背伸びをして買ったヒールのせいで足元で不安定になり、つまずいて転倒。

 この子だけでも、と彼女は遮断機の外に押し出した。

 

 列車のライトが迫る。

 「修一、くん……」

 轟音とともに、エリの声はかき消される。

 

 =

 

 ――何か街が、慌ただしい。

 胸の奥がざわつくような違和感を覚え、俺は慌てて騒ぎの方へ駆け出した。

 

 現場にたどり着くと、人々がざわめき、何か重大なことが起きたことを示していた。

 血の気が引くような感覚に襲われ、恐る恐る視線を下げる。


 そこには、彼女が「バイト頑張って買ったんだ!」と自慢げに語っていたヒールが地面に転がっていた。

 微かに光を反射し、まるで笑うかのように無邪気にそこにある。


 すべてを悟った。

 

 ――エリはもう、この世にいないのだと。

 

 俺の胸に、言葉にならない衝撃と、凍りつくような喪失感が一気に押し寄せた。

 思わず膝をつき、手を震わせながら、残されたヒールをそっと握りしめる。

 

 その瞬間、彼女の笑顔や優しさ、そして誰かを守ろうとしたあの日の勇気が、胸に鮮明に蘇った。


 世界の色が抜け落ちる音を、俺ははっきりと聞いた気がした。

 

 一番の支えが消えた。

 彼女がいない世界で、これ以上どうやって生きればいいのか分からなかった。


 だから衝動的に俺は、ペンを握った。

 

 紙の上に、震える線を引き始めた。

 

 エリの笑顔を、声を、癖を、好きな花を、ひとつひとつ思い出しては、丁寧に描いていった。

 

 ――その輪郭は、いつしか大魔女エリザシュア・ルミナという姿になっていた。


 彼女がひとりで寂しくないように、今度こそは何があっても護ってあげられるように──俺はもう一人キャラクターを描いた。

 

 エリを救い、導き、隣に立ち続ける強く優しい兵士。

 彼は自分自身の勇気や理想を投影した存在だった。

 

 名前はオサム。

 俺がなれなかった“もう一人の自分”だった。


 気がつけば、紙の上の世界に“エリザシュア”と“オサム”がいた。

 生前には決して言えなかった想いを、今度こそ守ってやりたいという祈りを、物語に託して。


 今思えば、エリが死んだことの、現実逃避がしたかったんだと思う。

 だが、その甲斐あって、俺に生きる意味が生まれた。


 絶対にこの物語を、輝かせるっていう。


 ――まぁでも、輝くことはないんだがな。




 ◇ ◇ ◇


 


 「そんな、創造主様はオサムくんの原型……?」

 

 真実の痛みが胸を締めつけ、魔女エリザシュア・ルミナの瞳は虚ろに揺れていた。

 狂気と絶望が渦巻き、体はまるで意思を失ったかのように微かに震えている。

 息も絶え絶え、かすれた呼吸だけが舞台に響く。


 俺は涙で視界を滲ませながらも、彼女の目を見据える。

 心の奥底で、もう言い訳はしないと決めた自分を確かめるように、ゆっくりと声を震わせ、しかし力強く言った。

「あぁ。そして、エリはお前の原型だ。エリザシュア」


 その瞬間、魔女の中で何かが決壊した。

 血走った瞳が見開かれ、喉の奥から絞り出すような叫びが迸る。


「――違うッ! 違う違う違う違うッ! そんなの認めないッ!」

 手を振り乱し、空気が悲鳴を上げる。魔術陣が彼女の周囲に乱立し、火花が散る。

「たとえ本当に、そうだったとしても……

 お前なんてッ……お前なんて、生きてちゃいけないのぉ……ッ!」


 息が詰まり、喉が裂けるような声。

 「死ね……死ね……死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇええええええええッ!」

 

 涙と唾が舞い、髪が乱れ、紅い魔力が肌の下を脈打つ。

 その言葉の刃が胸に突き刺さるように痛む。

 体を包む空気すら重く、周囲の魔術の残滓がざわめく中、彼女の憎悪が実体化するかのようだった。


 俺は一歩ずつ、慎重に、しかし確信をもって進む。

 双剣を壇上の地面へと投げ捨て、震える足取りでエリザシュアの前へと近づいていく。


 「……あぁ、たしかに俺は、お前たちを見捨ててしまった」

 

 ――その言葉を吐き出した瞬間、胸の奥で何かが砕ける音がした。

 

 視界の端に、あの日の絵が、キャラクターの笑顔が、黒く燃え落ちていくのが見える。

 彼ら彼女らの気持ちを考えると、逃げてしまいそうになる。

 

 けれどいまは、目の前で震えるエリザシュアから、視線を逸らせなかった。

 喉が締めつけられ、息がうまく吸えない。けれどこの一言を口にしなければ、ずっと逃げ続けることになると、骨の奥でわかっていた。


「……死ぬべき人間だ……」

 

 ――唇の内側を噛みしめる。

 

 血の味が広がる。胸の奥にこびりついた罪悪感が、刃のように内側から刺さってくる。

 

 怖い。怖くて仕方ない。それでも、今度こそ目をそらさないと決めた。

 震える膝を押さえ、拳を握り、ゆっくりと彼女に一歩ずつ近づく。


 「でも。いいやだからこそ、生きなくちゃならないんだ」


 ――ひゅう、と肺の奥まで空気を吸い込み、震える両手を胸の前に持ち上げる。

 

 肩が小刻みに上下し、足元がぐらつく。今さら許されないのはわかっている。

 罵声も呪いもすべて背負う覚悟はある。

 それでもなお、ここで終わらせたくない、終わらせてはいけないという声が、心の底からせり上がってくる。

 小さな火花のような決意が胸の奥で弾け、声に力を与える。

 

「生きて、生きて……」


 ――言葉を繰り返すたび、自分に言い聞かせるように、祈るように、ひび割れた胸の奥に響く。

 

 頭の中に浮かぶのは、遊園地で笑っていたモルフィーナの顔、命がけで救った来場者の歓喜に満ちた瞳、そして泣き笑いしながら空中ブランコを成功させたピエロの姿。

 そのひとつひとつが胸を突き刺し、逆に背中を押す。ここで止まったらまた全員を失う。二度と繰り返したくない。


 「お前たち全員を、今度こそ幸せにするためにッ!」 


 ――最後の一言は、もはや叫びというより胸から迸った衝動だった。

 胸の奥に渦巻いていた恐怖と後悔が、少しずつ熱に変わり、確かな決意の塊となって両の手の中に宿る。

 

 「だからもう一度俺を、信じてくれッ――!」

 

 俺の瞳にはもう迷いはなく、力強い一歩でエリザシュア・ルミナのもとに歩を進める。


 魔女エリザシュアの手が閃き、暗黒の魔術が飛ぶ。

 

 しかし攻撃は俺の足元をかすめる程度で、体には届かない。

 彼女は怒声を上げながらも、その目には迷いの光が瞬く。

 

「どうせまた……わてちしたちを裏切るんでしょ……?」

 

 その声は震え、憎悪と不安が混ざり合い、空間に切れ込みを作る。

「またわてちしたちに、甘美な夢を魅せてから、容赦なく悪夢へと誘うんでしょっ!?

 ねえ、答えてくださいよ……!」


 俺の喉まで、何かが込み上げてくる。

 

 否定の言葉か、言い訳か、謝罪か。

 だが――何ひとつ、うまく声にならない。

 

 何を言ったとして、それには何の意味もないと思った。

 これから俺がすべきことは、言葉なんていう軽薄なものではなく、行動という確固たる存在で示していかなければならないのだ。

 

 ――だから俺は、魔女エリザシュア・ルミナの小さく震える体をそっと抱きしめた。


 俺の胸に彼女の頭がもたれ、息が触れ合う。

 

 心臓の鼓動が二人の間で共鳴するように聞こえ、時間がゆっくりと止まったかのように感じられる。

「今度は間違えない、見捨てたりなんかしない。

 だから、信じてくれ……エリ」

 その声は低く、揺るぎない決意で満ちていた。

 

 先ほどまではエリザシュアの体が震えていたのだが、どういうわけか収まっていく。

 最初はぎこちなかった。


 だが、次第に力を抜き、心を委ねるように俺の腕にしがみついた。

「修一くん……」


 涙が頬を伝い、重く沈む胸の氷が少しずつ解けていく。

 

 彼女の呼吸が徐々に落ち着き、荒れ狂っていた感情が波紋のように広がって静まる。

 俺はその小さな体の重みを感じながら、自分が守るべきものを確かに抱きしめていることを実感する。


 ――舞台の空気が、ふっと変わった。


 最初は、ひとり、ふたり。

 

 やがて、波のように観客席全体へと広がる。

 どこかで誰かが立ち上がり、ゆっくりと手を打ち鳴らす音が響く。

 パチン、パチン……その拍手は次第に増え、重なり、うねり、ついには嵐のようなスタンディングオベーションとなって劇場を揺らした。


「……え……?」

 俺は思わず振り返った。

 

 先ほどまでは恨みと怒りの顔だった者たちが、今は涙を浮かべ、手を叩いている。

 中には拳を握りしめたまま、視線を逸らしながらも拍手を続ける者もいる。

 全員が完全に、赦してくれたわけではないだろう。だが、確かにそこに変化があった。


 そのときだった。足元に違和感が走る。

「……っ」

 

 俺は視線を落とし、自分の足を見た。

 輪郭が淡く光り、まるで砂になって風に流されるように消えかかっている。

 膝から下が透け、舞台の板の目が透けて見える。血の気が引く。


 魔女エリザシュアが俺の腕を掴んだ。

「心配なさらないでください……」

 囁く声は、まるで壊れそうな硝子を包むように優しい。


 「これは、あの子――モルフィーナや、その他の方々……そして、貴方の覚悟を見届けたことで……。

 観客たちの、貴方への憎しみが……薄れていき、この没世界から――退場しようとしているだけです」

 その言葉に、空間が微かに揺れた。

 まるで霧が晴れるように、舞台の周囲から影が消えていく。


 エリザシュアは小さく息を吐き、続けた。

 「……完全に、全員の憎しみが晴れたわけじゃありません。

 けれど――貴方の信念が届いて。ほんの少しだけど、小さな一歩ではあるけれど……」

 彼女は微笑んだ。

 涙に濡れた瞳の奥に、淡い光が宿る。


 「――もう一度、貴方を信じようとしているんです」


 彼女の瞳はまだ涙に濡れているが、その奥にあるのは、もう狂気ではなかった。

 胸が締めつけられる。

 

 ――……そうか……俺を信じてくれている。信じようとしてくれている。

 

 俺は喉の奥で声にならない声を飲み込み、震える手を胸に当てた。

「だったら……その気持ちに俺が応えなきゃな……」

 

 俺は息を整え、まっすぐ観客席を見渡した。

 創造の筆を取り出す。

 

 しかしそのとき、魔王ディアーナが、低く、しかし厳しい声をかけてきた。

「その目……創造主様、まさか全員に“神の御業”を行うつもりですか?」

 俺は頷いた。

「当たり前だ……俺は、あいつらを見捨てた。今度こそ、救わなきゃならない」


 魔王は眉をひそめる。

「はっきり申し上げさせていただきますと、その所業は愚挙に他なりません。

 きっと創造主様が思っている以上の“代償”が待っている。ひとりやふたりではないのですよ? 

 この劇場に満ちる魂全てに――など……」


 俺はゆっくりと息を吸い込み、魔王の赤い瞳をまっすぐ見た。

「それでいいんだ……。

 あいつらが、長い年月、どれだけの苦しみを味わってきたかに比べれば……何てことない」

 その声は震えていなかった。


 魔王の瞳が一瞬だけ揺れた。ため息のように小さく吐息を漏らし、肩をすくめる。

「……それでこそ、我らが救世主にして創造主様、田島修一」

 魔王はそう言い、どこかに去っていく。


 俺は目を閉じ、胸の奥で確かな決意を燃やす。

 俺は、空に光の線を描き始めた。

 

 そしてその指先が刻む軌跡によって、”とある”理論が構築される。


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