第13話 豹変
俺たちは魔女エリザシュア・ルミナの後ろをついて、洋館の廊下を進んでいく。
しかし進むたび、目に映る景色が微妙に歪むのを感じる。
床の模様が波打ち、壁の額縁が揺れ、天井のシャンデリアが微かに回転しているように見える。
最初は目の錯覚かと思ったが、魔女の後ろをついていく俺の足元で、床がほんの一瞬沈み込むように弾み、慌てて踏みとどまる。
「ふふ、油断なさらぬように」
エリザシュアはそう言って、小さく笑う。
その笑みにはどこか子供じみた可愛らしさがありながらも、凶暴な刃物のような冷たさが潜んでいる。
振り返っても俺に合わせて歩くことはなく、常に堂々とした一歩先を歩いている。
その後ろ姿は、どこか幼気な少女のようであり、同時に人間を翻弄する魔女そのものだ。
廊下の壁から突然、透明な糸のような光が立ち上がり、俺たちの進路を遮る。
見た目は細い光の線に過ぎないが、触れれば氷のように硬く、そして鋭い痛みを与えそうだ。
勇者ルナテミスは片手をかざして光を払いのけ、俺を軽く制しながら進む。
「ここは魔女であるわてちしの領域。油断すれば一瞬で命を落としますからどうかお気をつけてくださいませ」
さらに進むと、廊下の一角がぐにゃりと曲がり、まるで地面が生き物のように蠢く。
俺は思わず膝を折り、バランスを取ろうとする。
背後からシャーリアが柔らかく「創ちゃん、気をつけてにゃ」と声をかける。
魔女の後ろをついていくこの感覚は、まるで迷宮の中を歩いているようだ。
天井からは突然、透明な氷の破片が落ちてきて、俺の頭上をかすめる。
氷の破片はエリザシュアの指先の意志のように、落ちる軌道が計算されている。
ここで不用意に頭を上げれば直撃だ。俺は思わず身をかがめ、氷の軌道を目で追う。
ルナテミスらも神経を研ぎ澄まし、鋭い目つきで進路を探る。
廊下の途中、壁に仕掛けられた鏡が、俺の姿を何重にも歪めて映す。
目に映るのは、俺が知らない自分――恐怖で顔が引きつり、肩が硬直した姿だ。
背後を振り返る勇者の背中も、シャーリアやグラウスの動きも、少し大きく見えたり小さく見えたり、まるで時間と空間の感覚までがねじれている。
「……とんでもないトラップの数だな……?」
俺は小声でつぶやく。
魔女は振り返らず、ほんのわずかに肩をすくめるだけで答える。
「ふふ、ちゃんとこちらに、ついてきてくださらないと、すぐにお命が危うくなる場所もございますのよ」
その声は、まるで可愛らしい少女の囁きのようで、だけど背後からは確かに刺すような冷気が漂う。
俺は思わず「おいおい」と心の中で呟く。
彼女の姿を見つめると、やはり異質だ。
氷のように透き通った白い肌、深い緋色の長髪。
澄んだ月の光を思わせる長い睫毛がまつげの先でほんの少し跳ね、澄んだ月の光を思わせる瞳。
そしてエルフを象徴する長い耳。
彼女の装いは深い黒と紫を基調にしたゴシック調のドレスで、腰から裾にかけては細かいレースとフリルが幾重にも重なり、まるで闇夜に咲く花のように繊細で妖艶な印象を与える。
胸元には小さな紫水晶のネックレスが飾られ、微かに光を反射して冷たく光る。
肩から袖口にかけては透けるオーガンジーが重なり、風に揺れるたびに淡い影が彼女の肌を彩る。
ボンネットには黒いレースのリボンと小さな銀の鎖飾りが絡み、片側には精巧なくまさんのブローチが留められている。
彼女の佇まいは、静謐でありながらも微かに危うく、優雅さの中に刹那的な狂気を感じさせる――そうそれはまるで夜の薔薇が香りと棘を同時に放つかのように。
廊下を抜けると、ようやく洋館らしい部屋にたどり着いた。
窓の外には凍った庭の一部が見え、雪の光が薄暗い室内に柔らかく反射している。
暖炉には火が灯され、赤橙色の炎がゆらめき、壁にかかった肖像画の影を揺らしていた。
火の熱は控えめだが、凍てついた北の森を進んできた俺たちの身体を本物の暖かさでホカホカにしてくれる。
部屋の中央には、重厚な長テーブルが置かれ、椅子はすべて背もたれの高いものだ。
魔女エリザシュアは優雅に歩きながら、手をかざすだけで室内の空気を和らげる。
さすがだ……と思わず感嘆する。彼女の存在は、まるでこの洋館そのものが生きているかのように、すべてを包み込む力を持っている。
そして、魔女は指先を軽くひねっただけで、目の前の机の上にお菓子や紅茶がふわりと現れる。
色とりどりのマカロン、湯気の立つ紅茶、チョコレートケーキ――まるでお茶会を催すためだけに存在するかのような完璧な光景だ。
「どうぞご自由に召し上がれ。お腹も心も満たしてからお話しましょう。
といいますか、わてちしのお腹がぐぅぐぅ言っているだけなのですけどね」
彼女の声は上品で澄んでいるが、やはり愛らしい。
俺は目の前の光景に思わず息を飲みながら、手を差し伸べて紅茶を口に運ぶ。
甘く香ばしい香りが鼻をくすぐり、ほんの一瞬、外の雪山や凍った森の恐ろしさを忘れさせてくれた。
勇者ルナテミスは、俺の隣で少し眉をひそめつつも、お菓子を頬張る。
そして、お菓子の美味しさに気づいた彼女は、目を輝かせながら両手両足を使い、お菓子を口の中へと押し込み、胃で溶かす。
シャーリアやグラウスも、魔女の手際の良さに感心した表情で、お茶会を有意義に過ごす。
俺はその光景を見ながら、エリザシュアが、ただの冷酷な魔女ではないことを改めて思い知る。
ようやく、話の本題に移る。
魔女はすでに俺たちが来る理由を理解しているらしい。
「……貴方がたが、こちらにいらっしゃった訳は分かっております。
終焉の穴を塞ぐ旅に、わてちしを同行させたいのでございましょう」
その声には、敬語と知性に満ちた上品さがある。
「世界救世の為に、わてちしに出来ることがあるのならば是非とも協力させていただきたいですが……
この森の終焉の穴をどうにかして塞がない限りは、そのお誘いに頷くことも断ることもできません。
ですので、もう少しだけお返事を待って頂けないでしょか」
「それは我らも理解している。そして尽力するつもりだ」
ルナテミスは少し笑顔を見せながら、そのような言葉を発する。
俺は少し考え込みつつも、「そういえば……」と続けてこう尋ねる。
「エリザシュア、『氷結の月影林』に存在する終焉の穴の場所は、もう突き止めているのか?」
「その質問を待っていました」と言わんばかりの表情をする魔女が指を軽く鳴らすと、その瞬間、机と椅子はそのままの状態で、吹雪の舞う雪山へと転移した。
目の前の空間が凍てつき、耳を刺す風が吹き荒れる。
「あちらに見えますのが、『氷結の月影林』においての終焉の穴でございます」
そういってエリザシュアが指示した指の先へと、一同は視界を向ける。
眼下を見下ろすと、少しくぼんだカルデラのような地形に、大きな穴が口を開けているのが見える。
白銀の雪に囲まれたその場所だけが異様に黒ずんで、空気まで重く感じる。
「ん? なんだあれは……?」
しかしその時、視界の端に異変を見つけた。雪山から森全体を俯瞰してみると、
ナニカ――門番らしき化け物が氷漬けにされているのだ。
門番による終焉の穴の力が、この森を凍らせたはずだ。
……だというのに、なぜ動けずに氷に閉じ込められているのか。
俺は眉をひそめ、頭の中で考えを巡らせる。
「……おかしい……。
皆、あれを見――――」
「修一!」
そんな俺の声が、勇者ルナテミスの声によってすぐさま搔き消される。
その瞬間だった。
空気が、視界が、まるで重力を失ったかのように歪み、俺の体は自分の意思で動かせなくなった。
全身を何か透明な、だが鉄よりも重く鋭いものが縛るような感覚。魔術の鎖に捕らえられた――そう直感した瞬間、背筋が凍る思いだった。
「先ほどの返事を待たせてしまっていたので、ここで返させていただきましょう!」
魔女エリザシュア・ルミナの声が、まるで氷の中で反響するように響く。
上品な抑揚を持ちながらも、言葉の端々には鋭利な刃のような威圧感が刺さる。
「だれが、てめぇらみたいなやつに協力するかよ、ヴァーカァあああ!!!」
俺はその声と同時に、視界に映る彼女の顔を見て、思わず息をのんだ。
目の光はこれまでの可憐な輝きではなく、獣のように狂気に満ちている。
瞳孔は鋭く開き、口元は歪み、牙がほんの少し見えるかのような凶悪な表情。全身から滲み出る圧力が、俺の胸を押しつぶす。
「な、何をしているんだ……エリザシュア……どうして、そんな……そんな顔を……」
自然と声が震える。
俺の描いた設定では、エリザシュアは普段は温厚で、くまのぬいぐるみを抱いて微笑む、争いを好まぬ可憐な少女だった。
だが魔術に関しては比肩する者がなく、世界随一の知識と腕を持つそんなキャラクターでもあった。
だが今、目の前の魔女の姿は、そのどれとも違う。
狂気そのもの。
俺を見つめる目には、冷酷さ、怒り、悲しみ、そして底知れぬ悪意が渦巻いている。
周囲を見ると、勇者ルナテミスやシャーリア、グラウスは必死に身体を動かし、俺を救おうとしている。
しかし、彼らの身体は鉛のように鈍く重くなっており、俺に救いの手が刺し伸ばされないことを直感で理解してしまう。
――そうだ。
さっき食べた甘いお菓子に何か仕込まれていたはずに違いない。
「|К черту!(ク チョルトゥ!)《地獄へ落ちろ!》
また逢う頃までに――創造主様の形が、まだ存在の輪郭を保っているといいですねっ!!」
エリザシュアは、そうルナテミスたちに吐き捨てる。
そして指を鳴らす音が聞こえると、空間が一瞬にしてねじれた。
重力が狂ったかのように俺の体が宙に浮き、次の瞬間、先程までいた洋館の室内に投げ出された。
雪山の吹雪も、終焉の穴も、遠くに消え去り、目の前には温かい室内の空気がかすかに漂う。
だが体はまだ縛られ、自由は完全には戻っていない。
「な、なぜ……なぜこんなことを……。
お前は、空気さえも生物と同じように扱う、繊細で可憐な心優しき少女なはずじゃなかったのか……!
答えてくれ、エリザシュア!!」
彼女は俺を見つめ、ほんの少し悲しげに顔を歪める。その瞳には、狂気と哀しみ、諦観めいた光が混じっている。
「だとしたら、そんな少女を変えてしまったのは――てめぇだろ、創造主様ァ?」
その一言に、言葉が喉に詰まる。胸が痛い。思わず目を伏せる。
――あぁ、そうか。
これまでになかっただけで、こんなことは想像できていたはずじゃないか。
創造主である俺を、殺したいほど憎んでいるやつがいないわけない、って。
だって、俺がこの世界を放棄することにより、終焉の穴が生まれた。
世界が崩壊した。
例えば、大切な存在が、そのせいでいなくなっていたとしても……
そのせいで、俺への憎しみが煮立っていたとしても、何の不思議もない。
恐らく、エリザシュア・ルミナは、今の今まであえて温厚な振りをして、信用させていたんだ。
すべては、俺への憎悪を発散し、いずれは死へと至らせるために。――
魔女エリザシュアはそのまま、ゆっくりと、だが威圧的に俺を見下ろす。
狂気に満ちた少女の笑みと哀しみが入り混じった表情に、恐怖と自己嫌悪が入り混じる。
洋館の壁の奥から、かすかに火の灯が揺れる。
暖炉の炎、家具の影、温かさすらもこの彼女の狂気に呑まれそうになる。
俺は深呼吸をして、なんとか心を落ち着けようとする。
だが、胸の奥の緊張は解けない。
エリザシュアは軽やかな手つきで、空気をかき回すように指先を振った。
見えない糸が何本も絡み合い、俺の四肢をがんじがらめに縛り、ゆっくりと宙に持ち上げる。
重力が消えたように体が浮かび、足元の床が遠ざかる感覚に胃の奥がきゅっと縮む。
「……っぐ……っ!」
思わず声が漏れる。全身が硬直し、血管の中を何か冷たいものが流れていくようだ。
重苦しい空気の中、エリザシュアは大きな机の上に分厚い古書を置いた。
革張りの表紙に無数のルーンが刻まれ、封印を解かれた魔力が淡く脈打っている。
ページの間から黒い風が漏れ、部屋中に甘ったるい香りと焦げたような臭いを漂わせた。
「安心しろ、すぐには殺さねえで、あげるからよ」
彼女は笑いながら言った。いつもの上品な抑揚はそのままに、吐き出す言葉だけが汚く荒い。
「じっくりいたぶってから、死に追い込んでやるからよ。
まあ、あっちの世界には今すぐにでもてめぇを殺したいやつが、うじゃうじゃいるから、そこんとこ頑張りなー」
エリザシュアはその言葉を口にしたあと、ふと少し考え込む。
「……いやぁ、こんな高圧的な態度だと創造主様も、やる気が入らないかもな~」
そして、先ほどまでの愛くるしい口調で、言葉を一部訂正する。
「創造主様ぁ! がんばれ☆彡! がんばれ☆彡!
ちゃんとこの世界に戻って来られることができたら、いっぱい、いーっぱぁいご褒美あげちゃうかもですよ☆彡!!」
その言葉が終わると同時に、古書がまるで巨大な渦のように口を開ける。
強烈な吸引力が俺の体を引っ張り、骨まで軋むような圧力が襲いかかる。髪が逆立ち、視界の端が白くちらつく。
「くっ……まだ……っ!」
必死に抵抗する。手を伸ばし、爪を立て、空気を掴むようにして身体を支えようとするが、見えない力はどんどん強くなる。
「……おい、エリザシュア。ひとつだけ聞かせてくれ」
渦に呑まれる寸前、俺は声を張り上げた。
「この森が氷漬けになっているのは門番のせいではなく、お前がやったことなんだな……!」
魔女は一瞬、眉をひそめ、指先の動きを止めた。
「えぇ、そうですよ。門番を凍らせることで被害を最小限にしようとしました。
制御がうまく行かず、この森全土を、凍らせることになってしまったのですけれど」
口元に浮かぶ笑みはいつもの狂気じみたものなのに、声の調子だけがかすかに柔らかい。
そして俺は自身の記憶を整理するため、つい呟いてしまう。
「……それで、オサムも凍らされていたのか」
――オサム。こんなときに思い出してしまった彼の名前。
魔女の洋館に赴く際に遭遇した、腹を裂かれたまま氷漬けにされていた青年。
そして、魔女エリザシュア・ルミナの……
魔女は、俺が「オサム」の名を口にした途端、もう一段階人が変わったかのように怒りの表情を見せる。
「お前ェぇぇが、あの人の名を口にすんじゃねえええぇぇええ!!」
その言葉と同時に、古書が巨大な渦を開け、俺の体を飲み込んでいく──
渦に呑まれる直前、俺は最後の力を振り絞って叫んだ。
「待っていろ、エリザシュア! ちゃんとまたここに戻ってきて、そんで、ちゃんとお前にすべて謝るから!」
その言葉を聞いた瞬間、エリザシュアの表情がわずかに揺らいだ。
狂気と残酷さに覆われていた瞳の奥に、一瞬、幼い頃のあどけない光が戻る。
彼女の指先が小さく震え、目元にかすかな陰りが走った。
次の瞬間、俺は完全に書物の中へ呑み込まれる。
渦は閉じ、風は止み、部屋に再び静寂が戻る。
エリザシュアはしばらく机の上の書物を見下ろしていた。先ほどまでの鋭い笑みは消え、唇がかすかに震える。
「……修一、くん……?」
その声は誰にも聞かれず、暖炉の火にかき消されるように消えていった。




